3・忠義と愛情
火花はすぐに、石段を降りようと駆け出した。
咄嗟に雅臣は、その火花の腕を掴む。
目に見えて焦燥に駆られる火花に、雅臣は強く言葉をぶつけた。
「分かってるか」
動揺に揺らぐ火花の紅を、夏の光の下、雅臣は真っ直ぐ捉えた。
「宵華宮さまが動いたのなら、相手は帝国軍だ」
火花の腕の振動が、手のひらを伝い、雅臣にも伝わった。
「それに弓を引けば、お前は」
そこで雅臣は言葉を切った。
皇族に絶対の忠誠を誓う黒宮の長女が、帝国軍に逆らい、暗殺未遂を犯した首謀者を助ける。
その意味が分からぬほど、火花は愚かではない。
「……わかってます、でも」
火花は目線を下に落とした。陽光が反射する白い石畳は、目に痛くてたまらない。
体の震えは増大していき、声までも侵食されていく。
「濡れ衣なんです!」
「それはもちろん、わかってる」
雅臣は火花の動揺が伝染しないよう、あえて、努めて、冷静に振る舞っているようだった。
表舞台から徹底して姿を隠していた、宵華宮が今ここで、なぜ。
火花の脳に、疑問が湯水のように湧くが、答えはここにない。
「捕えるなんて名目に決まってる」
火花は唇をぎりりと噛む。血のぬるりとした感触が、冷たい現実を突きつけるようだった。
藍川蘭子がこの件に噛んでいるのは間違いない。
自分の父だという宵華宮も、あの女と繋がっているのだろうか。
「どさくさに紛れて、玲を殺すつもりですよ!」
直感だった。けれど、間違いないと思った。
蘭子の殺意と狂気は本物だ。
火花は怒りと狼狽で、上手く回転しない頭を鬱陶しく思い、首を激しく左右に振った。
雅臣は掴み続けていた火花の腕を放した。
やがて火花は夏の空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐く。
火花の出した結論は、やはり、変わらなかった。
「行きます」
彼女の震えは止まっていた。
靄が晴れた思考に、視界まですっきりと明るくなったようで、木々の葉の緑が生き生きと鮮明に火花の網膜に映った。
「ごめんなさい、殿下」
火花は口の端を歪めた。
せっかく止めてくれたのに、どうしても、出した答えは変わらなかった。
「わかったよ」
雅臣は、瞳を柔らかくしてそう言った。微かな呆れと、諦念と、それら全てを包み込む優しさ。
温かな感情が真っ直ぐ届いて、火花の胸の芯が鼓舞される。
「お前は皇族には収まらないなあ」
雅臣はいつものように、火花の髪を少しだけ荒っぽく撫でた。まとまった火花の黒髪の中で見つけたものに、彼の手の動きが止まる。
藍川邸でひしゃげた簪を、どうしても火花は捨てられなかった。力任せに、無理に叩き直したせいで、黒鉄の芯はあちこち凹んでいる。元通りの真っ直ぐには戻らず、軸は僅かに傾いていた。
それでも、その蛍の琥珀の簪を、変わらず火花は挿している。
「行け」
雅臣が、命じるように強く告げた。
「はい!」
火花は雅臣へ、深く深く頭を下げた。
妹としてではなく、臣下としての態度を取る火花に、雅臣がわずかな寂しさを滲ませて微笑む。
礼を取ったあと、火花は勢いよく顔を上げた。
その深紅の瞳に、もう揺らぎはない。暑い陽光を受けて、強く、鮮やかに輝いている。
火花は石碑を背にして、石の階段を駆け降りて行く。
その迷いない背中を、雅臣は見送った。
火花の背中が見えなくなる。
行ってしまった、と雅臣は思った。
ここで引き留めることが、正解だったのだろうか。
なんとかして火花を言いくるめて、この場に残らせて。玲を見殺しにすれば、そうすれば、火花の身は守られただろうか。
「無理だな」
雅臣は、高い空の下でカラカラと笑った。
そんなことをしても、あの愚直で苛烈で可愛い妹の心が死ぬだけだ。
心が死んで、やがて身も滅ぼすだろう。
「これで、良かったのでしょうか。母上」
白く美しい石碑に向かって、雅臣が小さく呟く。
檜の間に紛れる桜の木が、風に揺れる。瑞々しい青葉が、応えるようにざわめいた。
「さて、俺のやるべきことをやろう」
雅臣は金髪を掻き上げて、額に浮かんだ汗を拭う。石段の下に控える自身の侍衛達の元へ、勢いよく駆け出した。




