3・魔術と悪戯
木枯らしが肌寒い季節へと移り変わった。
紅苑高等学院の中庭の外れには、ひっそりと古い柿の木が立ち竦んでいる。
黄丹色の見事な実を残した大木の周辺は、昼間でも人気が少なかった。
紫苑玲はそれを知ってからというもの、講義の合間にその幹へ背を預け、静かな読書に耽ることを常としていた。喧騒から離れ、書物の中の英知へ思考を巡らせることが、彼にとっての安らぎだった。
その日も同じように頁を繰っていた玲は、ふと前方からの視線に気付いた。
白い制服姿の三人の男がこちらに歩いてくる。
白い制服は、文科所属の証だ。
先頭の狡猾そうな茶髪の男は、反皇族派筆頭の御曹司だ。
いつも取り巻きとつるみ、黒宮火花や、その友人の拓海に舌戦を仕掛けている。
鳴き声だけは大きいが、飛べもしない出来損ないの雛鳥。
それが、彼らに対する玲の評価だった。
「やあ、オウジサマじゃないですか」
ねっとりとした、嘲りの混じる声音。
三人は足を止めて、揃って嘘くさい笑みを浮かべていた。
玲が滅びた隣国・紫雲国の王子であったことは、公然の秘密である。
今更秘匿する気も吹聴する気もなかったが、こうしてあからさまに嘲笑されれば、不快以外の何物でもない。
玲は感情を表に出さない質だ。
しかし、鈍いわけではない。
むしろ、熱く滾る怒りが、ずっと腹の底で渦巻いている。
「この次もあの生意気な女、とっちめてやってくださいよ」
女とは、他ならぬ黒宮火花のことだろう。
彼女が気に入らないのは玲も同じではあったが、この男が彼女に向ける感情と、自らのそれが同質のものだとは、到底思えなかった。
彼らも、前回の模擬戦闘を見物していたらしい。
「お前たちには関係ない」
玲は刺すように告げて、再び視線を書に落とした。これ以上、会話を交わすつもりがない。
「お高くとまっちゃって」
茶髪がこめかみを震わせながら一歩踏み込み、無遠慮に玲の肩へ手を置く。
耳元で、子供を諭すような声音で囁いた。
「この国で生きていきたいなら、処世術くらい学べよ、オウジサマ」
それは突然の出来事だった。
三人の頭上で、小気味いい爆発音が弾ける。
熟れた柿がいくつか爆ぜていた。
甘苦い香りがふわりと広がり、黄色い果汁が派手に飛び散る。
結果、純白の制服の三人は見るも無残な姿と成り果てた。
顔面も制服も、見事に黄色に染まる。
お互いに顔を見合わせ、みるみる表情を歪ませていった。
玲の制服の袂にもいくらか飛沫がついたが、黒い制服では目立たない。
ちっ、と茶髪が悪態をつく。
玲を睨みつけるが、顔面が黄色く塗られたその不格好さでは、表情の恐ろしさよりも滑稽さが勝っていた。
玲は思わず口元を引き結び、笑いを飲み込む。
三人はそれ以上口を開くことなく、逃げるように足早に校舎の方へ去っていった。
一人取り残された玲は、辺りに充満する香りを吸い込みながら、周囲を見回した。
地面には破砕された柿の断片が散り、頭上にはまだ幾粒か熟れた柿がなっている。
三人の頭上にあった実だけが選んだように破裂し、それ以外の柿は、不自然なほど無傷なことに、玲は気がついた。
明らかに、人為が働いている。
落ちている断片の一つを拾い上げ、じっと見つめる。指先に、ぬるりとした果汁が纏わりついた。
紅の魔術だと、すぐに気がついた。
柿の欠片に、微かな魔力の残滓がある。
僅かだが、間違いない。
玲は周囲をもう一度見回す。
人影はない。
しかし、玲には犯人の正体が、はっきりと分かっていた。
先刻の三人に抱いた苛立ちとは別種の、胸の奥を掻くような不愉快が湧き上がる。
「くだらない」
黒宮火花の、そういう所が鼻につく。
強力な魔力を持ちながら、わざわざ瞳の色を誤魔化してまで、それを隠している。
玲には、その理由が見えない訳ではない。彼女が抱えている恐れは想像がつく。
それでも、玲には許せなかった。
かつて、玲は全ての力を絞り切っても守れなかった。
必死に手を伸ばしても、父も、国も、消えた。
息が止まるほどの痛みと後悔が、彼女を見るたびに蘇る。
彼女は、強い。
だがその強さは、もっと遠くまで届くはずだと、彼女自身も分かっているはずなのに。
剣技のみで全てを守れると、信じ込もうとしている火花が、愚かに見えて我慢ならない。
あの灼ける夏の日、膝をついて悔しさに唇を噛んだ彼女に、思わず言葉を投げたのは、玲らしくはなかった。
けれどあれは、願いでもあった。
守るべきものがあるなら、持てる力の全てを使って――
本気でやれよ。
こんな子供だましの悪戯に術を使うくらいなら、もっとすべきことがあるはずだ。
拾い上げていた柿の残骸を、玲は乱暴に投げ捨てた。
どこかでこの様子を見ているはずの彼女へ、この苛立ちが伝わってしまえばいいと思った。




