1・再戦と恋
翌日、黒宮邸の中庭。
火花は訪ねてきた玲と共に、縁側に腰掛け話し込んでいた。
夏の太陽は高く、頭上の桜の葉の影を真っ直ぐ、白砂の上に落とし込んでいる。
道着姿の火花は首元に滲む汗を手で仰ぎ、なんとか誤魔化す。
こんな季節でも、黒い洋装のベストとズボンをきっちり着ている玲が半ば信じられない。
「なるほどな」
玲は火花の話を聞き終えて、深い相槌を打った。
火花は昨日行われた四華族会議の内容を全て玲に伝えている。
火花や黒宮家を貶めようという、蘭子の当座の目論見は挫いた。が、到底あの女の企みが底をついたとは思えない。
蘭子が魔石の製造を行っているという資料の入手も難しくなってしまった。
そして、今の火花には一つだけ、迷いがある。
「殿下に、私の出自を聞きに行くかどうか、少し迷ってる」
大きな雲が一つだけ浮かぶ青空を見上げて、火花は溢した。
晴れやかな空の真ん中、灰色が混ざった巨大な雲。
「父上や母上への尊敬はもちろん変わらない。ただ、今までと同じ関係でいられるのか、いてくれるのか分からなくって、ちょっとだけ、怖くて」
言いながら、火花は横目に玲を見た。
微かな風が青葉を揺らし、夏の香りを運んでくる。
玲は鮮やかな紫の瞳を真っ直ぐ火花に向けた。
「……どう思う?」
胸の奥から滲む怯えを誤魔化すように、火花は笑って尋ねた。
玲に聞くことではないと分かっている。それでも、彼から少しだけ、勇気を貰いたかった。
沈黙が落ちる。
しばらくして、玲はゆっくりと口を開いた。
「変わらないんじゃないか」
玲の言葉は火花の胸にそのまま届いた。
玲は口数が少ない分、吐く言葉のひとつひとつが濃い。
「何も変わらないと思う。……お前も、お前の父上も、雅臣殿下も」
強い風が吹き、二人の髪を揺らした。頭上の大きな雲も流されはじめ、天が澱みない一面の空色へ移り変わっていく。
「玲は?」
「俺?」
微笑を湛えながら聞く火花に、玲は瞬きをした。
「変わりようがない」
その玲の澄んだ声が嬉しくて仕方なくて、火花は笑った。
「うん。……聞きに行ってくる」
太陽を遮っていた雲は霧散し、強い光が直接火花と玲を照らしている。
火花は縁側から勢いよく立ち上がって、玲を改めて見据えた。
「さて、やろう」
中庭の中央には、簡単に鍛錬ができるように空間が拓けている。
そこまで二人は移動すると、お互いに間合いを取った。
火花は瞳に力を集中させる。右の手のひらを地面に向けると、そこから風が逆巻いた。
微かに地面が揺れると、火種が芽吹く音がする。
瞬間、地から炎の龍が雄叫びをあげながら現れ、火花の側に控えた。
火花自身も、腰の刀を抜いて下段に構える。
「お前、その龍は……負担にならないのか」
玲は額に噴き出す汗を拭いもせず、眉をひそめた。
以前凪から聞いた、紅の魔力が枯渇することによる代償が、彼の頭から離れないようだ。
「この子?」
火花は玲の心配をかき消すように、龍と顔を見合わせて笑った。
「全然。凪さんにも見てもらったけど、この子一人くらいなら負荷もほとんど無いって」
笑顔で言い切ったあと、静かに言葉を続ける。
「目が見えなくなったら、こうして戦えもしなくなる。だから無駄撃ちはしないよ」
玲の瞳の奥を見て告げた。
視力を奪われることは、すなわち雅臣の側で、玲の背中で、刀を振るえなくなるということ。
その事実は、火花にとって計り知れない脅威だった。
「でもちゃんと制御の練習はしなきゃ。やろう」
「ああ」
火花の返答に強く納得した玲は、抜刀した。
中段に構え、二人と龍は睨み合う。
心地良い緊張感に、肌がひりつく。
高揚感で胸が満ち、鼓動がうるさく鼓膜に響いている。
今度こそ、彼に勝つ。
火花が愛刀の柄を強く握る。
それを合図に龍は熱を吹き、真っ直ぐ玲へ突進した。
玲は素早くそれを避け、再度刀を構え直す。
玲の動きを読んでいた火花は、鋭い速度の突きを繰り出した。
体勢が整い切っていない玲は、その突きを受けきれず、なんとか刀で往なす。
火花はすぐに屈んで力を溜めると、玲に向かって思い切り刀を振り上げた。
その刃は、短時間で身体を立て直した玲に正面から防がれる。
刃が交わる高い音が、中庭に涼しく響きわたった。
「こんの……!」
やはり、力では敵わない。
鍔迫り合いでの不利を悟った火花が、大きく後ろに飛び退いた。
火花の瞳が、再び紅く輝いた。
龍が玲の周囲を低く飛び、玲の視界を奪う。
火花の瞳と同じ、紅く熱い体躯が、陽炎のように揺らめく。
龍が、玲を喰おうと大きく口を開けて、彼を睨んだ。
玲がその視線に惑う隙を突くように、火花は駆けた。
龍と正反対の位置から、渾身の速さで刀を突き出す。
「そうくると思ってた」
玲は全てを読んでいた。
振り返って、火花の刀を力強く弾き返す。
「っ……」
弾かれた刀を、そのまま素早く火花は切り返した。
速く、鋭く、玲へ打ち込む。
しかしそのどれも、玲は正確に防いでいく。
やがて、玲が打ち込む側に立場が逆転する。
玲の強い一刀は、火花の両手を痺れさせるほど強烈で、火花はなんとか玲の刀を叩き返すと、再度間合いを取った。
炎の龍は、輝きを失いつつある。
火花の体力の消耗に呼応するように、力を弱めているのだ。
火花が呼吸を整える隙も与えずに、玲が仕掛ける。
大きく踏み込んで、揺れる彼女の肩を狙った。
火花に鋭く迫った一刀から守るように龍が身を挺すと、玲の刀は炎を裂く。
その隙を見逃さず側方から火花が玲へ斬りかかって、そして。
それを予測していた玲が、火花の一撃を真正面から跳ね返した。
体勢を崩した火花が、下段から玲へ攻撃を続けようとする。
しかしぴたりと、火花はそのまま動きを止めた。
玲の刀が、真っ直ぐ火花の首筋に添えられていたから。
息を乱し、火花はその場に座り込む。
いつの間にか紅い龍は、跡形もなく姿を消していた。
暴力的な熱の残渣だけが場に残っている。
玲は納刀して、座り込んだまま微動だにしない火花へ右手を差し出した。
「また、俺の勝ちだな」
からかいを乗せた玲の声が、黒宮邸の中庭に涼やかに広がっていく。
火花は、ぴくりと肩を揺らした。
額に浮かぶ大量の汗もそのままに、弾かれたように玲の顔を勢いよく見上げる。
眉間に皺を寄せた火花は、差し出された玲の手を力強く握り返した。
一瞬の静寂。
そして、
「ばーーーーーーか!」
幼稚な罵声を玲の顔面に浴びせながら、火花は玲の右手を借りて立ち上がる。
素早く刀を拾い上げ、そして再度燃える瞳で玲を鋭く睨みつけると、そのまま嵐のように駆けていった。
火花の姿は、あっという間に見えなくなってしまった。
置いていかれた玲は声をあげて、腹の底から笑った。
また彼女は自室で、枕を破壊するのだろうか。
玲の胸中に、爽やかで甘い熱が満ちていく。
それが、後に大逆事件と呼ばれる事件の前。
二人が交わした、最後の言葉だった。




