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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
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16・陰謀と欲望

 藍川邸、当主の居室。

 蘭の花の甘い香りが漂う中、黒檀の豪奢な椅子に腰掛けた蘭子は、ゆっくりと瞳を開き、卓上鏡に映る自身の姿を確認した。


 分厚いカーテンで窓が全て覆われているせいで、室内は薄暗い。


 壁際に置かれた燭台に灯った火が、蘭子の背後に控える女の姿を揺らめかせた。

 黒い外套(マント)を身に纏った呪術師の女は、蘭子の頭髪に優しく手を添えている。


「終わりましたわ、奥様」

 呪術師は最後に蘭子の髪をしっとりと撫でたあと、一歩下がり、畏まってそう告げた。


「艶があるわ。いつものことながら流石ね」


 自身の髪を愛しそうに撫でながら、恍惚として蘭子は言う。

 呪術師の技術を非常に気に入っている蘭子は、定期的にこの女を自室に招き、髪を黒く染めていた。


 蘭子は包帯を巻いた右手を庇いながら、机の上のグラスを手に取る。

 青い魔石入りの酒を煽った蘭子は、満足気に鏡を再度覗き込んだ。


 黒く若々しい髪。美しい陶磁のような肌、瑞々しい唇。そして、深く輝く青い瞳。

 社交界を統べる女帝として相応しい自身のその姿に、蘭子は魅入っている。


「いつもそうしてお酒を?」

「ええ。酒でないと上手く溶けなくてね」

「お身体にさわりますわ」


 心配そうな声音で諌める呪術師の声も、蘭子を心地よくさせた。

 平気よ、と高揚感に揺蕩(たゆた)いながら、涼やかな酒を眺める。

 氷のように澄んだ青が、グラスの底でゆらりと渦を巻いていた。


「奥様、この石をお貸しいただけませんか?」

「なぜ?」

「酒と混ぜずとも、飲みやすくできるかと」


 呪術師は、蘭子の机に積まれた魔石をじっと見つめ、赤い紅を引いた唇を妖しく歪めた。

 この女の力と技術が本物であることを知っている蘭子は、興味を惹かれ振り返る。


「そしてもっと、濃くいたしましょう」


 蘭子の青い瞳を射抜き、呪術師は笑みを深めた。

 濃くする、という単語に、蘭子は狂喜する。


「素晴らしいわね、貴女」

「恐れ入りますわ」


 うやうやしく女は膝を折り、蘭子に頭を垂れる。

 蘭子は数粒青の魔石をつまみ上げ、呪術師に手渡した。

 ほとんど同時に、部屋の扉が軽く叩かれる。



「蘭子」


 蘭子の返答を待たず扉が開き、男の重い声が、室内に響いた。

 質の良い黒いスーツを身に付けた宵華宮(しょうかのみや)が、ゆっくりと入室し、蘭子の側まで歩み寄る。


 その姿を認めると、蘭子は立ち上がり、弾んだ声で彼を迎えた。


「あら。いらっしゃいましたの」


 蘭子が軽く頷いたことを確認した呪術師は、二人へ丁重に頭を下げる。

 そのまま足音を立てず、山高帽を目深に被って扉へと向かった。


 ちらりとすれ違った呪術師の女の横顔に、宵華宮は既視感を覚える。

 しかし、明確な答えが浮かばないうちに、女は扉の向こうへと消えた。



「怪我をしたと聞いた」


 蘭子に向き直った宵華宮は、彼女の右手に巻かれた包帯を見据えて言った。

 その言葉に怒りが蘇ったのか、蘭子は急激に表情を曇らせ、吠える。


「怪我なんて可愛いものではございませんわ!」


 右手を掲げて蘭子は宵華宮に詰め寄った。整えられた黒髪が、僅かに乱れる。

 甘えるように宵華宮に身体を寄せる一方で、激情が眉間に濃い皺を作り、恐ろしい形相を呈していた。


「ご覧になって陛下。わたくしの手が、あの山猿の娘に汚されたのです」

「山猿の娘?」


 宵華宮の疑問の声に、蘭子は憎しみを滾らせる。

 燭台の火が、復讐に燃える蘭子の瞳に反射した。


「黒宮家の長女、黒宮火花ですわ」


 奥歯を噛み締める蘭子は、宵華宮が小さく唾を飲み込んだことに気付かない。



「忌々しい。あの紅い瞳、石にして陛下に献上しようと思いましたのに」

「蘭子。陛下はやめろ」


 宵華宮は憤る蘭子の腕をとり、黒檀の椅子まで導いた。

 蘭子は彼にエスコートされながら、宵華宮を見上げて告げる。


「あら、よろしいじゃありませんか」


 優雅に腰掛けながら、蘭子は妖艶に笑った。



「ゆくゆくはあなた様が皇帝となり、わたくしが皇后となるのですから」


 蘭子は机の上の酒に、再び手を伸ばす。

 舌に含むと、焼けるような熱さが蘭子を襲う。喉を通り過ぎて、全身に魔力が熱く満ちていく感覚に堕ちた蘭子は、考えを巡らせた。



「あの娘の、紅い瞳……」

 蘭子はぽつりと呟き、ややあって、口角を上げた。


「目障りな黒宮家ごと、取り潰してやりますわ」


 あの紅い瞳には、まだまだ利用価値がある。

 火花を取り逃したことは、むしろ好都合だと蘭子は考えを改めた。


「黒宮が不貞を働いたことは、間違いないのです」


 皇家に忠義を誓い、一切血の繋がりを持たぬことを信条とする家。

 唯一、魔術師でないのに四華族の一角を務める家。


 その家門から皇族にしか受け継がれない紅い瞳の者が現れたとなれば。

 その忠義も途端に笑い草、不義の証となる。


 貴族たちを扇動し、火花の紅い瞳の事実を糾弾する。

 そうすれば黒宮の威厳などあっという間に失墜するだろう。


 蘭子は高らかに笑った。

 楽しげに笑う蘭子の側で、宵華宮は揺らめく燭台の、赤い炎を眺めていた。



「その黒宮火花、歳は幾つだ?」

「……維月と同じですわ。数えで十八だったかと」


 不可思議な質問に、蘭子は笑うのをやめ、怪訝な表情を浮かべた。

 宵華宮はその回答に、ほんの一瞬だけ呼吸を忘れたように、身体を硬直させる。


「陛下?」


 宵華宮の漆黒の瞳は、微かな光を宿しているように見えた。

 闇の中で、隠しきれない熱を持った感情が、ほんの少し覗いている。


「もしや、あの子の瞳が紅い理由に心当たりが?」

「……いや」


 否定の言葉を紡ぐ宵華宮の視線は蘭子に向けられたものの、その焦点は蘭子にない。

 蘭子は違和感を抱いたが、興奮がそれを覆い隠していく。


「もう少しですわ。黒宮を引きずりおろし、目障りな皇族を処分してしまえば……」


 蘭子の瞳が、危険で鮮やかな光を帯びていく。

 呟きながら蘭子は再び立ち上がり、宵華宮の頬を愛しげに撫でた。


「あなた様しか、皇帝になるべき方はおりません」


 蘭子はうっとりと告げて、宵華宮の唇に自身のそれを重ねた。


「紅い瞳を持たぬというだけで、貴方様を排斥する愚かな者どもに、思い知らせてやりましょう?」


 蘭子は身体を離すと、宵華宮の漆黒をじっと見つめて告げた。


 彼の瞳の奥には、紅い瞳への憤怒と憎悪、そして羨望が宿る。

 皇位を攫っていった実弟やその子供達への、果てしない恨みが渦巻いているのを、蘭子は知っていた。





 翌日、四華族会議が開かれる。


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