15・誇りと絆
火花は西陽の強烈な橙を、瞼の裏で感じる。
通り抜ける温かな風に乗った、畳と微かな土の香りが、心地よい目覚めへと導いた。
目を開けば、ひび割れのある凪の家の天井が目に入る。
「ハナ!」
ひょこりと現れた、雅臣の顔が視界いっぱいに広がった。心配を色濃く顕す声と表情に、火花は思わず破顔する。
「よく頑張ったな」
雅臣の視線が、火花の頬の殴られた痕に向かっている。
火花は寝ていた布団から起き上がる。
辺りを見回すと、素朴な凪の居室に玲と雅臣が座って、こちらを心配そうに見守っていた。
凪と拓磨の姿はない。すっかり根城のように使わせてもらっているが、凪にそのまま言えば即座に追い出されそうだと思って、火花はひとり苦笑する。
玲がじっと火花を見据え、言葉を溢した。
「痛むか?」
「大丈夫。もうすっかり……とはいかないけど、問題なさそう」
少しだけ掠れる声で火花は答えた。
殴られた頬や腹は鈍く痛むが、体調に概ね問題はなさそうだった。
青の魔石入りの酒は抜け切ったのか、頭の痛みは感じない。
「水を持ってくる。あと、何か食べられそうか」
「うん。お腹空いた」
「わかった」
「ありがとう」
相変わらずの無表情で、黒い浴衣姿の玲はそれだけ言うと、立ち上がって土間に向かった。
畳敷きの部屋に、雅臣と火花の主従だけとなった。
火花は正座をして、雅臣に向き直る。
「申し訳ありません、証拠を持ち帰れませんでした」
「気にするな」
雅臣は、かしこまって言う火花に手を伸ばし、黒髪をかき混ぜるように撫でた。
「あの女から、直接聞きました」
怒りを静かに滲ませながら、火花は言う。
「拓海は、拓磨のために……もともとは、藍川に金で買われた間者でした」
雅臣はまだ、火花を慈しむように見ている。
「でも、あの日、完全に操られるのを阻止するために、白の魔石を飲んで……」
火花は言葉に詰まった。明瞭な報告ではないことは自覚していた。
けれどきっと、雅臣なら分かってくれると、溢れるままに言葉を紡いだ。
雅臣は哀しげに笑った。遠い目をして、かつての拓海を思い出しているようだった。
「あいつさ。俺に斬りかかる時、咄嗟に刃を返して峰打ちにしようとしてたんだ」
雅臣は視線を落とし、拳を握る。
「いくら白の魔石を事前に飲んでたからって、とんでもない精神力だよ。流石は拓海だよな」
火花は頷いた。彼らしいと、そう思う。
「私に、ごめんねって言ったんです」
炎に包まれながら、どうして彼が謝ったのか、本当のところは今となってはもう分からない。
けれど彼が火花と雅臣のよく知る、優しい拓海のまま逝ったことだけは真実だった。
まるで拓海に捧げる黙祷のように、二人の間に沈黙が落ちた。
蝉の哀しげな鳴き声と、土間で薪の燃える音が、優しく二人の耳に届く。
しばらくして、雅臣は顔をまっすぐ火花へ向けた。主人の視線に、火花も強い瞳で顔を上げる。
「藍川蘭子に仕掛けられる前に、こちらが先手を打つことになった」
雅臣は唾を飲み込む。
「四華族会議を召集すると、兄上が」
四華族会議。
紅華帝国を統べる、皇族と四つの華族の家長が参加する。
皇帝ですら覆せぬ、絶対の決定力を持つ会議だ。
「疲れているところ悪いが、ハナも参加だ。大丈夫か?」
普段の火花に参加権などないが、雅臣が言うのであれば参加する他ない。
仮に骨が折れていようが馳せ参じなければならない、そういう会議だ。
それは、あの藍川蘭子とて同じ。
あの女が、来る。
火花は布団を強く握りしめた。
「会議の前に、一つだけ確認しなきゃならないことがあるんだ」
雅臣は体を正し、静かに言った。
神妙な顔つきの主人に、火花は背筋を伸ばす。
差し込む西日が紅く、雅臣の輪郭を照らしていた。
「お前、皇族として生きるつもりはあるか?」
火花の喉が、ひゅっと音を立てた。
「俺の妹として生きる道も、お前にはある」
雅臣の紅い瞳に揺らぎはない。まっすぐな視線を、火花もまた、強い眼光で受け止める。
二つの紅が交わった。
「いいえ」
きっぱりと、火花は否定した。
同じことを何度問われても、きっと、返事は変わらない。
「私は、黒宮火花です」
気高く、強く、優しく、温かい。
そんな黒宮家の父を、母を、兄を誇りに思っている。
何より、この主人を、侍衛として心の底から敬愛している。
そこに揺らぎはない。
たとえこの先、どんな真実を知ったとしても。
「そう言うと思ってたよ」
雅臣は目に皺を作って笑った。
場に満ちた緊張が解けて、二人の身体に満ちていた強張りも柔らかく抜けていく。
「どっちにしろ、お前が妹みたいな存在であることに変わりはないしなあ」
雅臣が呟いて、火花の頬の青痣に軽く触れた。
痛いですよ、と抗議の声を上げる火花の顔にも笑みが浮かんでいる。
「お前、疑問に思ったことはあるのか?」
雅臣の問いに、火花は返す言葉を失った。
本当は、考えないでもなかった。
紅華帝国の歴史上、皇族以外が紅い瞳を発現したことはない。
けれど、皇族とは血を交えないという黒宮の鉄の掟を、父や母が破るはずがない。
それが意味するところを、火花はあえて考えないようにしていた。
「お前が知りたいのなら教えるよ。俺は、答えを持っている」
優しい言葉に、火花は胸がいっぱいになった。
けれど、今その答えをすぐに導き出せない自分がいる。知りたいと思っているのかすら、己の感情なのに、明確に手繰れない。
困惑を隠せない火花に、雅臣は笑って言った。
「知りたくなったら聞け。いつでも答えてやるから」
火花は強く頷いて、雅臣の顔を見上げた。
笑顔の自分が、主人の明るい紅の瞳に映っている。
「(こうやって、すぐに人をたらしこむんだからなあ)」
そんな主人が、火花は大好きだった。
「あんまり優しくすると、私、どんどんつけ上がりますよ」
「何を言ってるんだ、今更だろ。散々俺を馬鹿にしておいて」
「馬鹿になんてしてません。少しからかってるだけです」
「違いが分からないな」
「この想いが伝わらないなんて、ああもどかしい」
「よく口の回るやつだなあ、まったく」
雅臣は呆れた声を出すが、表情はとても柔らかい。
いつもの空気に、火花の胸が温かい熱で満ちていく。
ふいに、土間から「あちっ」と声がした。
玲が粥を器に盛る際に、何か小さな失敗をしたのだろうか。
雅臣は小声で火花へ尋ねた。
「お前、紫苑玲と……その……、つまり……」
雅臣は言いにくそうに、言葉をまごつかせた。
「はっきり言ってください、そんなんだとまた、婚約者様に愛想尽かされますよ」
「またとはなんだお前」
「知ってるんですからね。で、なんですか?」
言葉を濁す主人に、火花はじとりと視線を向ける。
雅臣は唇を引き結んだあと、言葉を漏らした。
「恋仲になった……のか?」
「はぁ?」
呆れ返った声が出てしまう。
眉間に皺も寄っているだろう。
一般的に主人に向ける態度ではないのだろうが、こういう頓珍漢なことを言い出す雅臣が悪いと、火花は結論づけた。
玲が盆に水と、湯気の上がる粥を乗せて戻ってくる。雅臣と火花の妙な雰囲気に、玲は小首を傾げた。
「玲、火傷した?」
「いや、大丈夫だ」
なら良かった、と火花は言う。
玲と火花の間に漂う空気に、雅臣の疑問はさらに膨れ上がった。
明らかに、二人の纏う雰囲気が軽くなっている。
学院在籍時の、お互いを射殺さんばかりの視線はどこへ行ったのだ。
火花から玲への呼び名も変わっている。
何より、火花が大切に持ち歩く簪は、玲から贈られたものだと言う。
これだけ揃って何もないと言う火花の方こそ、おかしいんじゃないかと雅臣は思った。
「玲と私は、まあ、相棒みたいなもんです。背中合わせに戦うと最高なんですよ」
ねえ?と同意を求める火花に、玲は怪訝な顔を返した。
「また一緒に戦いたいね」
「そうだな」
「そういえば鍛錬に付き合ってよ。結局一度も勝ててない」
「怪我を治せ。話はそれからだ」
「ふうん。そんなこと言って、魔術ありの私に負けると思って怖いんでしょ」
「一度も勝てていないくせに、随分と気が大きいな」
「腹の立つ男」
「猪女」
「はあ? 華族に向かって無礼すぎる。謝れ」
「俺に勝ったらな」
「よし今すぐやろう。刀はどこ?」
「腹の虫が鳴ってるぞ。冷める前に早く食え」
軽口の応酬を始めた二人に、雅臣は苦笑いを浮かべた。
夕陽が障子の長い影を室内に伸ばしている。
玲の持ってきた粥を綺麗に平らげた火花を見守った雅臣は、立ち上がった。
「さて、俺は明日の準備もあるから失礼する。くれぐれも身体をしっかり休めるんだぞ」
「はい」
火花は雅臣を正面から見つめて笑う。
「なあハナ」
「はい」
「お揃いだな」
雅臣は自身の紅い瞳を指差して言った。
「はい」
その火花の肯定を聞いたあと、雅臣はまた満足そうに笑って、室内から出て行った。
板戸が閉まる。
粥が無くなった皿を前にして、火花の瞳が潤んでいることに、玲は気づいた。
気付いて、気付かないふりをしようと、彼は顔を火花から背ける。
「良いお方だな」
「そうでしょ? 私の自慢の主人なんだから」
火花は、誇らしげに言った。
彼女の声はすこし震えていた。それにも玲は、気がつかないふりをした。




