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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
33/62

13・壊れて、愛しくて

「黒宮」


 玲の声は低い。

 けれど火花は、この冷たい空間の中ではじめて、温度を感じた気がした。


 焦点の合わない瞳で、火花は必死に玲の姿を捉えようと、視線を彷徨(さまよ)わせる。



「無事か?」


 言って玲は、火花の様子を確認した。

 天井から縄で吊るされ、つま先だけ地面に着いた状態で拘束された火花は、非常に顔色が悪く見えた。頬は殴られたのか青白く変色し、破れたブラウスから覗く皮膚も傷ついている。


 それでも、やや乱れた黒髪からこちらを覗く彼女の紅い瞳は、まだ強烈な光を宿していた。

 僅かな安堵と、声にならない憤怒が玲の全身を侵食していく。


 玲は牢の入り口を警護していた二人の護衛を即座に斬り捨て、そのまま真っ直ぐ牢へと踏み込んだ。



「あら。紫苑の王子様じゃない」


 蘭子は火花の頬から手を離し、玲に向き直った。

 その顔には豊かな笑みが浮かんでいたが、玲の侵入を許したことへの動揺が、微かに滲んでいる。




「まったく、わたくしの魔術が効かないなんて忌々しいこと」


 蘭子は吐き捨てた。

 彼女の青の瞳は燦々(さんさん)と妖しく輝いていたが、玲に効果はない。彼は刀を手に、怒りを湛えた紫の瞳を揺らしたままだ。


 玲は蘭子を睨みつけながら、靴を鳴らして火花と蘭子に歩み寄った。

 石造りの冷たい空間に、靴音は大きく響いている。




「動かないでちょうだい。この娘を殺されたくなければ、そこに跪きなさいな」


 蘭子は火花の背後へ回ると、どこからか取り出した銀のナイフを彼女の首元へ当てた。


 僅かに刃があたり、火花の首筋が傷つく。

 流れた一筋の血が、彼女の白いブラウスを赤く染めた。


 玲は動きを止める。

 奥歯を強く噛み締めた。



「かまうな、しおん」

「お黙り小娘」

「斬って」


 火花は首筋の痛みなどどうでも良くなっている。

 彼女の歪んでいた世界は、少しだけ輪郭を元に戻していた。


 玲と火花の視線が絡む。

 火花は頭上の、自分を吊るし、両手を拘束している縄を見上げた。そして玲へ、もう一度視線を返す。



 玲は小さく頷いた。

 彼は血を払い、刀を鞘に収める。

 その様子に、蘭子は歪んだ笑みを浮かべた。


 思ったとおり、この二人の間には、何やらただならぬ絆がある。火花を人質にしてしまえば、玲の動きを止めることなど造作もないと、蘭子は確信した。



 蘭子が笑んで、緊張の糸が緩んだその一瞬を、二人は見逃さなかった。



 玲は鞘の内側に隠していた小刀を引き抜き、鋭く投げた。

 真っ直ぐ高く飛んだ小刀は、火花を天井から吊り下げる縄に向かう。


 正確な軌跡を描いたそれは、気味のよい音を立てて縄を切った。



 火花の両足が、地に着く。



 それと、ほぼ同時に火花も動いた。


 火花は腕を縄に拘束されたまま、自分の黒髪をまだしっかりと纏め上げていた(かんざし)を引き抜いた。

 豊かな髪が広がり、彼女の顔まわりや首に纏わりついていく。


 火花は真っ直ぐ、自身にナイフを向ける蘭子の拳に向かって、簪を鋭く突き刺した。

 振り絞れるだけの、渾身の力。


 蘭子の驚愕の表情が、火花の網膜に映った。





「あ、あああああ!!!」


 蘭子の血と、絶叫が踊る。

 彼女は思わず、手にしていたナイフを取り落とした。


 この怪物の血も赤いのかと、火花は朦朧とする頭で思った。



 身体中からかき集めた力で蘭子の手を襲ったせいか、黒鉄の芯の簪は曲がっていた。

 ポタポタと血が滴るひしゃげた簪を、再び火花は蘭子に向ける。


 どれほど力を振り絞っても、酷使された足はもう上手く動かない。

 火花は髪を乱しながら地を這って、痛みに悶絶し膝を折った蘭子に近づく。


 彼女を仰向けにすると、火花はその腹に跨った。その喉元に、血濡れの簪を突きつける。


 つい先程まで、蘭子が火花にしていたように。




「紫苑」


 彼を呼んだ声は、震えていた。

 憎しみのせいで涙が溢れそうになりながら、火花は蘭子の歪んだ表情を睨み見据える。




「ころしても、いい?」



 蘭子の深く青い瞳の奥に、恐怖が顔を出した気がした。




 この女が、拓海を死に追いやった。

 玲の国を壊した。雅臣の命を狙った。彼らを侮辱した。


 絶対に、許せない。

 だから、今すぐ、この簪で蘭子の喉を突き刺してやりたかった。





「ダメだ」


 玲の、静かな声が響く。



 分かっていた。

 彼がそう答えることが。


 分かっていたから、聞いたのだ。



「この女には、全ての罪を告白してから、死んでもらう」


 玲の声は、必死に冷静であろうと感情を押さえつけているのが分かるほど、低かった。

 紫の瞳が、強く鈍く、気高く輝いている。



 この女を殺したいのは、玲だって同じ。

 ここで蘭子の命を奪えば、彼の復讐と、再生の機会を奪うことになる。


 それが分かっていたから、火花はかろうじて踏みとどまった。




「……わかった」


 火花は小さくそう言って、蘭子の腹の上から退いた。蘭子はすぐに飛び起きて、まだ出血の止まらない掌を抑えながら、火花と玲から距離をとろうとする。


 その表情には明確に、二人への憎しみと怒り、そして畏れが浮かんでいた。







「母上!」


 叫ぶ声と、複数名の大きな足音が近づいてくる。



 維月が、焦った様子で二名の護衛を連れ、地下牢に現れた。騒ぎを聞きつけてきたらしい。


 掌からとめどなく血を流す母を見て、維月は唇を噛み、顔色を変える。

 護衛達は素早く抜刀して、火花と玲に向き直った。


「早く、早くこの二人を殺しなさい!」


 蘭子が憎しみを込めた声でそう命じる。

 護衛たちは火花達に斬りかかろうと、間合いを詰めた。


 まだ立てない火花を守るように、玲は火花の傍で、一度収めていた刀を再度抜き、構える。




 しかし、維月は殺気立つ護衛達を手で制した。


「母上を安全なところへ、早く」

「何をしているの、維月!」

「早く!」


 維月は母の言葉には答えず、護衛たちに怒鳴った。

 彼らは困惑するも、維月の指示に従い、刀を収める。そのまま喚く蘭子の両側を支えて、地下牢から速やかに去っていった。


 維月自身も、母と護衛が去った後、足早に地下牢を後にする。

 去り際、維月と玲の視線が、ごく数秒だけ交錯した。







「黒宮、歩けるか?」


 地下牢には、二人だけが残された。

 未だどこかから、水の滴る音がする。冷たい空間に、玲の斬り捨てた二人の死体と、火花や蘭子のこぼした血液が残っている。


 恐ろしい空間にいるのに、火花はもう寒さを感じなかった。



「……ごめん」

「乗れ」


 玲は火花に背を向けて、屈んだ。

 火花は無言で、彼の背中に手を回し、背のよじ登る。


 早くこの場を後にしなければならない。

 いつまた、藍川の護衛たちが襲ってくるかわからないのだから。





 地下牢から出て、藍川邸の巨大な正面玄関を通り抜けると、夏の太陽の強烈な光が二人を出迎えた。


 しかし不思議なことに、明るいその空間の合間から、雨が激しく、叩きつけるように降りしきっている。


 凪の仕業だと、二人ともすぐに分かった。




 玄関から門まで真っ直ぐ伸びる石畳で、凪が楽しそうに戦っているのが目に入る。

 側には凪が斬り捨てたのだろう、数多の護衛達が転がっていた。

 凪が腕を振るたび、水飛沫と血飛沫が混じり、敵兵が次々と倒れていくのが、玲の目に鮮やかに映った。


「やれやれ、子供のお守りばかりで退屈してたんだ」


 凪は不満を紡ぎながら、悪童のような笑顔を浮かべていた。

 豪雨を操り、敵の視界を奪いながら、次々と果敢に挑む護衛達を(ほふ)っていく。


 玄関で佇む玲と、凪の視線が交わった。


「先に帰ってていいよ」


 火花をおぶっている玲に気付き、攻撃を試みた護衛を鮮やかに蹴倒しながら、凪は言った。

 藍川邸の地下牢に侵入する際、牢や邸内を警備する敵が不自然に少なかった理由に玲は気づいて、目を見開く。この人が、大量の護衛達を引き付けてくれていたのだ。


 凪の繰る豪雨のただ中に足を踏み入れても、玲の背には一滴の雨粒も落ちなかった。

 玲は気づく。

 凪が、ふたりにだけ傘を与えるように、そっと雨を逸らしていることに。


 玲は門へ向かって、真っ直ぐ石畳を進む。歩調は揺るぎなく、背中から伝わる温もりに、火花の胸がじわじわと温かい熱で満ちていった。





「ごめんね」


 雨音と戦闘の喧騒をよそに、火花は掠れた声で、玲に語りかけた。



「かんざし、もらったのに、こわしちゃった」



 玲が小さく笑った気がした。


 血に濡れ、ひしゃげた蛍の簪を火花は強く掴んでいる。


 もう全身に力は入らないが、この琥珀の簪だけは、どうしても、取り落としたくなかった。






「最高の使い方だった」



 その彼の、低い呟きが。


 今まで貰ったどんな言葉よりも、嬉しくて、愛しくて、たまらなかった。



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