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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
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12・母と息子


「おはよう、玲」


 凪が深く澄んだ青色の瞳で見下ろしていることに、玲は気がついた。

 その表情はいつも通りの少し余裕めいたものだったが、声音にはごくごく僅かに、焦燥が含まれている。


 凪の家の室内には、昇りきった太陽の強い光が差し込んでいた。

 どこからか粥の落ち着く香りが流れ込んできており、玲はその空気を吸い込んで、胸が温かくなる。



「目覚めたところ悪いんだけどね。君の相棒のじゃじゃ馬、捕まっちゃった」

「……え?」


 玲の心臓が大きく跳ね、布団から飛び起きた。

 着ていたはずの燕尾服は見慣れない派手な着物に着替えさせられている。

 布団は玲の汗でぐっしょりと濡れていたが、視界の歪みや不自然に強い鼓動はすっかりおさまっていた。


「君をここに運んですぐ、藍川邸に取って返してね。証拠を持って帰ってくるって」


 深い溜め息を吐きながら凪は言った。

 中庭から、カラスの間の抜けた鳴き声が聞こえてくる。


「でも藍川蘭子に捕らえられたらしい。今は地下牢行き」

「あの馬鹿!」


 布団の横に丁寧に畳まれていた着替えを、玲は手に取った。

 いつもの細身の黒いズボンに、紺色のハーフコート。


 素早く着替え、額に残る汗を拭って言った。


「行きます」


 その発言を見越していた凪は、玲の愛刀を彼に投げた。

 即座に玲は、板戸を開けて室内から勢いよく出ていく。



「世話が焼けるガキどもだよ、まったく」


 凪は独り言を呟いて、土間を覗き込んだ。

 そこには玲に提供する予定の粥を炊いていた拓磨が、出て行った玲の背をぽかんと見つめている姿がある。



「拓磨、片付けを頼むね」

「え……はい」


 困惑を滲ませながら拓磨は頷いた。


「ちょっと、散歩に行ってくるよ」


 頬を掻きながら、軽い口調で凪は言う。

 派手な帯に刀を差し、玲が開け放ったままの板戸をくぐってふらりと出て行った。



「素直じゃないんだから」


 拓磨は、湯気が立ち上る粥を見つめながら、苦笑して呟いた。















 湿度が高い。

 水が滴る音が、不快だ。



「……おい」


 男の声がする。

 苛立った音色。

 ほんの、ほんの少しだけ、動揺が滲んでいる気がした。


「おい、黒宮」


 火花は重い瞼をこじ開け、声の主を見つけた。


 維月が目の前に立っている。

 ひどく不機嫌そうに顔を歪めていた。



「な、に?」

 声が掠れている。喉がひどく乾き、全身が重くて仕方なかった。


 火花の両手をきつく拘束した縄は、真っ直ぐ天井から伸びている。頭上の梁から火花を吊るす縄は、彼女のつま先が床につくかつかないか、意図してその長さに調節されていた。そのせいで火花の足の力は、限界に近い。


 石で作られた藍川邸の地下牢は、ひどく冷えている。

 身体はとうに冷え切っていて、温度の感覚を火花は失っていた。どこからか、水が滴る音がする。その定期的な高い音が、耳障りだった。



 ここに連れられてきてからも、時間を置いてあの青い酒を飲まされ続けている。

 そのせいで視界は安定しない。頭が鈍く、思考が回らない。


 腹いせのつもりか、藍川の護衛達に頬を殴られたり、腹を蹴られたりした記憶があった。痛覚が鈍っているせいで、最早どうでもいいとすら思う。


 抵抗する気力は奪われつつあった。


 しかし、火花はどうしてか、死ぬつもりは未だ、毛頭なかった。






 維月は火花の憔悴した様子に、眉間に皺を寄せているらしかった。

 目の前の彼の表情も、火花は視界がぼやけるせいで、あまり見えていない。



「第二皇子や皇太子の弱味を知っているか」

「っ……、はぁ?」


 想定外の言葉に、火花はなんとか声を紡いだ。



「それを言えば解放してもいいと母上が言っている」


 維月の苦しそうな言葉が、石造の空間に冷たく反響する。



「吐けよ。そうすれば、解放してやるから」


 維月が祈るように、そう言っている気がした。

 鈍く思考の遅い頭で、火花はあまりに、愚かだと思った。


「あんた、ばか、じゃないの」


 維月を虚ろな目で、それでも見据えた。

 声帯を空気が通る音が、火花の鼓膜を強く揺らす。


「わたしが、知ってたとして……っ、いうとおもう?」


 言葉を返された維月が、拳を握っている気がする。かまわず、火花は続けた。


「いったとして、あの女が、すんなりわたしを……解放すると、おもう?」


 舌の筋肉を強く動かして、言葉を吐き出し続ける。


「あんたも、あそばれてるだけだよ。あの女に」


 その言葉に、維月が、小さく項垂(うなだ)れた。



「……知ってるさ」


 彼の吐露は冷えた空間に響き、明瞭に火花の耳へ届いた。



「あんたの、母親……おかしいよ」


 怒りと、憎しみと、僅かな憐憫。火花は感情のままに、かつての憎たらしい同級生に向かって言い放つ。


「狂ってる」



 言いながら、ぼんやりとした頭で、ふと考えがよぎる。



 青の魔術師の成れの果て。――狂乱。


 ああ、あの女は、もしかしたら。




「うるさい! うるさいうるさい!」


 突如維月が絶叫する。

 温度のない空間に、その叫びは大きく反響した。




「あれが、オレの、母なんだ!」


 悲痛な声が、維月の苦悩を滲ませていた。


 維月のことを、ほんの少しだけ、哀れだと火花は思う。

 けれど、謝罪する気にはなれなかった。


 ひどく眠い。限界だった。

 火花は再び、瞼を閉じた。









 また時間が経ったらしい。

 どれくらい経ったのかは、火花にはわからない。


 生き残っていた嗅覚が、不快な蘭の香りを拾った。


 嫌悪感に、紅い瞳を開く。





 火花は目の前に、怪物がいるのを認知した。


「あら、起きてるのね」

「……っ…」


 火花は焦点の合わない瞳で、蘭子の昏い青を睨みつける。

 靴の音を涼やかに響かせて、蘭子は火花へ近づいた。


「まだ睨む元気があるのね。流石は黒宮。やはり軟弱な紫苑などとは比べものにならないわ」



 その言葉に、火花は重い瞼で瞬きをした。


「し、おんの……、くにを、ほろぼしたのも、……あんた?」


 体力が尽きかけていることを悟る火花の目の前で、蘭子は妖艶に笑む。


「あれは、ただの実験よ」

 気分が良いのか、歌うように蘭子は言った。


「石の効果がまだ分からなかったものだから」

 護衛に殴られたせいで、青白く変色している火花の頬を、蘭子は慈しむように優しく撫でる。


「大切な紅華帝国の民で試すわけにもいかないでしょう?」


 醜悪な笑みに吐き気がした。

 鈍い頭の中で噴き出す怒りに、温度を失いつつあった四肢が、熱くなっていく。

 その熱が、火花に生を実感させた。



「ふふふ。さあ、お喋りはおしまいよ。瞳を見せてちょうだい」


 蘭子は火花の瞳を覗き込んだ。

 体力は限界ながらも、怒りに瞳を強く燃やす火花の深紅を見て、蘭子は狂喜する。



「ああ、なんて綺麗なの。あの方に献上したら喜んでくださるかしら」



 青の魔石を摂取させられ続けたせいで、火花は未だ視界が安定しない。目の前で陶酔している蘭子の表情すら、今は曖昧な輪郭を捉えられるのみだ。




「し、おん」


 蘭子に頬を掴まれながら、彼の名を呼んだ。

 蘭子の背後に、刀を携えた彼の姿があった気がしたから。


 揺らぐ視界に、玲の姿は曖昧に映る。


 けれど、その鮮やかな紫の輝きを見間違えるはずがない。

 そんな願いも込めた、火花の弱々しい呟き。



 彼女のその声に、紫はより一層鮮やかに怒りを孕んで、燃え盛った。


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