11・青に墜ちる
「あんたが、拓海を操ってこの資料を書かせたの?」
呆然としながら、心臓が訴える怒りはそのままに、火花は呟くように言った。
湿度の高い空間に、言葉がどろりと溶けていく。
瞳孔が開ききった火花の様子を見て、満足そうに蘭子は笑みを深めた。
「いいえ?」
楽しげに否定の言葉を告げる蘭子を、火花は燃え盛る瞳で睨みつけた。
「よく見てご覧なさい、どうでもいいことばかり書いてよこして。わたくしは弱味を探れと命じていたのに」
わざとらしく嘆息する蘭子の言葉に、火花はもう一度資料に目を落とす。
確かに、火花や雅臣に不利になりそうな情報は、全くと言って良いほど書かれていない。調べれば簡単に分かりそうな事ばかりが並んでいる。
「まったく、とんだ食わせ物だったわ」
嘲りと呆れ、微かな苛立ちが混じる口調で蘭子は続ける。
「せっかくお薬に、資金まで援助してあげたのに」
火花の脳裏に、拓海の家の様子が蘇る。
天井まである書棚にぎっちりと埋まった書籍。
中には医学書もあった。……今思えば、平民の拓海が、高額な医学書をあんなに買えるはずもなかったのだ。
「あなた達――特に、黒宮の娘に懸想なんかしてしまって」
蘭子の六人の護衛達が、火花を囲むように室内を移動した。
狭い室内で取り囲まれ、火花は逃げ場がないことを悟る。奥歯を強く噛み締めた。
「皇子の暗殺なんてとてもできそうになかったから、仕方なく魔術で操って差し上げたのに」
瞬間、火花が抜刀する。
激情が身体を動かした。
刀は護衛の一人に弾かれ、蘭子に刃は届かない。別の護衛が、火花の鳩尾に拳を叩き込むと、鈍い痛みが彼女を襲った。
一瞬だけ火花の身体が硬直した隙を狙って、左右から二人の護衛たちが彼女の身体を拘束する。
彼らに両腕を固定され、蘭子の前に囚人のように突き出された火花は、紅の魔術を発動しようと試みる。
「っ……!」
だが、腕を強く拘束されていることで、上手く火種が起こらない。
最後の頼みの綱が、手からこぼれ落ちていく。
万策が尽き、火花は目の前が暗くなっていく。しかし、それ以上に、腹の中から煮えたぎる熱が、全身を焼き尽くしてしまいそうだ。
拘束されながら、火花は蘭子を――拓海の仇を、睨み続けた。
火花の激情など他愛ないものかのように、蘭子はうっとりと話し続ける。
「あの子、本当に小賢しくてね。白の石を先に飲んでいたから、わたくしの魔術の効きが悪かったのよ」
火花の顎を、蘭子は片手で掴む。
頬に蘭子の鋭い爪が食い込み、痛みが走った。
ぞわりとした冷たい感覚が、火花の背中を駆け抜けていく。
「でもまあおかげで、面白いものが見られたからよしとするわ」
蘭子は優雅に、甘美な笑みを向けた。
「あなたが、あの恩知らずを殺してくれたのよね?」
悪意に満ちた言葉に、火花は全身を巡る血という血が沸騰し、皮膚を突き破ってくるような心地がした。
目の前の、おぞましい怪物の言葉を否定しきれない事実にも、腸が煮えくり返る。
だって、火花の手で拓海を殺したことは、半ば真実なのだ。
蘭子は火花の様子を、恍惚とした笑みでじっくりと観察していた。そのまま蘭子は唇を火花の耳によせ、ゆっくりと囁く。
「あなたの親友はね、わたくしの間者だったのよ」
それが、嘘ではないと。
火花は分かってしまっていた。
ありし日の拓海の態度と、すべての証拠が、それを真実だと物語っていた。
「……何が目的なの?」
震える声で火花は尋ねた。
表情の抜け落ちた火花を見て、心底楽しそうに蘭子は言う。
「うふふ、さあ、少し話しすぎたわね」
蘭子は再び手に力を入れ、火花の顔を真っ直ぐ自分の正面に引き寄せた。
唇が触れ合いそうな距離で、紅と青の瞳がぶつかり合う。
「とっても綺麗な瞳」
妖艶な声。けれど、底には計り知れない憎悪が宿っている。
「生意気で、愚鈍で、あの女にそっくり」
蘭子が言うあの女とは、きっと亡き母のことだろうと火花には察しがつく。
母と蘭子が、犬猿の仲で済まないような敵対関係であったことは知っていたから。
火花の紅い瞳を、蘭子は獲物を狙う蛇のように睨めつけた。
憎しみと愉悦、陶然が混ざり合った蘭子の眼差しに、火花は動けなくなる。
「石にしたら、どんなに美しいでしょう」
蘭子は背後に控える護衛から、空色の酒の入ったグラスを受け取った。
あの、舞踏会で見た、魔石入りの酒。
それを優雅に蘭子は口に含むと、そのまま火花の唇を覆った。
「っ……あ……」
青の魔石入りの酒が、ピリリとした痛みを伴いながら、火花の喉を静かに下っていく。
途端に、頭が破裂しそうに熱くなる。
視界が歪み、目の前の蘭子の輪郭がぐにゃりと崩れていく。涼しく感じていた室内が、熱を帯びて暑くて仕方なくなった。
心臓の鼓動がうるさく鼓膜を壊すように響き、全身の汗腺から汗が噴き出していくのがわかる。
足に力を込めていられず、火花はぐにゃりと倒れ込んだ。
「ふふふふふ」
力なく足元に倒れた火花を楽しそうに嘲ったあと、蘭子は背後で立ち尽くしている息子に向き直った。
維月は入り口の扉を背に、一歩も動かず立ち尽くしている。両手の拳を握りしめ、爪が手のひらに柔く食い込んでいた。倒れた火花を言葉もなく、ただ呆然と見つめている。
「地下牢に連れて行きなさい。瞳だけは絶対に傷つけては駄目よ」
蘭子はまるで歌うように、維月と護衛達に命じた。
ところ変わって、凪の家。
玲は伊草の心地よい香りに包まれていることに気がついた。
カラスがけたたましく鳴く声が、鼓膜に響いている。
玲は、紫の瞳を静かに開いた。




