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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
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10・筆跡と真実


 夜明けは近く、東の空が僅かに赤みを帯びはじめた。

 凪の家の障子は開け放たれており、縁側から室内へ微かな光と風が舞い込んでいる。


 布団の中で眠る拓磨の健やかな寝息を背に、凪は胡座(あぐら)をかいて壁にもたれかかっていた。

 薄暗い縁側をぼんやりと眺めていると、どんどん時間が溶けていく。


 静かだ。大抵の人間は夢の中。

 それが当然のことなのが、凪は羨ましくてたまらない。


 眠気の訪れない自分に嫌気が差しつつも、無理に布団に横になるつもりもなく、彼はただ、時間を消費していた。



 拓磨が丁寧に世話している、熟れた胡瓜(きゅうり)の茂る裏庭。そこへカラスが羽音を立てて訪れたことに、凪は気がついた。


 俯いていた顔をあげ、深い青い瞳でカラスを射抜く。黒いガラス玉のようなカラスの瞳が、しっかりと凪を見返した。



 凪の直感が囁いている。

 これから、喧騒が来訪することを。





 板戸が、予兆もなく突如けたたましい音を立てて開いた。


「凪さん!」

 鬼気迫る火花の声が、室内に響きわたる。


「うるさいよ」


 凪はのそりと立ち上がって、彼女の声量を注意しながらそちらを見た。




 ドレスの裾を大胆に裂いた火花と、彼女にもたれかかって肩で息をする玲の姿が飛び込んでくる。仮面舞踏会での作戦が、無事に遂行されたわけではないことを凪は察した。



 二人が室内に侵入する大きな音に、拓磨も目覚める。目を擦りながら火花と玲の姿を確認した拓磨はすぐに眠気を飛ばしたらしく、素早く立ちあがった。



「ごめんなさい、でも紫苑が」


 謝罪しながら、火花は室内の畳へ玲を横たえる。



 燕尾服姿の玲は早い呼吸を繰り返し、服や髪が噴き出す汗でぐっしょりと濡れていた。

 会話をするのも難しいようで、玲はただ、苦悶の表情で荒い息を吐くのみだ。


 拓磨が機敏に玲に近づき、彼の頭の下へ枕を入れる。そのまま玲の手首を取り、脈診を試みた。

 数秒後には脈がすごく早いです、とはっきりした声で凪に報告する拓磨に、火花は少しだけ驚く。



「これ、もしかして」

「青の魔石が入った酒を飲んでます。汗が止まらないんです」



 凪は玲の様子を静かな瞳でじっと観察し、火花の話を聞いて小さく頷いた。

 魔術師が他の種類の魔力を取り込むと、魔力同士が反発して不調をきたすことがある。


 それを知っていた凪は、玲の状態に納得した。




「拓磨、湯を沸かして」

「はい」


 凪が短く指示を飛ばすと、拓磨はすぐに土間へ駆けて行った。

 珍しく頼もしい凪に、火花は尊敬の念を覚えないでもない。



「なんとかなりますか?」

「うん、多分ね」

「よかった」

「そのうち落ち着くんじゃない?」


 異なる魔力同士の反発は強烈だが、時間が解決するはずだ。

 体内に入り込んだ青の魔力が消費されれば、症状も落ち着くだろう。ましてや紫と青の魔力は親戚のような関係であるから、比較的早く解消されるのではないかと凪は考えている。





 火花は玲の様子に心痛を感じながらも、凪の言葉に胸を撫で下ろした。



 安堵に呼吸を整えたのも束の間、火花は弾かれたように部屋の隅へ駆ける。

 そこに置かれた風呂敷を勢いよく解きはじめた。


 中には、着慣れたブラウスと、黒袴と、そして蛍の簪。




「藍川の資料のありか、聞き出したんです」


 裾を派手に裂いたドレスとこの洋髪では、動きにくくてたまらない。

 その場でドレスを脱ぎ捨てながら、火花は凪へ情報を伝え始めた。


 一応の礼儀として凪は彼女に背を向け、そちらを視界に入れないようにする。



「庭園の枯れ井戸の底から行ける、秘密の部屋があると」


 凪はその無遠慮な様子をはしたないと咎めようかと迷うが、焦燥にかられる火花の様子に口を噤み、じっとその話に耳を傾けた。


「今から行ってきます。執事が正気に戻って、蘭子に全て報告してしまう前に」


 つまり、作戦の半分は成功したらしい。

 部屋の存在は突き止めたが、潜入はできていないという現状を凪は把握して、思考を巡らせる。



「ふーん」


 火花の言うことにも一理ある。

 紫の魔術を使用したことが相手に露見すれば、すぐに証拠を隠滅されてしまう。


 紫や青の魔術には一定時間の効力がある。件の執事には紫の魔術を使用されたという自覚が、今はまだないはずだ。強力な紫の魔術であれば、半日は保つだろう。


 だがしかし、このじゃじゃ馬を単身で向かわせて良いものか。

 火花の剣術や魔術は非常に強力であるが、凪は彼女の激情家っぷりが、とことん潜入の任務と相性が悪いことに気がついている。



「紫苑を頼んでもいいですか」

「……面倒だなあ」


 凪は、嫌とは言わなかった。



 快方が見込まれるとはいえ、玲を拓磨だけに任せるわけにもいかない。



 凪は、彼女に任せるしかないとの結論に至る。

 慣れない「待機」という自分の役割に、思わず髪を掻きむしった。




 火花は着替えを素早く終え、玲から贈られた簪を短い時間、じっと見つめた。


 蛍が彫られた琥珀が、鈍く光っている。その強すぎない煌めきが、火花を励ましている気がした。

 瞼を閉じる。一拍して、意志を持って瞳を開いた。


 慣れた手つきで黒髪を一息でまとめ、その中央に、蛍の簪を挿す。

 そして最後に、帯に愛刀を挟んだ。




「行ってきます」


 玲の様子を横目に確認して、火花はそう言うや否や、嵐のように土間を抜け、止める間もなく外へと飛び出していく。



「はあ」


 裏庭にじっと留まっていたはずのカラスは、音もなく飛び立っていったらしい。

 それを確認して、凪は溜め息をつきながら天を仰いだ。










 さて、火花は一人、藍川邸にとって返した。

 夜が明け、暴力的な太陽が頭を覗かせ始めている。


 藍川邸は舞踏会を終えたのか、先程までの危険な熱狂が嘘のように、静けさに包まれていた。

 藍川の使用人たちが数人、館の窓辺で働いているのを火花は遠目に確認する。



 慎重に姿を隠しながら、薔薇の薫る庭園を探索した。




 案外簡単に、枯れ井戸は見つかった。

 上から底を覗き込むと、内部にしっかりとした鉄の梯子(はしご)がかけられている。


 火花はそれをゆっくりと降りて、深くはない底へ到着した。




 目の前に、重々しい鉄の扉が現れる。

 滲む太陽の光のおかげで、視界は悪くない。


 息を一つ吐いて、扉に手をかけた。

 冷たい鉄の感触が火花の体温を冷やし、頭上でカラスが鳴く声と、扉の動く鈍い音が低く響く。





 息を潜めた火花の網膜に、室内の様子が飛び込む。


 小さな部屋。床には蒼い絨毯が敷かれ、壁には天井まで伸びる本棚が置かれている。その中には、整理された書類がびっしりと詰まっていた。

 中央には大きな机が置かれており、その上には、いくつかガラス瓶が整列している。


 瓶の中には当然のように、青い魔石が数粒入っていた。




 仄暗い室内には、誰もいない。



 井戸の底らしく湿度が高い。紙とインクの匂い、そしてあの不快な蘭の香りが鼻をつき、火花は顔を歪めながら、部屋へ侵入した。


 机の上に蝋燭台が置かれている。

 それに気がついた火花は、紅の魔術を発動して灯りをともした。


 室内が鮮明に照らされる。





 机の上には、いくつか紙の資料が並べられていた。


 なんとはなしにその資料に目をやって、そして、思考が停止した。







「………………え?」


 心臓が大きく跳ね、全身が急速に温度を失っていく。




 間の抜けた声が、気付かぬうちに自分から漏れていた。





 火花と雅臣についての、詳細な手書きの資料。

 背丈などの身体的特徴から、性格、好物や嫌いなものまで。


 几帳面な文字。

 どう見たって、それは。








「……拓海?」




 彼の筆跡だ。

 見慣れていた彼の文字。見間違えるはずがない。




「どういうこと?」


 なぜ、彼の筆跡で詳細な自分と主人の資料が書かれている。

 なぜ、それが藍川の秘密の部屋にある。




 頭によぎる可能性に、火花は言葉を失って立ち尽くした。

 呼吸さえ忘れ、その資料を呆然と見つめ続ける。








「まあ」


 艶やかな毒が、火花の鼓膜をねっとりと揺らした。



「泥棒とはいただけませんわね」



 火花の嫌悪する甘い香りが、高い湿度を纏って火花の全身を囲っていく。

 部屋の一つしかない出入り口を睨みつけて、火花は唇を血が滲むほど強く噛んだ。


 脳は衝撃に、鈍く思考を奪われたまま。



「黒宮のお嬢さん?」


 美しく紅を引いた唇がゆっくりと弧を描く。

 藍川蘭子と維月、それに護衛の男達が、勝ち誇ったようにそこに立っていた。




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