2・静謐と激情
紅華帝国の皇宮の廊下には、深紅の絨毯が敷かれていた。
音が吸い込まれ、造られた静謐が漂っている。
火花は口元を綻ばせる。
隣の男が、あまりにも忙しない様子なのが、可笑しくてたまらないのだ。
「拓海、そんなに緊張しなくても」
「火花、やっぱり外で待とうよ」
「嫌だよ。暑い」
拓海が落胆のため息をつく。気がつかないふりをして、火花は窓の外を見た。
格子窓の向こうでは、夏の陽が白くきらめき、庭の青葉を鮮やかに照らしている。
ささやかに吹き抜ける風が、白檀の香を運び、火花の黒い制服の裾を揺らした。
火花とて、皇宮の空気は苦手だった。荘厳すぎて息がつまる。
それでも、この夏の暑さには敵わない。屋外よりは明らかに涼やかな廊下から、出て行きたくはなかった。
二人は今、廊下の端で雅臣の到着を待っている。
拓海は火花の親友だ。
武科の火花とは異なり、文科の白い制服を涼やかに着こなす、長身の同級生。
ひょろりとした背丈は弱々しく見えるが、丸く大きな瞳が不思議な存在感を放っている。
平民出身だが、火花を通して雅臣とも親しい。
立派な第二皇子の側近候補だ。
皇宮は、本来なら気軽に出入りできる場所ではない。
幼い頃から雅臣と共にいた火花は何度も訪れているが、拓海は初めてらしく、緊張するのも無理はない。
だからといって、廊下でまで硬くなる必要はないのに。
そう思いつつも口には出さず、火花はそわそわと視線を動かす拓海を横目で見やる。
学院の授業中は落ち着き払って医術の論説を発表するくせに、態度の落差が面白くてたまらない。
「殿下、遅いなあ」
不安そうに、ぼそりと拓海が呟く。
時間を守らない主人に火花は慣れきっているため、待機は得意分野だが、拓海はまだそうではないようだ。
哀れに思った火花は、ふと思いついたことを拓海に提案する。
「ね、帰りに甘味処に寄らない?」
「え?」
手を叩き、弾んだ声で言う火花の提案に、拓海は大きく瞬きをした。
「ほら、学院近くの。前から気になってたんだよね。拓海も好きでしょ」
「……まあ、好きだけど」
「でしょう? 殿下抜きで行こうよ」
火花は肘で軽く拓海の脇腹を小突く。
拓海は柔らかく笑って、その後胸を押さえる拳をかすかにぎゅっと握りしめた。
赤みを帯びる拓海の頬を、夏の強烈な陽光が照らし出している。光は窓枠の影をも赤い絨毯に落とし、二人の距離をやわらかく包んでいた。
「じゃあ決まり。でも奢らないよ?」
「はは……分かってる」
口元に笑みを浮かべたまま、拓海は不自然に、視線を落とした。
不意に、強い日差しが翳る。
厚い雲が太陽を覆ったのだ。
廊下が色を失っていく。
空間に、重苦しさが忍び寄った。
数人の集団が、廊下の奥からゆるやかに近づいてくる気配がした。
そちらに目をやって、先頭に立つ男の顔を見た瞬間、火花の胃の奥が急激に冷たくなっていく。
柔らかそうな黒髪に、氷のような温度を宿した、鋭い紫の瞳。
腹立たしいほど再生される、呪いの声。
紫苑玲は従者を背後に従え、ためらいなく歩み寄ってくる。
あの灼ける日に味わった、指先ひとつ動かせぬほどの悔しさが鮮明に蘇った。
「なんで、あんたがここに」
気づけば、苛立った声が勝手に火花の口をついていた。
玲は火花と同じ黒の制服姿だった。
しかし、背に従者を引き連れ堂々と歩く様は、学院で一匹狼のように過ごす姿とまるで違って見える。
刺々しい火花の声に、玲は足を止めた。
紫水晶が、真正面から火花の漆黒の瞳を射抜く。
「……お前には関係ない」
温度のない、冷たい音。
いけすかない。
火花の腹の底から熱い波がこみあげる。とめどない激情が、血液に乗って全身を巡っていく。
紫の瞳を睨めば、氷のように煌めくその奥に、確かに熱が滲んでいた。この男も、どうやら自分のことが気に入らないらしい。
険悪を極める二人の視線がぶつかる空気に、拓海が小さく身じろぎした。
「火花、落ち着きなってば」
拓海は弱々しい声で袖を引くが、火花はてこでも動かない。少なくとも、玲より先に視線を逸らすことはしたくなかった。
しばらくして、玲はあっさりと火花から顔をそらし、何事もなかったかのように歩き去った。
衣擦れの音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。
いつの間にか雲が晴れ、再び強い陽光が差し込んでいた。
窓の外からは小鳥の囀りが流れ込んでくる。
玲の背をなおも睨み続けながら、火花は拳を固く握りしめた。
できることなら、今すぐあの背中に斬りかかり、刀を交えたかった。
「あの鉄仮面、負けたらどんな顔すると思う?」
「えっ」
「次こそ、ぜーーったいに、負かす」
――きっと今夜も、あの不愉快な夢を見る。
その予感に火花は、唇の端を歪めた。




