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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
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9・「信じてる」


「聞こえているのか。仮面を取れ」


 維月は強い口調で命じる。

 辺りには維月の護衛と思われる、帯刀した男が六人。火花と玲を威圧するように、いつのまにか周囲をぐるりと囲んでいた。


「取れないのか」


 維月は腕を組み、反応しない火花と玲を鼻で笑った。

 火花は仮面の下で、唇を噛み締めながら考えを巡らせる。


 仮面を取れば、確実に正体を知られる。

 玲はなおも汗を噴き出し、肩で息をしていた。二人で一気にここを駆け抜け、逃走することは出来そうにない。


 どこからか聞こえる可愛らしいふくろうの鳴き声さえも、窮地に陥った自分達を笑っている気がした。焦りが思考を鈍らせていく。熱を孕んだ風が、柔らかく、火花と玲の頬を撫でていった。




「申し訳ございません。体調を崩してしまいまして、こちらでお暇させていただきます」


 一つ息を吐いて、火花は誤魔化しを試みた。

 下げたくもない頭を下げ、慎重に丁寧な声音で告げる。ある意味真実ではあるので、嘘くさい音にはならなかった。




「そうか。まあそうだよなあ」

 維月は嘲笑った。口元を釣り上げ、玲を真っ直ぐ見据えて続ける。


「紫の魔術師があれを飲んだら、無事でいられるわけがない」

「は?」


 火花の口から、驚愕と怒りを混ぜた感情が飛び出した。

 維月は満足そうに、さらに笑みを深めて、確信めいた声で言う。



「黒宮に紫苑だろ。さっさと仮面を脱いで土下座しろ。そうしたら見逃してやらんでもないぞ?」


 火花の短い堪忍袋の尾が、ぷっつりと切れる。

 正体が知られているなら、面倒な演技も、この鬱陶しい仮面も必要ない。



 火花は自らの仮面を片手で掴み、乱暴に投げ捨てた。カランと乾いた音が石畳に響く。


 視界が良好になる。目の前にはあの憎たらしい維月が、余裕の笑みを浮かべて佇んでいた。

 周囲には、すでに抜刀した護衛が六人。隣の玲は変わらず荒い息をしている。



「この下衆野郎。誰がひれ伏すって?」

「おい……!」


 今にも飛びかかりそうな火花を、玲は息も絶え絶えに諌めようとする。

 火花は玲の様子に、焦燥を覚えた。

 青白い月明かりのせいか、いっそう顔色が悪く見える。首筋には玉のような汗がいくつも浮かび、仮面の奥の瞳孔が散大しているように思えた。


 火花は玲に肩を貸し、数歩だけ移動して、背後の庭園の生垣に彼の背を預けた。

 小さな葉が密集し青々しく茂る生垣は、玲の体重を優しく包み込む。


 荒い呼吸を繰り返す玲に、少しだけ笑みを浮かべ、火花は告げた。


「休んでて。蹴散らしてくる」

「……お前」

「黙って見てて。次は私の番」



 玲が身体を張って、あの魔酒から守ってくれた。次は自分が玲を守る番だと、胸が高揚感と使命感に満ちていくのを抑えられない。





 火花の誓いのように真っ直ぐな言葉は、玲の胸に直接飛び込んでいった。

 彼女と背を合わせて、共に戦えたらどんなにいいだろうと玲は思う。


 けれど、視界が歪み、頭が割れるように痛む今の状態では、足手纏いにしかならないことは容易に想像がつく。




 火花は、玲が手にする仕込み杖を半ば無理矢理もぎ取った。

 そのままくるりと背を向け、維月達に向き直ろうとした火花のドレスの裾を、玲は思わず掴む。



 弱々しい力だった。火花は苦笑する。




「信じてよ」


 火花は僅かな心痛を滲ませて言った。

 ほんの少し、声が震えていたかもしれない。




「信じてる」


 間髪いれず、玲は言った。




「……やりすぎるなよ」


 言い終わって、玲は手を離した。





 彼の小さな言葉が、全身をじんわりと熱くする程嬉しかった。





 火花は玲を守るように、背を向けて敵に立ちはだかる。

 臙脂(えんじ)のドレスの裾をぎゅっと掴み、指先で勢いよく布を裂いた。

 玲から奪った仕込み杖から刀を取り出し、中段に構え、維月たちを睨み据える。



 火花の瞳の中で、怒りと決意が燃えていた。





 風が止む。




 一番右端の護衛に向かい、火花は跳躍した。

 その速さに驚愕する、男の表情が目に入る。

 あっという間に間合いを詰め、身を引こうとする男から刀を弾いてやると、維月の声が飛んだ。



「捕えろ。殺しはするな!」


 残りの五人が、一斉に火花の背後を狙う。

 瞬時に火花は転回し、五人の間をすり抜けるように走った。


 あまりの機敏さに目で追いきれず、困惑する男のうちの一人の背中を、火花は思い切り蹴飛ばす。男がよろけたところを、股下から刀を峰打ちで振り上げた。



「うが……!」


 断末魔にもならない悲鳴を漏らし、また一人が倒れる。



 維月は思い出す。目の前で踊るように戦うのが、武勇で名を馳せる『黒宮家』の長女であることを。



「男を狙え!」


 維月は唇を噛み締めながら、護衛達に指示を飛ばした。




 そこで、パチリ、と火種が芽吹く。






 玲は危うくて、荒々しくて、しかし心のどこかで安穏を覚えさせる音を聞いた。


 視界は不規則に揺らいでいる。汗で仮面が濡れ、睫毛に溜まった水滴が視野を狭めていた。

 それでも、目の前の美しく、苛烈な光景をどうしても見たいと思った。



「こいつに指一本でも触れてみろ」


 火花が目の前に、背を向けて立っている。

 耳障りなほどの鼓動が、自分のものなのかよく分からない。

 この背中をずっと、ずっと見ていたいと、熱に浮かされた心が呟いていた。




「消し炭にしてやる」


 彼女の背に小さな炎が走り、それがどんどんと大きくなっていく。

 月光と炎の強い光が混ざり、火花の輪郭をぎらりと浮かびあがらせた。


 一段と強い閃光が走る。

 炎の渦が火花の足元から、轟音をあげて立ち上がった。

 場の全てが、紅く照らされていく。


 瞬間、その熱い炎が四人の護衛の行く手を阻むようにうねり始めた。

 炎の渦はやがて龍の形を成し、紅蓮の瞳で敵を睨み据える。

 火花が手で繰ると、龍は熱を撒きながら咆哮し、生ぬるい夜気を切り裂いていった。


 龍を従えた彼女に抗える存在は、今、ここにない。





 動きを止め、(おのの)く護衛達を横目に、火花は玲の側に駆けて戻った。


 変わらず顔色の悪い玲を抱き起こし、肩を貸す。

 動きを止めた維月達を一瞥した後、二人は足早に歩き始めた。



「くそっ!」


 二人を果敢に追いかけようとする維月の首元を、高速で何かが通り抜けていった。

 カラン、と高い音がして、彼の背後の石畳にそれが落ちる。



 小型ナイフだった。

 ガーターに仕込んでいたそれを投げ飛ばした火花は、歩みを止めず維月を睨みつける。


 僅かに痛みを覚えた維月が、自身の首元を抑えた。ぬるりとした血の温かい感覚に、維月は尻餅をつく。




「急いで戻ろう」

 火花は玲の耳元で告げる。玲は返答せず火花に導かれるがまま、気力を振り絞って歩き続けた。








 二人は気が付かない。

 藍川邸から去る火花の姿を凝視し、唇を震わせる男の存在に。


「櫻子……?」


 外套を纏った壮年の男は呟いて、庭園を横切る火花から目を離さなかった。

 その()()の瞳には驚嘆と、それを覆い隠すほどに湧き上がる歓喜が映し出されていた。



 男は、宵華宮(しょうかのみや)と呼ばれている。

 紅華帝国、その現皇帝の実兄であった。







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