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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第三章 艶やかに蠢くもの
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8・魔酒と傀儡

 妖しい液体の入ったグラスを、参加者達はひとり、またひとりと給仕達から受け取っていく。


 仮面を付けたその男女は皆、興奮したように頬を紅潮させていた。



 火花と玲は、その彼らの異様な様子に唾を飲み込む。不穏な高揚感が場に満ちはじめた。


 二人も、会場を回る給仕から一つずつ杯を受け取る。

 困惑しながら手元近くで観察すると、その液体がどうやら酒らしいと気がついた。





 すぐに二人は息を呑み、顔を見合わせる。

 魔力が、その空色の酒から薫っている。



 グラスの底には、青の魔石を砕いた粉がわずかに溶け残っていた。


 底から小さな気泡がぽつぽつと液面に向かって伸びていくさまは、いかにも涼やかだ。その清涼感がこの場にそぐわず、そら恐ろしい印象を火花に植え付ける。



「それではみなさま、乾杯を」


 蘭子も同じグラスをひとつ持ち、高く掲げる。

 それを合図に、仮面の男女は一様に、蘭子に倣った。




 恍惚とした表情で、酒を飲み干していく。




 蘭の甘い香りが、広間に這うように、じんわりと満ちていった。

 火花は半歩身を引こうとして、背中を壁にひたとつける。本能的な恐ろしさに、背筋が冷たくなるのが分かった。



「絶対に飲むなよ」

「分かってる」


 玲が小声で告げる。火花は会場の参加者達から目が離せなくなった。



 皆、様子がおかしくなっていく。


 うわごとのように何かを呟き始める者もいる。左右にゆっくり体を揺らす者も、楽しそうに笑い始めた者もいる。





 そんな客人達が蔓延(はびこ)る広間の中を、藍川蘭子は縫うように闊歩しはじめた。



 蘭子の近くの参加者達は、まるで女神を崇拝するように、皆蘭子に頭を垂れていく。


 蘭子殿。蘭子様。

 男女問わず、仮面をつけた貴族達は、そう譫言のように呟きながら崇めていた。


 火花と玲の目には、彼らはもはや人間というより、傀儡に映った。



 その傀儡達をまるで装飾品でも見るような目つきで、蘭子は満足そうに眺める。


 恍惚として彼らの視線を受け止める蘭子が、何より最も不気味で、得体のしれない怪物に思えた。





「吐き気がする」


 火花は思わず口元に手をやった。

 この空間の、全てが気持ち悪かった。



「いたぞ」

 玲が、低い声で呟く。


 彼の視線の先を追うと、初老の執事らしき男が、広間の奥に控えるように立っていた。

 ずっと探していた目標の出現に、火花は背筋を伸ばす。


 行くぞ、と玲は小さく火花に声をかけた。


 この不気味な会場から一刻も早く抜け出したいという意思を玲から感じる。

 もちろん火花も同意見だったから、すぐに頷いて歩き出した。



 二人は会場の異様な雰囲気への嫌悪感を潜めながら、目立たぬよう移動する。


 そうして、執事の側までくると、火花は玲の腕に手を回した。


 言葉は交わさない。しかし、視線を交わせば、お互いの意図は伝わった。





「失礼、伺いたいのだが」


 仮面の奥で、玲の瞳が熱を持つ。

 玲の静かな問いかけに、藍川家の執事は怪訝そうな表情を浮かべた。


 火花は俯き、玲に少しもたれかかった。具合が悪いように見せるためだ。


「連れが夜風に当たりたくなったようで。どこか案内してもらえるか」

「かしこまりました」


 執事はうやうやしく一礼した後、二人を案内すべく広間から歩き出す。




 執事を先頭にして、三人は大広間から扉をくぐり、廊下を進んだ。

 寄せ木細工の廊下に、三人分の足音が重く響く。



 参加者はほとんど会場内にいるようで、廊下は給仕の使用人が数人行き交う程度だった。


 絵画が飾られた荘厳な廊下を奥まで進んでいくと、大きな窓と、そこから通じるバルコニーが目に入る。




 バルコニーに出ると、満月から明るい冴え冴えとした光が降り注いでいた。

 夏の夜風は生暖かいが、あの会場の空気よりは遥かにマシだと火花は思う。


 こちらでおやすみくださいと、案内を終えた執事に、火花と玲は礼を言った。

 そして密かに、辺りに人がいないことを確認する。



「あなたは藍川殿の執事かな」

「はい、左様でございます」


 少し嗄れた声。察するに、藍川家に仕えて長いのだろう。

 玲は肺いっぱいに空気を吸い込み、告げる。





「では、単刀直入に聞こう」



 玲が仮面を、ゆっくりと外した。


 紫の光が、月明かりを浴びて強く輝く。

 湿度の高い風が、玲の柔らかい黒髪を僅かに揺らした。


 その紫の魔術の煌めきが、火花はこの空間の何よりも、美しいと思う。





 魔術を受け、執事の黒い瞳がじんわりと、どこか虚ろに変化する。

 真っ直ぐ玲の瞳を見据え、執事は彼の質問を待つように無言のまま直立していた。




「藍川蘭子の秘密を知りたい。知っているか」

「奥様は私にも詳細を話して下さりません」


「秘密の資料のありかを知っているか」

「はい」


「どこにある」

「地下の資料室でございます」


「その部屋に行く方法は?」

「庭園の枯れ井戸の底に、扉がございます」


 漏れ出てきた情報に、火花と玲は顔を見合わせた。

 バルコニーから見渡せば、眼下に洋風の庭園が広がっている。



 玲は仮面を再び付けた。

 魔術の残渣のせいか、執事は虚ろな表情のまま、言葉もなくその場を去っていく。


 執事の背が見えなくなったところで、玲は大きく呼吸した。

 バルコニーは月光に照らし出され、お互いの表情と庭園がよく見える。


 薔薇が生い茂る整えられた庭を、二人は見回しながら言葉を交わした。



「枯れ井戸……」

「見えた?」

「いや」

「探そう」



 二人は、グラスをバルコニーの手すりに置いた。


 目的は果たした。さっさとこんな不快な会場からは離れ、その井戸を探したい。




 バルコニーから飛び出して、廊下を足早に通り抜けようとした、その時だった。



「お客様」



 一人の給仕が、火花と玲の行く先を塞ぐように立ち、声をかけてきた。

 訝しむ様子を見せる給仕に、二人の足が止まる。





 緊張感が場に満ちた。


「お酒がすすんでいらっしゃらないようですが」


 給仕はバルコニーに置き去りにされた、酒の入ったままのグラスを見ていた。

 怪しまれている。



「申し訳ない、随分あの酒は温まってしまってね」

「左様でしたか。こちらに冷えたものがございますので、是非」


 玲が告げる言葉に納得した様子を見せた給仕は、自身の手元にあった新しいグラスを玲へ渡した。もちろんそのグラスの中にも、あの青い液体がたっぷりと注がれている。




「どうする、気絶させる?」

「あちらにも人がいる。穏便に済ませよう」

「でも」



 玲と囁き声で話しながら、火花は仕込んである小型ナイフを、ドレスの上からそっと撫でる。


 確かに、この給仕の奥にも数人の人影がある。ここで騒ぎを起こせば、枯れ井戸の探索は難しくなるだろう。逡巡して、火花は唇を引き結んだ。



「連れは体調を崩してしまってな。私が是非いただこう」



 玲の言葉に、火花は驚いた。仮面の奥の紫を覗き込む。


「俺が飲む」

 玲が小声で言う。


 紅の魔術師の火花より、より青の魔術師に近い、自分の方が影響が少ないだろう。

 逆に火花が青の魔石が入った酒など飲んだら、どんな影響があるか分からない。

 そう思って、玲は決意した。


 火花は止めようとするも、玲は勢いをつけて、グラスの中の液体を飲み干す。





 酒は舌が焼けそうなほど、熱かった。

 喉を通り抜けると、弾けるような微かな痛みが玲を襲う。



 刹那、玲の視界がぐにゃりと揺らいだ。


 三半規管が破壊されたように、世界の平衡が歪んでいく。

 頭を揺すられているような感覚と共に、心臓の大きな鼓動が痛いほどに鼓膜に響いた。

 全身の血が熱を持ち、身体を暴力的に温めていく。


 足元が抜ける心地がして、きちんと立てているかどうかすら曖昧だった。



「とても、良い」

 なんとか玲は声を捻り出す。


 火花は思わず、玲の肩を掴んだ。噴き出しはじめた汗の量が尋常でない。

 他の参加者のような状態ではないが、具合はすこぶる悪そうだった。



「そうおっしゃって頂けて、光栄でございます」


 給仕は玲の様子には気付いていないのか、そう言って、頭を下げた。

 そして何事もなかったかのように、その場を去っていく。





「大丈夫?」

「……くそっ」


 どう見ても無事ではない。

 給仕たちは、監視の役目も兼ねていたのかもしれない。

 参加者が皆酒を飲んだか、青の魔石を摂取したのか、確認していたのだろう。



 ただ、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 まともに歩けない玲を支えながら、火花は歩き出す。



 長い廊下を抜ける。大広間では、再び演奏が始まったらしい。

 漏れ聞こえてくる優雅な音を背に、屋敷を二人はそそくさと後にした。



 なおも明るい満月が空に懸かり、二人を出迎える。

 屋敷から伸びる石畳は真っ直ぐ長いが、それでも門まで歩いていくしかない。


 具合の悪い玲を慮りながら、火花はひたすら前だけ見据え、足を動かした。



 左右にはバルコニーからも見えた、薔薇の庭園が広がっている。

 この広い庭のどこかに、きっと枯れ井戸がある。探索したいが、今は玲の体調が最優先だ。


 石畳は二人分の足音をよく響かせていた。

 もう少しで庭園を抜け、門へ辿り着く。


 そう火花が安堵しはじめた時、涼やかな声が二人を背後から刺した。





「そこの二人」

 藍川維月が、立っている。

 その声が、夜気を震わせた。


「仮面を取ってもらおうか」


 月光の中、鋭く青い瞳が、氷のように冷たく二人を睨みつけていた。


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