6・拓海と拓磨
火花と玲の冷たい視線と、凪の薄ら笑いが場に残る、素朴な凪の家。
そこへ、また一つ、新たな声が加わる。
「ただいま戻りました」
板戸が再び音を立てて開き、変声期を終えたばかりの少年の声が室内に響いた。
凪を除いた四人は、一斉に目線をそちらに向ける。
凪だけはその少年の正体が分かっているらしく、何の反応もしなかった。
「師匠、いい加減起きてくだ……」
諦念が含まれた声を発する少年は、室内に集まる来訪者達の姿を確認して動きを止めた。
彼は薄い空色の着物を纏い、膨らんだ風呂敷を抱えている。明らかに買い物帰りだと分かる格好だ。
口を噤んだその少年は、凪の顔をじっと見て、それから大きな溜め息を一つ溢した。
凪は少年に、来客がある事の一切を伝えていなかった。
火花は少年の顔を見て、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
彼の顔に、見覚えがあったのだ。
丸く、大きな瞳が、彼そっくりだったから。
「……拓海?」
思わず火花は呟いてしまう。
横の玲と雅臣が、火花の表情を心配そうに確認したことに、彼女は気づかない。
じっと少年の表情を、瞬きすら忘れて見つめていた。
「僕は、拓磨と言います」
拓海より僅かに高い声で、拓磨は名乗った。
年齢に似合わず落ち着き払った態度で、少年は火花に向き直る。
「黒宮火花さまですよね」
柔らかく、しかしどこか悲しさの滲む表情で拓磨は言った。
火花はこの少年が、他ならぬ拓海の弟であることを確信した。
落ち着いた態度、大きな瞳、優しい表情。
彼と、全く同じではない。けれど、懐かしい彼の痕跡が少年の中に、確かに息づいている。
「この子と、二人で話してもいいですか」
火花は思わず雅臣と雪哉に向かい、そう告げていた。
困惑と憂慮を含んだ表情を浮かべて迷う雅臣とは対照的に、雪哉は小さく笑って頷く。
「いいよ。では私たちはお暇しよう」
優しい声音でそう言って、雪哉は間をおかずに立ち上がる。
雅臣と玲も、拓磨と火花の様子を窺ってから、納得したように立ち上がった。
「凪」
「えーーー」
ただ一人、動こうとしない凪へ雪哉が鋭く声を飛ばす。
凪は不貞腐れた態度で、不満を表情にありありと映していた。
「嫌ですよ。なんで自分の家から出てかなきゃならないのさ」
「立て」
「……ちっ!」
雪哉は凪を、いや、他人を従わせる事に慣れている。
盛大に舌打ちをしたあと、凪は面倒そうに立ち上がり、火花と拓磨を一瞥した。
そのまま何も言葉をかけることはなく、彼は首の後ろを揉みながら、大きな足音を立てて部屋を出て行った。
板戸が閉まり、室内は火花と拓磨の二人だけとなった。
縁側から入り込む風が障子をわずかに揺らす。その音が聞こえるのみの、静かな部屋。
拓磨は風呂敷を部屋の隅へ丁寧に置き、火花の正面に着座した。
その仕草からも、やはり火花は拓海を感じる。
拓海が、目の前の少年の中で生きているような錯覚に陥る。
腹から込み上げてくる熱が、喉を越えていく。声にならない音が口から飛び出しそうで、火花は唇を噛んだ。
「あなたのこと、よく兄から聞いていました」
拓磨が静かに、柔らかな視線を火花へ向ける。
「私も、よく聞いてたよ」
拓磨の大きな黒い瞳を見つめながら、火花は言った。
直接会話するのは初めてなのに、不思議と懐かしさがこみあげる。
「拓磨は、ここに住んでるの?」
「僕はここで師匠……凪さんにお世話になってるんです」
傍にある、畳まれた二組の布団はそういうことか、と合点がいく。
しかし、あの適当な凪のことだ。拓磨が世話になっているというより、拓磨の方が世話をしているのだろうなと火花は思う。
「師匠の生活能力は壊滅的ですけど、意外と面倒見はいいんですよ。常に人をからかっていないと気が済まないタチなのが玉に瑕ですが」
拓磨がどこか遠い目をする。やはり、凪に苦労させられているようだ。
「……あの事件が起こる少し前に、兄に師匠を紹介されました。しばらくの間厄介になれって」
今思えば、もうあの時、兄は死ぬつもりだったんでしょうね。
か細い声で、拓磨はそう言った。
膝の上に置かれた拓磨の拳が震えていることに、火花は気がつく。
「……身体は? 大丈夫なの?」
火花は探るような声音で聞いた。
「最近は調子がいいんです。兄がよい薬を作ってくれて……師匠や皇太子殿下に、素晴らしいお医者さんも紹介してもらいましたから」
本来、僕は謀反人の弟なのに。
呟いた拓磨の声には、申し訳なさが滲んでいる。
兄のことを信じているが、兄が謀反を起こしたことも、また事実。
その狭間で、身の置き所がない孤独と罪悪感に拓磨は苦しんでいるのだろうと火花は察する。
ある意味、あの適当な凪の側が一番心地良いのかもしれない。
それに、悔しいがあの人はとても強い。
仮に藍川が拓磨を狙ってきたとしても、凪の近くにいれば安心だろう。
拓磨が膝の上の拳を、ぎゅっと握りしめた。
「兄さんの人生を壊したのは、僕です」
後悔と苦悩を煮詰めた表情で、拓磨は火花に泣きそうな声で告げる。
「それは違う」
火花ははっきりと、強く否定した。
「拓海は死ぬ直前、最後に、貴方のことを話していた。沢山交流を持って、大きくなって欲しいって。あの人は最期まで、貴方のことを考えていた」
桜が舞い散る中、拓海と最後に交わした会話を鮮明に思い出す。
青白い顔をしながら拓海は、弟のことを頼むと、真剣な表情で話していた。
拓海の生きる糧となっていたのは拓磨の存在だ。それは紛れもない事実で、そのことを、拓磨は知るべきだと思った。
「貴方は拓海の全てだった。……だから、私は謝らないといけない」
火花は乞うように、拓磨の大きな瞳を見つめた。
拓磨と、その中に息づく拓海に告げる。
「もう少しだけ、拓海のことをよく見ていたら。もう少し、話をしていたら。もう少し早く、気づいていたら。もう少し……」
「いいえ。それでも兄は、一人で抱えてしまっていたと思います」
拓磨は哀しそうに笑って、首を横に振った。
「そういう人でした。火花さんも、知っているでしょう?」
火花は返す言葉を失った。
拓磨の言う通り、拓海はそういう人だった。
人に心配をかけまいと、自分のことは後回しで、いつだって人のことを考えていた。
火花は紅い瞳を揺らしながら、声を漏らさず慟哭する。
火花は帯の中から、慎重にガラス瓶を取り出した。冷たい瓶の温度が、火花の掌の熱を溶かしていく。
中には、拓海が遺したあの白い魔石が入っていた。
「この石について、知っていることを教えて欲しいの」
火花の真っ直ぐな懇願に、拓磨の表情が固まった。
兄は生前、この石について何も口外するなと言っていた。特に、雅臣と火花には。
「お願い拓磨」
少しだけ拓磨は迷うが、この強い視線に射抜かれては、逃れようもない。
それに、真実を知りたいのは拓磨も全く同じだった。
一つ大きな息を吐いて、微かに震える声で告げる。
「これは、薬です。僕の」
火花の表情は変わらない。驚かれないことに、拓磨は少しだけ驚いた。
「飲むと身体がすごく楽になるんです。どうしようもなく僕の体調が悪い時に飲ませてくれました」
拓磨は記憶を辿る。
「三年ほど前の話だと思います。僕、すごく体調が悪くて、どんな薬も効かなかった時期があって。兄がある日突然、この薬を持ち帰ってきたんです。砕いて飲めば不思議と身体が軽くなりました」
火花の表情が曇る。
小さな声で、拓磨は続けた。
「けれど本当に体調が悪い時以外は飲むなと言われて、いつも兄は畳の下に隠していました。お金も無かったのに、どこから購入したのか聞いても、兄は頑なに教えてくれませんでした」
胸の前で、拓磨は両手を握りしめた。
畳の縁をじっと見つめながら、思い出す。
「それからすぐ、兄が突然高等学院に入学して……不定期に、何も言わずどこかへ出掛けては、薬を貰ってくるんです。ここ半年くらいは、出かけるたびに、何か思いつめている様子でした」
火花は拓磨の言葉に、しばらく何か考え込んだ様子だった。
ややあって、彼女は拓磨を再び見据える。
その強い紅の奥には、確固たる意志が棲んでいた。
「必ず拓海が死んだ理由を突き止める。それが私にできる、せめてものこと」
兄が生きていたら、どう答えるのだろうと拓磨は思考を巡らせた。
危険だからやめてくれと言うのだろうな、とすぐに結論に達する。
「……はい。よろしくお願いします」
だけど、兄は知っていたはずだ。
いくら止めたところで、苛烈な彼女の意志を曲げることなんてできないことも。
「(兄さんが好きだったのは、きっとこの人だ)」
拓磨は火花を目の前にして、はっきりと分かった。
兄に想い人がいることに、感情の機微に敏感な拓磨は気がついていた。本人はなにも言わなかったが、時折少しだけ哀しそうに、けれど嬉しそうに日記を綴っていた。
その姿が、とても、幸せそうだった。
正面に座る火花の瞳は、触れれば火傷しそうなほど、強く燃えている。
拓磨には、兄が彼女を好きだった理由が分かった気がした。




