1・敗北と呪い
翌日、帝都・黒宮邸。
「あんの! 仏頂面の能面野郎!」
間の抜けた鈍い音が部屋に響く。
四華族のひとつ、黒宮家の長女・黒宮火花の自室だ。
畳の香る和室の、洒落た洋式のベッドの上。
長い黒髪が振り乱れるのも意に介さず、火花はひたすら枕を殴りつけていた。
その枕は、あの男を見立てた代物だ。
「へそ曲がりの、陰険王子!」
羽毛が飛び散る。枕はすでに、原型という概念から遠ざかっていた。
昨日、火花が通う高等学院で模擬戦闘が行われた。
その最終試合。火花は紫苑玲に敗北した。
同世代に負けたのは、生まれて初めてのことだ。
火花は、代々皇族の侍衛を務める名門・黒宮家の長女だ。その黒宮の家を、火花は誇りに思っている。
黒宮らしく武芸の才能を持ち生まれ、毎日の鍛錬を積んできた。
全ては主人である紅華帝国第二皇子・雅臣を護るため。
「いけすかない石像男!」
情けない音を立てて、羽毛がふわりと舞う。
敗戦後、父や兄に厳しく叱責され、仲の悪い級友からは失笑をお見舞いされた。
火花の胸は屈辱で満ちていた。しかし、何よりも癇に障ったのは、結果そのものではない。
『……本気でやれよ』
敗北の痛みに膝をついた己に落とされた、奴の苛立った声。
それが、耳から離れない。
言われるまでもない。本気で打ち合った。
あの男に刀を弾き飛ばされた感触を、まだ手のひらが覚えている。
「馬鹿にしてるわけ? 誰が手なんか抜くか!」
怒髪天を衝く勢いで、火花は容赦なく枕に拳を叩きつける。
枕が最後の悲鳴をあげ、羽毛が畳に雪のように降り積もっていく。
玲の真意はどうあれ、敗北という事実と、黒宮家と主人に泥を塗ってしまった失態に変わりはない。
悔恨が吐き気に昇華して、火花は乱れた前髪を乱雑にかき上げた。
そこでふと、廊下を無遠慮に走る足音に気がついた。
曲がりなりにも由緒正しい黒宮邸で騒がしい者は限られていたから、犯人は簡単に予測できた。
足音が近づき、躊躇なく部屋の襖が開け放たれる。
陽光を弾く美しい金髪と、紅の瞳が目を引いた。
予想どおりの来訪者に、火花は思わず溜め息をつく。
「ようハナ! お前、負けたんだって?」
満面の笑みで呼びかけられ、頭痛が走る。
火花は枕の成れの果てを、凄まじい速度で声の主へ投げつけた。
「ぐえっ」
顔面への直撃。来訪者は轢かれた蛙のような情けない声を上げる。
大量に舞った羽毛が、彼の金髪に纏わりついた。
「ごめんなさい、殿下。ついそちらに飛んでいってしまいました」
「“投げつけた”の間違いだろ」
投げつけたくもなるわ、火花は心の中で悪態をつく。
この男――第二皇子・雅臣は皇子らしからぬ自由奔放な人物だった。
それが彼の長所であったし、火花はそんな雅臣に心酔している。
ただし、火花はそんな主の性格を良いことに、時に従者らしからぬ無礼も働く。
その無礼を雅臣が咎めない事も、火花は熟知していた。
「殿下は悔しくないのですか」
火花は主を鋭く睨む。亡国の王子に負け、無様な姿を衆目に晒したのだ。
反皇族派の連中にとって、絶好の笑い種だっただろう。
それなのに当の主は、悔しがるどころか面白がっている。
叱ってほしいわけではない。けれど、喜ばれては信頼されていないようで腹が立つ。
「珍しく凹んでるお前が面白くてさ」
雅臣は瞳を柔らかくし、お前が負けるなんてなぁ、と呟いた。
その表情に、火花は反論する気力を削がれていく。
雅臣の手が伸び、ベッドに座る火花の黒髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
粗雑な手つきの奥に、温かい情愛がある。くすぐったくなり、顔をそらして手から逃れた。
そのまま白く染まる畳に降り立って、大きく背伸びをする。
外の太陽はすでに高い。日課である、鍛錬の時刻は間近だろう。
「鍛錬するんだろ?」
雅臣が、確信めいて笑っている。火花は主を見据えながら、強く頷いた。
「当たり前です」
火花の主は、目の前の男ただ一人。
幼い頃からそう決めている。
この憎たらしくも愛すべき主のため、二度と誰にも、あのいけすかない亡国の王子にも、負けるわけにはいかない。
「大変申し訳ないのですが、殿下。鍛錬にお付き合い頂けませんか」
落ち込む従者を笑いに来た報いだ。体力の果てまで付き合ってもらおう。
演技じみた声音で、火花は主を挑発した。
「今日のお前なら、俺、勝てるかもよ?」
「調子に乗らないでください。明日は筋肉痛で動けませんよ、殿下」
「さて、どうかな」
雅臣は嘯く。そう言う主の口元が無様に引き攣っているのを、火花は見逃さなかった。
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