11・蘭と月
藍川邸。深夜。
藍川維月は、母の前で唇を噛んでいる。
その部屋には、床一面に蒼い絨毯が敷き詰められていた。金糸で繊細な唐草が縫い込まれているそれは、足音を全て飲み込んでいく。
高い天井から吊るされたシャンデリアは、燭台の光を何十もの水晶で乱反射させ、部屋全体を照らし出していた。中央の黒漆塗りの机には、蘭の花が飾られている。香りは甘く、それでいてどこか刺々しい。
「維月、ご苦労さま」
歌うように、高く美しい声で藍川蘭子は言う。
維月は、優雅に腰掛けている母の表情を窺った。
母は、妖艶な微笑みを湛えている。
しかし、維月は知っていた。
母の表情は仮面に過ぎない。腹のうちには、どす黒い激情が渦巻いていることを。
「けれど、曖昧な報告をするものではありませんよ」
笑顔を絶やさず、蘭子は言った。
維月は、碓氷屋の別館で起こった出来事を蘭子に報告した後だった。しかしその内容は、『例の物を確認中、紫苑玲とその仲間二人の侵入があった。仲間は紅の魔術を使う女と、青の魔術を使う男だった』と、仲間二人の正体については曖昧な、不十分な報告だった。
「(仕方ないじゃないか)」
そう心の内で呟いているのも、きっと目の前の母には筒抜けなのだろう。
維月は紅の魔術を初めて見たことに動揺し、業火の向こう側にいる女の姿を確認できなかった。
「(黒宮火花に見えた気がした)」
けれど、彼女は黒宮の長女だ。学院でも黒い瞳だったはず。紅の魔術を使えるはずがない。
黒宮火花かもしれない、などと母に言えば、一笑に付されることは目に見えていた。
だから、維月は口を噤んだのだ。
仲間の一人と思われる、青の魔術師についても追加で報告できることは無い。
外で見張りをしていたはずの二人は、気付かぬうちに幻覚を見せられ、地面に這いつくばっていた。そんなことができるのは、強力な青の魔術以外にない。そのことは、維月自身もよく分かっている。
さて、あの紫苑玲が、魔術師二人と共に行動し、藍川の倉庫を探ってきた。
蘭子の関心は、今はそこにある。
「紫苑、ね……」
蘭子はゆっくり、咀嚼するように名前を口にする。
「残念だわ」
言葉とは裏腹に、蘭子は小さく笑みを零した。
深く昏い青の瞳を怪しく輝かせ、呟く。
「大人しくしていれば、生かしておいたものを」
音もなく、淑やかに立ち上がる蘭子の所作は、見る者の心を掴むほど洗練されている。
「分家の分際で、わたくしを探るなど――」
彼女は、机に活けてあった蘭の花を一つ、指先ですり潰した。
甘ったるい、咽せるような香りが室内に広がっていく。
「維月、その仲間二人について詳しく調べなさい。あまりわたくしを煩わせないでね?」
蘭子が優しく維月へ言葉を向ける。
維月は、喉元を撫でられるような圧迫感を感じた。小さく首を縦に振るしか、彼に選択肢は残されていない。
「蘭子、ご子息にそう冷たい言葉をかけるものではないぞ」
部屋の奥、分厚い濃紺のカーテンがかかる窓際。
紫檀の椅子に腰掛けた男が、空気を振動させるような、低く重厚感のある声で言った。
「あら、おやさしいですわね」
男を振り返り、蘭子は恭しく頭を垂れる。
「――陛下」
蘭子の美しい唇が、弧を描いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回より、第三章開幕です。
火花と玲の関係が、少しずつ変わり始めます。




