9・藍川と紫苑
火花は慌てて二階への階段を駆け上がる。
飛び込んできた光景に、思わず立ち竦んだ。
二階客室への引き戸は開け放たれており、室内が一望できる。
広いその部屋は一階と同じ畳敷で、造りもほとんど同じに見えた。
そして、中央には同じように、俵が山のように積まれている。
そこに玲はいた。右手に抜き身の刀を携え、藍川維月の胸ぐらを、力任せに掴んでいる。
月の冷たい光を浴びて、玲は冴え冴えと浮かび上がって見えた。
苦しそうに表情を歪ませる藍川維月は、玲の瞳を睨みつけている。
足元にはうずくまる、維月の護衛と思われる二人の男たち。きっと、玲がやったのだろう。
室内に足を踏み入れようとしたところで、火花は玲の発する怒気に気がつく。
「貴様」
玲が、恨みを濃縮したような声で言う。
腹の底から滲むような音に、火花は驚いた。
この男が、激情を表情に顕すところを初めて見た。
「吐け。知っている事を、すべて」
よく見れば、玲の足元には、例の濁った石が散らばっている。二階に置いてある俵にも、この石がぎっちり詰められていたのだろう。
玲が維月を掴む手の力を強めたらしく、維月の表情が険しくなる。
「なんでお前がここに……!」
「この石はなんだ。答えろ」
維月の掠れた声には耳を傾けず、玲は冷えた声音で告げる。
その時、玲の紫の瞳が、ひときわ鮮やかに煌めいた。
彼が、魔術を発動したのだ。
「(紫の魔術……?)」
強く、鮮やかな光が玲の瞳に宿る。
燦然として、そして。
何も、起こらない。
まるで、魔力がどこかで鈍く絡みとられているように。
玲の腕の力が抜け、維月は振り払うように、玲の拘束から逃れた。予期していなかったらしく、玲は信じられないものを見たように呆然としている。
そんな玲の様子を見て、維月は水を得た魚のように、玲に向かって吠えた。
「効かない、効かないねえ!」
声は少し嗄れていたが、精神的優位に立ったせいか、その声音は力強かった。
青い瞳を見開いて、玲を見据えている。
「やはり紫の魔術は、青の魔術の下位互換に過ぎない」
玲を貶めるよう、嫌味ったらしい口調で言う。
維月のこういう態度が、学院時代から火花は反吐が出るほど嫌いだった。
「何が王子だ、藍川の分家の分際で……」
維月が呟いた言葉に、火花は目を見開いた。玲の表情は、変わらない。
魂が抜け落ちたような彼を、火花は案じざるを得なかった。
「おい、いつまで寝てる」
維月は寝転がる男達を冷たい視線で見下ろすと、足で軽く蹴飛ばす。
「動け木偶の坊ども。少しは役に立って見せろ!」
維月が怒鳴るように言って、両手をそれぞれ、倒れている男達に向ける。
月明かりに浮かび上がる維月の瞳が、強く青に輝いた。
むくりと、まるで壊れた人形のように男たちは立ち上がる。意識がないような、足元のおぼつかない動きをしながらも、彼らは再び小刀を構え、玲に飛びかかる機会をうかがっているようだ。
目の前の男達が刀を構えているのに、玲は呆然としたまま、刀も構えない。
「(一体何をほうけて突っ立ってる……!)」
火花が室内に踏み込もうとすると、右肩が不意に掴まれた。
驚いて横を見ると、凪が顎をさすりながら、玲の様子をしらけた目で観察している。
いつの間にこの男は、館に入って来ていたのだろう。
「玲、だめだねえ」
凪には全く、玲の助太刀をするつもりがないようだった。火花は困惑する。
今の玲は、明らかにいつも通りではない。
初めて斬り結んだ、あの暑い夏の彼は、今ここに居なかった。
すぐに、男達が玲に斬りかかる。
玲も刀を構え応戦を始めたが、まったく太刀筋にキレがない。見苦しいほどの立ち振る舞いに、火花はもどかしくて仕方なかった。
今にも乱入しそうな火花を見て、凪は笑みを深めて言う。
「こういう時ほど、魔術を使うんだよ?」
ちょうどいい、練習だ。と凪は呟く。
「手を出して、前に」
凪の指示に困惑しながらも、火花は左手を伸ばす。
その手を下から支えるように、凪の手が火花の手首を無遠慮に掴んだ。
「君がこの前、魔力を暴走させちゃった原因を教えてあげる」
少しからかい混じりの、明るい声。玲が繰り広げている戦闘など、まるで目に入っていないかのように、凪は火花の瞳をじっと見た。
「魔術の経験とか修練とか、どうだっていいんだ」
妙に重みのある言葉に、火花は意識を傾ける。
「要するに、覚悟が足りなかったのさ、君にね」
「はあ?」
凪への苛立ちを隠せず、火花は低い声で告げた。
「私に、覚悟を語らないでくれる?」
腹が立った。
剣術も、魔術も、実力不足は身に沁みて分かっている。しかし黒宮としての覚悟だけは、火花にとって誇りであった。それだけは、譲れない。
「いいねえ」
凪は心底楽しそうに言った。火花の紅い瞳は、月明かりの下でも一際明るく輝いている。
「思いっきりやりな、火花」
諭すような、凪にしては優しい声音。
「もしも火の海にしちゃっても、僕が消してあげる。特別にね」
腹は立ちつつ、不思議な安心感を火花は抱いて、瞳に強く、魔力を集中させた。
あの暴走以来、魔術を使うのは初めてだ。それでも何故か、不安はなかった。
火花の瞳が、紅く、深く、煌めく。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。その熱が、心地良い。
パチリ、小さな火種が舞う音が室内に響く。
刹那、轟音と共に、紅い業火が玲の周囲を囲うように立ち上がった。
「なん……っ!?」
突然の炎の壁に、維月とその護衛たちは驚愕を表情に映している。三人とも慌てて身を引き、腰を抜かして倒れ込んだ。
玲は刀を携えたまま、立ち尽くす。
その紅く輝く壁は、玲を守っているようにも……彼を捕らえているようにも見えた。




