7・憤慨と矜持
特別室の客人へのもてなしを終えた碓氷屋の女将は、ひとつ階段を降り、二階へと向かっていた。
先程まで湛えていた笑みは鳴りをひそめて、今の彼女の表情はすっぽり抜け落ちたようだった。
碓氷屋の二階には厨房や、従業員たちの休憩室などが設けられている。女将はまっすぐ、とある休憩室へと向かった。
もともとは空き部屋であったのだが、いつの間にか、忌々しい輩の溜まり場になってしまった。以前は檜の香りが漂う静謐な空間であったのに、彼らがやってきてからは、汗と煙草の香りのする不快な部屋へと成り果ててしまったのだ。
漏れ聞こえてくる男達の下品な声に、女将は腹が立って仕方がない。声もかけず、勢いよく障子を開け放った。
「なんだい、女将さんか」
畳の上にごろりと横になっている一人の男がちらりと目線をやっては呟くように言う。
男の隣には疲れ切った様子で座り込む三人の男がいた。彼らも一斉に女将の方を見たが、すぐに興味を失ったように目線を外す。
「お客さんには手を出さないでって、何度も言っているでしょう!」
女将は声を荒げた。
この無法者達は、碓氷屋の従業員ではない。
半年ほど前、客足が遠のいた頃、彼らが現れた。使われなくなった別館を使わせて欲しいと言い出したのだ。
怪しい誘いであったが、見返りとして提示された金額は非常に魅力的だった。迷ったが、女将は提案を受け入れることにした。
碓氷屋の別館は、本館の裏手の森の中に建てられている。僅かな部屋数しかないが、かつては豪勢な部屋を用意して客人達をもてなしていた歴史もある。が、客足が遠のいた今、客室として使用しなくなって久しかった。
それからというもの。
定期的に荷車を大量に使用して、彼らが別館へ何かを出し入れしている様子を女将は見ていたが、その『何か』を彼女は知らなかった。しかし、それが良くないものであるという想像だけは、ずっと女将の脳内にこびりついている。
彼らはやがて、別館を占拠するだけでは飽き足らず、本館にも顔を出すようになった。食事の無心をしたり、本館の空き部屋を好き勝手に使い始めたのだ。
増長した男達は、碓氷屋で居候をしながら観光客に目をつけ、強盗のような所業を行った。
被害者には碓氷屋の客も含まれていたことで、ついに女将は激怒した。
客にまで被害が及ぶとなれば、碓氷屋の評判が落ちていくことは目に見えている。毎度毎度、女将は注意をしていたが、彼らはふざけた態度をとりつづけ、全く改める気配はないようだった。
「あんたたちに協力なんかするんじゃなかった」
吐露した言葉は本心だった。
女将には小さな息子がいる。その息子に碓氷屋を残してやりたい一心で、若くして主人を失った悲しみに耐え、なんとか経営の傾いたこの宿を立て直したかった。その必死な想いを踏みにじる男達のことを、女将は到底許せない。
彼らと手を結んだ過去の自分をひどく恨んでいた。
「悔いるのは勝手だけどねえ、もうあんたと俺たちは、戻れないとこまできてるんだよ」
俯きながら恨み言を吐く女将を鬱陶しそうに見て、男は溜め息をつきながらそう言った。懲りずに何度も自分達を糾弾する女将に辟易している男は、軽薄な態度はそのままに、けれど眼光を鋭くして女将へと視線を向けた。
「別館の件が外部に漏れてみろ、そうなりゃあんたも、この碓氷屋もおしまいなんだ」
明確な脅迫である。強い口調で告げられた女将は、唇を噛みしめた。
その刹那、障子が大きな音を立てて、再び開いた。
ずかずかと無遠慮に、部屋に立ち入る茶髪の男。
彼の青い瞳は、横になったままの男達を見て、侮蔑の色をありありと映している。
「臭いぞ、この部屋」
「坊ちゃん!おいででしたか」
鼻を摘みながら、藍川維月は吐き捨てるように言った。維月を見て、男達は慌てて正座へと居直り、頭を下げる。
藍川維月。四華族、藍川家の一人息子。
高等学院の卒業を契機に、家の経営を母から指南されていた。維月自身は乗り気ではないものの、母の権力には逆らえない。しぶしぶ、母の命で藍川の倉庫の一つを点検しにやって来たのだ。
この四人のごろつきのような男達は、藍川が雇った者だ。維月は彼らのことを視界にも入れたくないとばかりに、視線を女将へずらす。
「女将、倉庫を見せてもらうぞ」
「はい。もちろんかまいません……が」
「なんだ?」
「維月様、お願いです。彼らは碓氷屋の客に対して、強盗まがいのことをしているのです。どうか、どうか……」
女将は懇願した。男達より、この年若い華族の維月の方が、話が通じるのは明らかだった。
維月の眉間に皺が寄る。
「おい、本当か?」
「いやー、それがですね」
「十分な報酬は払っているはずだ。卑しい真似はやめろ、見苦しい。藍川の恥め」
男達の反論を聞こうともせず、心底見下すように維月は告げる。女将は維月の肩越しに、男達を睨みつけた。
「で、お前達はなぜそんなに疲弊しているんだ」
「いやあ、上等な着物を着てた男女がいたもんでね、ちょっと金を拝借しようと……へへ……」
「それで? しっかり返り討ちにあったのか」
「まぁ……そんなところです」
維月は残念なものを見るような目つきで、四人の男を見下ろした。
「しかし坊ちゃん、奴ら妙でしたぜ」
「奴ら?」
興味もなさそうに、維月は問い返す。
「紫の瞳の男と、紅の瞳の女でしたよ」
「紅だって?」
維月が鼻で笑う。
この帝国で、魔力を有する者はそう多くない。華族たちを筆頭に、ごくたまに平民達も宿すことはある。それをきっかけに、貴族へ取り立てられることもままある。
しかしそれは、青、黄、白ーーそんな色の瞳の話だ。
紅だけは、特別だ。
紅は皇族の証。長い歴史において、皇族以外が紅の瞳を宿したことは一度もない。
だから、彼らの言う事が真実なのであれば、その女は皇族の血を引くことになる。
皇族がこんな田舎町に居るなど、ありえない。
「夕陽のせいで見間違えたんだろ」
時間の無駄だと言わんばかりに嘆息する。
ひとつ溜め息を吐いた後、維月は面倒そうに男達へと告げた。
「おい、夜が更けたら確認作業だ。ったく、なんでオレがこんなマネを……」
ぶつくさ言いながら、乱暴に再び障子を開け放ち、維月は部屋を後にする。
陽が沈んだ。
まもなく夜が更ける。




