6・夕陽と揶揄
碓氷屋に着くと、帳場の番頭が恭しく二人を出迎えた。
碓氷屋は豪壮な三階建ての和風建築で、中央が大きく吹き抜けていた。下から見上げると使用人と客が幾人も、廊下を行き交うのが見える。
二人は履き物を預け、番頭に案内されるがまま緩やかな階段を登る。導かれたのは最上階、上級客用の特別室であるようだった。
眼前に、重厚な彫りをあしらった扉が現れる。
お連れの方が中でお待ちです、と声をかけられ、火花はその扉を開けた。
豪奢な和室が広がっていた。
正面の大きな格子窓から、今にも沈みそうな夕陽が、室内を鮮やかな橙色に染め上げていた。窓からはこの河越の町と、背景の緑豊かな山々が一望できる。広い畳敷の部屋には、中央に机が置かれ、床の間には掛け軸と枝物が飾られている。
しかし、何よりも目を奪ったのは凪の存在だ。
彼は着崩した派手な藤色の着物を纏って、窓枠に行儀悪く腰掛けている。品の良い部屋には不釣り合いなほど態度は悪いのに、この部屋の調度品が背景として似合う、不思議な男だと火花は思う。
凪は腕を組んだまま、薄ら笑いで二人を迎えた。
「ごくろうさん」
人を食ったような表情で言う彼のことが、やはり苦手だと火花は表情を曇らせた。
「ゴロツキとやりあってたね。楽しそうに」
凪は窓の外をひょいと指差す。確かにあの社の周辺も丸見えのようで、眼下にしっかりと見える。
この男は窓から、じっくり町の様子を観察していたようだった。
「良い撃退ぶりだったよ。お見事お見事」
演技じみた口調で褒める凪だが、そこから真意は汲み取れない。
唐突に、失礼いたします、と女性の声が部屋の外から聞こえてくる。
「女将でございます」
鈴の音を転がすようなその声は、よく通った。
女将は紺色の着物を纏い、髪を結い上げて、しっとりとした美しい所作で入室してきた。
両手に大きな盆を抱え、その上に湯呑みや茶器などを載せている。
「お疲れでございましょう。お飲み物をお持ちいたしました」
にっこりと笑みを浮かべる女将に、凪はありがとう、と言葉を返した。
女将は中央の机に向かい、お茶を淹れる準備を手際よく進めていく。玲と火花の二人は畳敷に適当に座ることにしたが、凪はどうやら窓からの景色が気に入っているらしく、その場から動こうとはしなかった。
「女将さん、この町って結構物騒だったりする?」
凪は再び目線を眼下に落としたまま、質問を投げかけた。女将は淑やかな所作で湯を注ぎながら答える。
「あら。何かありましたか?」
「この二人がね、さっき、不審な輩に襲われたみたいなんだよ」
「まあ。それは、災難でございました。お怪我はありませんでしたか?」
女将の視線が玲と火花へ向き、心底心配そうな声音で二人へ問う。
「ええ、平気です」
火花がはっきりとした声で答えると、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「それは何よりでございました。この碓氷屋には用心棒もおりますゆえ、安心してお過ごしくださいね」
優しい声でそう言いながら、女将は玲と火花へ淹れ終わった茶を差し出した。二人は順に会釈をしながら、目の前に用意された湯呑みと茶菓子を受け取る。
どこか和やかな空気が流れ始めた室内であったが、凪はその空気を読まずか、それともあえて読まなかったのか、得意の意地の悪い声音で言う。
「どうだかねえ。あんな近くで襲われたんじゃ、あんまり安心はできないなあ。頼みますよ、碓氷屋さん」
「お三方がお泊まりの間はとくに注意するよう、言い含めておきます。どうぞゆるりとなさってくださいな」
凪の攻撃をいなすように、女将は変わらず笑顔のまま、そう告げる。つづけて凪にも茶を勧めたが、後でいただくと凪はすげなく断った。
「ねえ女将さん、あの建物はなに?」
少しの沈黙の後、凪は窓の外、左端に見える建物を指差して訊ねた。右側には先程火花達が通ってきた町並みが、左側には緑深い山々が見える。
その木々の中にぽつんと、瓦屋根の立派な建物があるのが見えた。この碓氷屋の外観と似ているが、碓氷屋よりは小さく見える。
「碓氷屋の別館だった建物です。もっとこの町が栄えていたころは、あちらも客室として営業していたんですが。最近は恥ずかしながら少し客足が遠のきまして」
「今は使ってないの?」
「ええ」
そんな女将の澱みのない回答を聞いても、凪は納得していないらしく、首をひねった。
「おかしいなあ」
「なにがでございましょう」
「さっきあの建物で人影をみたよ。僕、目はいいんだ」
一瞬、場に静寂が落ちた。
凪はじっと、試すような視線を女将に真っ直ぐ向ける。
女将の表情は変わらないまま、どこか緊張感が満ちた空気を払うように、少々場にはそぐわぬ明るい声で彼女は返答した。
「客室としては使われておりませんが、倉庫として使っておりますので。うちの人間が出入りしたのでしょう」
「なるほどね」
ようやく納得したように、凪は首を一つ大仰に縦に振る。
しかしすぐに意地の悪い笑みを深めて、女将の表情をじっと見つめた。
「社でこの二人を襲ってた奴等に見えたけどなあ。そんな乱暴者を碓氷屋さんが雇う訳もないしね、きっと僕の見間違いだね」
嫌味ったらしい言い回しで凪は言う。女将の反応を探ろうとする、凪の魂胆が見え隠れしている。火花と玲は、静かにその様子を見守った。
「嫌ですわ、見間違いですよ凪さん」
「そうだろうね」
女将は口に手を当てて、気分を害した様子もなく一笑に付した。そんな女将の様子を見て、凪もそれ以上は言及することもなく引く。
静かな攻防が終わったことを察して、玲と火花が会話もなく茶と茶菓子を愉しんでいると、女将は一礼して、室内から出て行った。
彼女の足音が聞こえなくなったのを確認してから、玲が訊ねる。
「あのゴロツキと、この旅籠が関わっているんですか」
「十中八九ね。さて、夜になったら動くよ」
凪は再び窓辺から河越の景色を見降ろしながら、自信に満ちた声でそう言い切った。
「で」
凪は、突然くるりと玲と火花に向き直り、二人を交互に見る。そしてにやり、と冷やかしの混じった笑いを浮かべ、楽しそうに言った。
「君達、そういう仲だったの?」
「「え」」
二人の声が、見事に揃う。
「簪贈ってたじゃない」
火花の黒髪に挿さる、蛍の簪を指差しながら凪は言った。……見られていたのか。なんて目ざとい、と火花は鬱陶しく思う。
「違います」
玲が無表情に否定する。
それでも、凪は笑顔を崩さない。
「簪を女の子に贈る意味、知らないわけじゃないよねえ?」
「……。」
玲は何も答えない。
しかし、火花は玲の目線が、部屋の隅へ移動したのをしっかり見た。彼の拳が、僅かながら握られたことも。
……知らないわけでは、なさそうだ。
「(まあでも、今思い出した、ってところだな。この反応は)」
凪も玲の反応に気がついているのか、さらに笑みを深めた。玩具を見つけたとばかりに、意地の悪い声音で続ける。
「まさか、それ、ただの贈り物で済ますつもり?」
「……それ以外に何かありますか」
不機嫌そうな玲の声が面白かったらしい。
「あっははははは!」
凪は手を叩いて笑う。そんな凪を、玲と火花は呆れと冷たさを孕んだ視線で見据えていた。
「君達、別の部屋じゃなくて一緒の部屋にした方が良い? ごめんごめん、気がつかなくて」
「いい加減にしてください」
人をからかうのが趣味なのも大概にしてほしい。火花が思わず口を挟むが、凪の耳には届いていないようだった。
横に座る、玲の横顔をチラリと見る。
玲の視線も、火花に向けられていた。
視線が絡むと、一瞬の間を置いて、二人は同時に瞳を逸らした。
殆ど沈んだ夕陽が、二人の横顔を橙に照らす。
凪の笑い声だけが、和室に響き渡っていた。
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