4・震動と信頼
煤けた石炭の匂いが鼻をつく昼下がり、火花は紅霞駅から汽車に乗り込んだ。
カタン、コトンと車輪がレールを刻むたび、低い響きが車内に渡る。白いブラウスに漆黒の袴を纏い、クロシェ帽を目深に被った火花は、列車内を闊歩した。
時折駅舎の影が、薄曇りのガラスにひとつまたひとつと流れていく。
昼なのに列車内は薄暗く、旅人たちの笑い声も抑えめだ。
ショートブーツを鳴らしながら歩いていると、火花は見知った顔を見つけ、立ち止まる。
『相方』に見当がついていたわけではない。
けれど、不思議と驚きはなく、一つ息を吸い込んで、深緑の布張り座席に腰を下ろした。
火花の正面から、静かに本を閉じる音がした。
――顔を上げたその先で、薄手のハーフコート姿の玲が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
先に口を開いたのは、火花の方だった。
「あんたが、私を誘ったの」
「……そうだ」
火花は自身の黒い袴をぎゅっと握る。澱みない、強い紫が待ち構えている。
湧き起こった疑念を、火花は直接玲にぶつけた。
「どうして?」
「……要らなかったか?」
「答えになってない」
「お前には必要だと思ったから」
玲は無表情のまま、変わらない。
冷たい紫の瞳の奥に、確かな熱を感じた火花は、目線を落とす。喉の奥がひどく乾いていたが、ゆっくりと、大切に、言葉を紡いだ。
「ありがとう」
静かに告げた。玲は、何も答えない。
窓際に吊されたランプがゆらりと揺れ、木製の座席の面に影を落とす。その影を、玲はただ眺めていた。
しばらく沈黙が続いて、それを破ったのは、今度は玲だった。
「身体はなんともないのか」
「なんともない。……むしろ」
火花は両手を開き、じっとその掌を見つめた。
感じる。魔力が、指先にまで行き渡り、身体の中を豊かに巡っていること。
その感覚がとても心地良く、魔力がかつてないほど、身体に馴染んでいること。
火花はクロシェ帽を、ゆっくりと脱いだ。
目の前の玲を、じっと見つめる。
「ね、紅いでしょう」
自嘲の籠った笑みを浮かべる。
あれだけ玲に対して、魔力には頼らないと宣言していたのに。魔術など使わなくても、殿下だけでなく、この手に届く範囲の物は守り切れると信じていた。
結果、このザマだ。
親友を失い、漆黒の瞳も失った。
この男はどう思うのだろう。
憐れむのか、愚かしいと思うのか。
火花は妙に、玲の胸中が気になった。
同時に知るのが、怖くもあった。
「紅いな」
玲は変わらぬ表情でそう言った。
火花が畏れていた感情は、その表情からは読み取れない。
「強い色だ」
小さく呟いた玲のその一言が、火花には聞こえてしまった。
心臓が震えた。
汽車の揺れと調和して、火花を大きく揺らす。
身体がじんわりと温かくなる感覚が、心地よい。
けれど同時に、この紫の瞳に射抜かれ続けるのが、ひどくむず痒く感じた。
「デッキへいく」
「おい」
火花は素早く立ち上がり、クロシェ帽を再び被った。
燕脂色の帯へ刀を差し、止める玲の視線から逃れるように、そそくさと歩き出す。
火花がデッキへの戸を開けると、日差しが眩しく出迎えた。走る車輪の音が、ひときわ大きく聞こえてくる。
そこには誰もいなかった。
煤混じりの風が強く吹き荒れ、火花の髪を乱していく。
列車は田園地帯を走っているようで、見渡す限り豊かな水田が広がっていた。
後を追ってくる、玲の革靴の音がすぐに聞こえた。
火花は紫の瞳と、再び相対する決意をし、熱された欄干に肘をつく。振り返ると、やはり玲の姿がある。
彼は眩しそうに、少し顔を歪めていた。
そのままじっと、目線を合わせる。
二人の間に、しばらく会話は無かった。
「(こいつ、追いかけてきたくせに、何を黙っているんだ……?)」
火花は玲に微かな苛立ちを覚える。それをきっかけに、いつもの調子が戻った気がした。
この男には、苛立ちと、奥底に僅かな安心感を抱いているのがちょうど良い。
「あんたの目的は何?」
「……。」
「答えて。この秘密主義者」
「お前には」
「関係ないって? 私はもうあんたに全てを明かしてる。あんたも少しは教えてよ」
強めの口調で告げる。
それでも、玲は何も言わない。
僅かに表情を曇らせていたから、きっと話すかどうか迷っているのだろう。
暫く火花は待ってみたが、玲が口を開くことはなかった。
微かな落胆が、胸にぽとりと落ちる。
「分かった、もう無理に聞かない」
分かっている。付き合いは決して長くない。交わした会話も多くない。
それでも、数度、本気で刀を交えた。
そして彼は、決して安全ではない旅路へ誘ってくれた。
それはきっと、自分に対する多少の情と、信頼があったからだと、そう思ったのは、自惚れだったのだろうか。
「待て」
再び玲の元から逃げようとする火花の腕を、玲は掴んだ。
その時、ひときわ強い風が吹く。
「あ」
突風に、火花のクロシェ帽が巻き上げられていく。
火花は咄嗟に手を伸ばしたが、玲に掴まれた腕は動かず、指先は空を掻くばかりだった。
同時に、長い黒髪を結んでいた髪紐もひゅるりと逃げていく。
舞い上がった黒い紐は、夏の陽光にきらりと揺れて、遥か彼方の青空へ吸い込まれていった。
火花の束ねていた黒髪が顔に纏わりつく。
視界すら遮られて、火花は思わず顔を歪めた。
「すまない」
静かな謝罪が、玲の口をついて出る。
火花は思わず玲を睨むが、彼に悪気がないことは分かっている。
嘆息し、暴れる髪を粗雑に押さえつけた。
「いい。適当に結んでいた私が悪い。……でも、邪魔だな」
ふう、と火花は息を吐く。
火花はもともと長い髪を鬱陶しく思っていた。しかし、仮にも四華族の令嬢である。
出席しなければいけない舞踏会や社交の場で、短髪では目立ってしまう。
ならばいっそ、と束ねられる長さに伸ばしているのだ。
玲は暴れる髪に苦心する火花を見据え、そして、唐突に告げた。
「俺は、皇太子殿下の命で動いている」
火花は玲の言葉を受けて、思考を巡らせる。
皇太子と懇意にしているということだろうか。
「つまり、あの凪とかいう男と同じってこと?」
「……。」
また黙る。どうやら凪とは、全く同じ目的で動いているわけではないらしいと火花は察して、再び質問しようと口を開いてから、やめた。
玲はどうやら、言葉を選んでいる。
今必要なことは、きっと、彼の目的を探ることじゃない。
「あんたに、背中を預けていいってことね?」
「ああ」
今度は短く、はっきりと肯定する玲に、火花は笑った。
「それだけ聞ければ、今は充分」
話せないこと、話したくないことが、この男にはたくさんある。
この無表情で無口で言葉足らずで不器用な男が、少しでも、寄り添おうとした。
その事実に、火花は満足しようとした。
「あんたのことは気に入らないけど、腕は信用してるから」
「俺もだ」
その返答も、心底気に入らない。
気に入らないから、火花は笑った。




