3・記憶と誘い
「傷心のところ悪いねえ」
雨音だけが響く静かな室内に、妙に楽しげな声が響いた。
火花は驚き、入り口に目線を動かしてはじめて、部屋の中に自分以外の侵入者がいることに気がついたのだった。
「誰?」
見知らぬ来訪者に、火花は瞬時に腰の刀へ手をかける。
いくら本調子ではないとはいえ、他人の侵入にここまで気が付かなかったことを火花は恥じた。
侵入者は、派手な金色の帯を身につけた、色素の薄い髪の男だった。何より特徴的なのは、澄んだ青い瞳。明らかに常人ではない男の出現に、火花は身を固くする。
「わーお。ピンピンしてるじゃないか。君、ほんとに意識不明だったの?」
男はわざとらしく驚いたように言ったあと、近くの柱に背を預け、煙管を咥えた。
一つ吸って、紫煙を燻らせたあと、火花をじっと観察するように見据える。
「僕の名前は凪。はじめまして、黒宮火花」
どうやら自分のことを認識しているらしい、と火花は警戒心から、刀を持つ手に力を込めた。尾けられていたのか、待ち構えていたのか。いずれにせよ、相当の手練れであることは明らかだった。
「何の用?」
「ああ、安心して?君の敵じゃないから。むしろ味方さ。今は、だけど」
人を食ったような言い方に、火花は苛立つ。
凪は刀を今にも抜きそうな火花から視線を外す。畳に散らばる本と、火花が目にしていた拓海の帳面を見て、嘲笑に似た笑いを浮かべた。
「期待しない方がいいんじゃない?散々調べまわったそうだけど、手がかりは見つからなかったらしいから」
火花は何も返さない。
この凪という男は、どうやら人を苛立たせる言い方をするのが趣味らしい。
味方だと言うが、到底信用できるものではない。苛立ちと警戒心を滲ませたまま、凪を睨んだ。
火花の視線を受け止めて、凪が面白そうに笑う。
下駄を鳴らして、凪が火花へ近付く。土足のまま、散らばる拓海の本を踏みつけつつ、火花の目の前に立った。
そしてじっくりと、彼女の瞳を覗き込む。
ははっ、と凪が笑う。
「まーっかだ」
火花は不快を顔に映し出し、二歩後ろに下がる。
不愉快だ、すぐにこの男の視界から消えてしまいたい。けれど、それをさせない不思議な力を凪に感じた火花は、再度凪を睨みつけながら言った。
「で、何の用なの」
火花は今一度問いかける。無駄話は嫌いだ。
「せっかちだね」
凪は煙管を咥えながら、今度はつまらなさそうに言葉を紡いだ。
「本題だ。僕は皇太子の命でね、これから田舎の温泉街にかわいそうに、調査に行かされるんだけど」
湖のように深く、底知れぬ恐ろしさを秘めた青い瞳が、火花を射抜いた。
「その河越って所に、藍川の秘密の倉庫があるんだってさ。今回の件、もし奴らの仕業なんだとしたら、何か手掛かりが見つかるかもね。もちろん保証はしないけど。……君、一緒にいかない?」
火花は息を呑んだ。
藍川。反皇族派筆頭の、四華族のうちの一つ。
そこの長男が、火花が学院で柿汁まみれにし、殴りつけてやった藍川維月である。
彼の母が取り仕切る藍川は、当然皇族派である黒宮とは、昔から犬猿の仲だった。
凪も、兄も言っていた。
雅臣の暗殺未遂事件の手掛かりは未だ見つかっていない。
この荒れた室内。藍川による証拠隠滅が行われた後だとしたら。
確証は、全くない。
けれど、奴等の懐には何かあるかもしれない。
この怪しい男からの勧誘という事実を除けば、悪くない話だと思えた。
「人手が足りなくてね。僕一人で動いてもいいんだけどさあ。一人で動くの、飽きちゃったんだよね」
凪はわざとらしく、悲しむように言う。
思考を巡らせている火花を横目に見て、楽しんでいるようでもあった。
彼の吐いた言葉が、本気なのか冗談なのか、火花にはよく分からない。訝しんでいる火花の表情を気にも止めず、凪は言葉を吐き続けた。
「僕、雑魚は嫌いなんだ。危なくなっても助ける気はないから、死んでも恨まず成仏してね……だけど」
そこまで言って、凪は再び、火花との距離を詰めた。
凪の下駄が再び拓海の本を踏みつけたことに、火花は強烈な怒りを覚える。
「君のその紅い瞳は、とっても面白そうだなあ」
「……その足、今すぐどけて」
刹那、火花は抜刀し、凪に打ち込んだ。
凪はひらりとかわして火花から距離をとり、また煙管に口をつける。
全く意に介していない彼の様子に、火花は唇を噛んだ。
「教えてあげてもいいよ、魔術の使い方。僕が飽きるまではね」
火花の紅と、凪の青が交わる。
火花は気圧されてしまった自分に気が付く。
彼の瞳の青に、全てを飲み込みそうな威圧感を感じていた。
「明後日、紅霞駅から汽車に乗れ。君の相方がそこで待ってる」
「相方?」
「君を推薦してくれたのさ。後でわかるよ。僕は先に行ってるから、二人で、仲良く来るといい」
凪は最後まで、火花の返事を求めなかった。
必ず誘いに乗ってくると確信しているようだった。
ひらり、と凪が手を振る。火花が言葉を口にするより早く、彼は姿を消していた。
音もなく、凪が小雨の降る街へ消えてはじめて、火花は気づいた。
おかしい。
彼は傘などさしていなかった。
それなのに、髪も、服も、下駄も、まるで濡れていなかったのだ。
ぞくり、と得体の知れないものに触れた冷たい感覚が、背中に走る。
あの人は、とても強い。
きっと、自分よりずっと。
火花は刀を持つ手に力を込めて、床に散らばる書籍を見つめる。
散乱したその中から、汚れてしまった一冊を手に取った。
凪によって踏みつけられたのは、拓海の日記だったらしい。皺のついたそれを軽く伸ばして整えていると、中身が見えた。
何でもない、日常が綴られている。
その中にはたくさん、火花や雅臣が登場した。
火花の目頭が熱くなる。もうこの穏やかな日々が訪れることはない。
ふと、三人で過ごした思い出を追想した。
「大切なものの隠し場所ですか?」
唐突に雅臣がそう言い出したのは、木枯らしが吹き荒れた冬の頃だっただろうか。
暖を取ろうと、帝都のカフェで、珈琲やミルクセーキを楽しんだ。
三人で顔を付き合わせながら、談笑した記憶が蘇る。
「私は箪笥の中とか? あ、殿下、勝手に探ったら怒りますからね」
「誰が探るか。別に知りたくない」
「殿下はどこに?」
「俺か? 俺は……」
「知ってますよ。写真立ての……」
「は? お前、何で知って……!」
「あっはははは! で、拓海は?」
「おいハナお前、まだ話は終わってないぞ、なぜ知ってる!?」
「うーん、あはは……僕は」
困惑した表情の拓海は、頬を掻きながら言った。
「畳の、裏かな」
拓海は、そう、言っていた。
火花はハッとして、足元を見る。畳が敷いてある。
じっとよく観察すると、角の一枚だけ、周囲の隙間が大きい気がした。
火花はその一枚を、丁寧に持ち上げる。
案外簡単に持ち上がった畳の下を覗くと、床下に、光るものが見えた。
コルクの蓋がついた、ガラス瓶がぽつりと一つある。
火花はそれを、ゆっくりと持ち上げた。カランカランと、涼やかな音がする。
ガラス瓶は小ぶりの、片手に収まるほどの大きさだった。
中に、やや濁った白色の丸い石が、数粒しまわれていた。キャンディのようなそれに、火花は目を奪われる。
これは、なんだろう。
コルクの蓋を取り、瓶の中の石を触ってみて、火花は驚いた。
微かな魔力。種類がわからない程の、ほんの少し。しかし確実に、魔力が含まれている。
火花はガラス瓶を丁寧にハンカチで包み、ポケットへ入れた。
この石の正体は分からない。けれど、わざわざ床下に隠すほど、拓海が大切にしていたことは事実。
拓海の死を、自分が受け入れられているとは到底思えない。罪悪感と、喪失感と、無力感で身体が酷く重い。けれど、拓海が何を思って、何の為に死んでいったのか、それを知ることが、せめてもの弔いになることだけははっきりしている。
火花は目尻に残る雫を拭った。重い身体が、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
いつの間にか雨は止んでいたようで、雨音が聞こえなくなっている。
火花は明後日、紅霞駅に向かうことを決意した。




