2・兄と妹
火花は暗闇の中、気がついた。
目の前に光があるような気がした。
音の無い空間で、その鈍い白だけを火花は感じる。
光の方へ、意識を伸ばす。
不思議なことに、微かに声が聞こえた気がした。
火花の名前を呼ぶ、悲しそうな声。
声は大きくなり、やがて、光も強くなる。
火花の両の瞼が開く。
見慣れた自室の天井だ、とすぐに認識できた。
「火花!」
声は、聞き慣れた兄のものだった。
安堵と喜びを内包した声音。厳格ながらいつも優しい兄のその声に、安心感を覚えた。
「あぁ、よかった」
まる二日眠っていたんだ、と兄は付け足して、慈愛に満ちた笑顔を向けた。黒宮家の自室のベッドに横になっている火花は、自分が兄によって手厚く看護されていたらしいことに気がついた。
直ぐ隣には水を張った木桶があり、自分の額の上には濡れた布巾が置かれている。
身体をゆっくりと起こして周囲を見回すと、自室の障子窓が小さく開いていて、風が優しく流れ込んでいた。正確な時刻は分からないが、外は明るく、小鳥の囀りも聞こえるのできっと昼なのだろう。
その穏やかな音を耳にして、ようやく頭の中の視界が晴れたように、思考が明瞭になる。
途端に焦燥に駆られた火花は、心拍数を上げていく自分の胸の中心を掴みながら、兄へ問いを投げかけていた。
「殿下は!?」
「安心しろ、雅臣殿下は無事だ」
兄の力強い言葉に胸を撫で下ろして、その刹那の後、薄暗い不安が火花を襲った。
「拓海は?」
その声は、震えていたかもしれない。
炎の中で哀しく謝罪の言葉を口にする彼の姿が、鮮明に思い出される。
悪夢であってほしいという願望が、胸の底にほんのひと欠片だけ残っていた。
「拓海は、死んだ」
ひとつ息を短く吐いた後、静かに兄が言う。
誤魔化そうとしない兄の重い重い言葉が、火花の心を鋭く貫いていった。
絶望に、火花は昏く視線を落とした。
「私が」
やっと絞り出すように発した声は、後悔を煮詰めたような感情を纏っていた。
火花は両の拳を握りしめて、俯きながら呟く。
「私が、殺したのですね」
「違う。拓海は自刃したんだ」
火花は首を振る。
そんな火花に、兄はかける言葉を失ったようだった。
長い沈黙が場に落ちて、火花は再び顔を上げる。神妙な顔つきの兄を真っ直ぐ見ながら、火花は口を開いた。
「おかしいです。拓海が殿下を攻撃するなんて、絶対におかしい」
自身の夜着を強く握りしめながら、火花はまだ鈍い頭で、考えを巡らせた。
拓海が雅臣に不満を持っていそうな様子は、一切無かった。確かに、最近の拓海は様子がおかしかった。けれど、その正体が雅臣への殺意だとはどうしても、思えない。
拓海は弟のために、あれだけ頑張ってきた。
医学院への進学も決まって、順風満帆だった。
それに、本当に雅臣を殺そうとするなら、もっと人目のつかない場所で事に及べばいい。
慣れていない刀など使わなくても、拓海を信頼しきっている雅臣に毒を盛るとか、もっと簡単な方法は幾らでもあったはずだ。
わざわざあんなに人のいる場所で、火花のいる場所で、実行する道理がない。
拓海の行動に説明がつかない。胸に広がった疑問が、火花は気持ちが悪くて仕方なかった。
「殿下に会いにいきます。すぐに」
「待て」
歯切れ悪く兄が言い淀む。そんな兄に強い視線を向け、無言を貫く事で火花は続きを促した。
「殿下には会えない」
「どういうことですか?」
語気を強くして、火花が問う。
「殿下は無事だ、傷ひとつない。だが、表向きには重傷ということにして、この事件の裏を探ることになった。その方が、殿下自身の身を守りやすいということもあってな」
よく分からないという表情の火花に、どこから取り出したのか、兄は簡素な紙で出来た小さな手紙を差し出した。
「殿下から手紙を預かってる」
兄の言葉を聞いてすぐに、火花は奪い取るようにその手紙を手にした。
すぐに開封した手紙には、見慣れた文字が荒々しく躍っていた。雅臣が急いで書いたのだろう。
『すぐに目を覚ますと信じている。
拓海を操って俺を狙った黒幕はまだ分かっていないが、おそらく反皇族派の連中だろう。しばらく帝都を離れ、ヤツらの内情を探ってくる。お前も連れて行きたいが、体調の回復を優先しろ。』
短い手紙を直ぐに読み終えた火花は、丁寧に手紙を折りたたむ。主人も、拓海の背後に黒幕がいることを確信しているようだ。
雅臣は、紅の魔力を暴走させた火花を見て、どう思ったのだろう。
手紙では一切触れられていない事が、とても怖い。
怒り、失望、侮蔑、嫌悪…そのどれを抱かれていても、仕方ない。
「この件を知っているのは、皇太子殿下と我々だけだ。くれぐれも内密にな」
兄が静かに言う。返事をしない火花を見て、兄はその大きく無骨な手で、彼女の頭を優しく撫でた。
「今日は休め。外出は禁止だ。いいな。まだ手掛かりは何も見つかっていないから、俺もまた今から出てくる」
兄は側に置いていた、自身の刀を手に取った。忙しそうだ。
そんな中でも看病してくれていた兄の優しさに、心が少し、じんわりと温かくなるのを感じた。
「火花、言っておくが」
優しく力強い声。火花は兄の漆黒の瞳を見つめる。
とても黒い。黒宮に相応しい、何者にも染まらない強い色だ。
「お前は正しいことをした。黒宮として立派に殿下を守ったんだ」
「兄上、私」
「瞳のことは知っている。いいか」
兄の言葉は澱みなかった。
漆黒の瞳が、しっかりとまっすぐ、火花の瞳を貫いた。
「お前は誰がなんと言おうが、黒宮家の長女だ。今回も役目を果たした。それだけのことだ」
それを言い終わると、また火花の頭を一つ撫でてから、兄は部屋を後にした。
兄が去った後の部屋は、とても静かだった。
しばらくして火花が目覚めたことに気がついた侍女たちが、慌ただしく廊下を行き来する音が聞こえてくる。喧騒を聞きながら、火花は側の机に置いてあった、手鏡を手に取った。
おそるおそる、覗き込む。
「あかい……」
呟く。
火花の瞳は、兄とは違い、紅かった。
身体の中で、紅の魔力が、以前にも増して満ち満ちている。
感じる。もう、この紅を隠す術はない。
夜になると、生ぬるい温度の雨がしとしと降り始める。
少しだけ空いた障子窓から、湿度の高い風が流れ込んだ。
火花は自室のベッドで、ぼんやりと横たわっていた。
二日間眠っていたせいだろう、もうすぐ深夜になるというのに眠気は訪れない。
眠らなければと思うほど、脳裏に拓海の姿がちらついて、胸が焼き切れそうなほど痛む。
雅臣は今どこにいるのだろうか、怪我はないと兄は言っていたが本当だろうか。
不安が次々に浮かんでは増え、頭が一杯になったところで、火花はもう身体をじっとさせていることができなかった。
起き上がって箪笥の中をのぞけば、卒業して着なくなった黒い制服が見つかった。慣れた手つきで手早く身につけ、部屋を出る。
夜の帝都は人通りは少ないが、ガス灯の光は絶えないため暗くはない。
しかしそれも、黒宮の屋敷のあるいわゆる一等地ならばの話だ。
拓海の家の地区が近づくにつれ、ガス灯は姿を消し、どんどんと淋しく、暗くなっていく。
拓海の家を何度か訪れたことがあったから、火花は迷うことなく向かうことができた。帝都の東、比較的貧しい庶民が暮らす、長屋が密集した地区。
雅臣と火花のよしみで、もう少し治安の良い地域に、なんなら黒宮の屋敷の一画に住んではどうかと打診したことがあった。
それを拓海はありがたいと謝意を述べつつも、頑なに固辞した。
単に雅臣や火花に面倒をかけるのを嫌がっただけだったのか、今やもう知る術もない。
拓海の家は、昔と変わらずひっそりとあった。
小雨と言えど雨の中を走ってきたせいか、制服は水を含んで少し重たくなっていたし、髪からは水滴がしたたっていたが、火花は意に介さなかった。
建て付けの悪い長屋の扉を開けると、荒れた様子の小さな室内が目に入る。
兄達が調査の為に室内のものをひっくり返したのか、それとも拓海の死に関わる良からぬ輩が荒らしたのか、理由は定かではない。
静かな家に足を踏み入れると、荒れてはいても、そこからは確かに拓海とその弟の生活を感じた。
部屋の中央に置かれた小さなちゃぶ台の上には、コップが二つ置かれたまま。
布団は二つ、綺麗に畳まれていた。
部屋の隅には、天井までの高さの本棚が設置されている。勉強家の拓海らしく、上から下までぎっしりと医学書などの書物が詰まっていた。
しかし何冊かは抜き出されて、そのまま床にまばらに散らばっている。学院で拓海が使用していた教科書や帳面だということはすぐに分かって、火花は床に落ちていた一冊を手に取った。
中を開くと、どうやら医学書の内容をまとめたもののようで、拓海の繊細な文字でびっしりだった。
彼の几帳面な性格を表した、細やかで真っ直ぐな文字が沢山書き込まれている。医学の知識のまるでない火花に内容はさっぱりであったが、高度な知識であろうことは理解できた。
もうこの世には存在しない、拓海を感じる。
「ごめんなさい」
火花は拓海が書いた文字に向かって呟いた。
紙に水滴が染み込み、文字が少し滲む。
「ごめんね」
雨音に、火花の力ない謝罪は溶けていった。
お読みいただきありがとうございました。
私もお兄ちゃんが欲しかった。




