眠らない標本室
働いている博物館の様子がどうもおかしい。夜間警備の仕事に就いて、3日目の巡回中、標本室から妙な囁き声が聞こえてきた。
もしかしたら、人がいるのかもしれない。
怖くなった俺は、すぐにそのことを上に伝えた。
調べた結果、特に何もなかったそうだ。
夢でも見たんじゃないか?
そう言われてしまった。
確かに夢だったかもしれない。そう思って、次の日出勤したら、また聞こえてくるのだ。
標本室のドアに耳を傾ける。
小さな囁き合いが聞こえた。
いかにも巡回中です、みたいな顔をして、俺は中に入った。
正体が分からないのが、1番怖かったから。
俺が中に入ると、囁きは一旦止まったが、すぐに再開した。なにやら、クスクスと笑う声までする。
努めて冷静に、標本室を見渡した。標本とだけあって、そこには多種多様な物が置かれていた。鉱物、剥製、蝶のピン留め、1番目を引いたのは、ルビーの原石だった。
そのとき、声がはっきり聞こえた。
「警備員さんどうしたのかしら?」
必死に振り向いたり、辺りを見渡したりするのを我慢して、俺はあえて、そのルビーの原石に見惚れているフリをした。
周囲から囁くように声が聞こえる。
「ルビーの原石に見惚れているんだね」
「素敵だもの、仕方ないことよ」
「今日はお客さんも少なかったし、なんだかちょっと嬉しいな」
「ルビーの原石だけじゃなくて私たちのことも見て欲しいね。だって綺麗なんだもの」
あたかも聞こえない素ぶりでその言葉に応えるかのように、俺はじっくり標本を観察した。
標本たちはどれも嬉しそうにして、囁きながら、楽しそうにしていた。
標本室を出ると、薄っすら囁き声がまだ聞こえていた。俺は夢でも見ていたかのように狼狽えながら、仕事の巡回を続けた。
それから、ひっそりと俺は標本たちの話を聞く日々を送った。
中には、愚痴のようなもの言う標本、まったく意味の分からない、でたらめな歌を歌う標本もいた。
次第に俺は、この声たちを聞くのが楽しみになっていた。
ある日、なぜか声が聞こえない日があった。
何故か胸に不安が走る。
なるべく標本室には入らないようにしていたが、耐えきれず中に入ってしまった。
標本たちはシンと静まりかえって、何も話さない。
いつものように、観察しているフリをしていると、ルビーの原石が嘆くように声を上げた。
「私たち、いつまでこのままなのかしら」
標本たちはそれを皮切りに、自分たちの境遇を嘆いた。別に今のままでも充分幸せだけど、ほんの少し、外の様子が知りたい。いつも同じ風景では、退屈で心が折れてしまいそうだ。
その日を境に、俺は自然な形で、今日は暑かったな、骨の展示がすごい、などの言葉を一言呟くようにした。それで彼らの嘆きが薄まるかは分からないが、所詮ただの自己満だ。でも、そうであって欲しいと願った。
今日も博物館の標本たちは囁きあっている。
眠らない標本室。
標本たちは、夜ごとに語らい、笑い、時に泣いていた。
こちらが聞いているとも知らずに。でもそれでいい。聞いているのがばれて、彼らの言葉が聞こえなくなる方が余程辛い。
世間は世知辛いが、博物館のこの時間だけは、なんだかそれを忘れさせてくれるようだった。
今日も、標本たちの囁きを聞きながら、博物館を見回る。
いずれ来る、契約終了のそのときまで。それが過ぎても、昼間、会いに行こう。あの愛おしい標本たちを、例え誰も喋らなくても。