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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼だけが結婚に熱心だった

作者: 猫子猫

 半月後の結婚式で袖を通すことになる、繊細な刺繍が施された花嫁衣裳を見つめ、ティナはひっそりとため息をついた。その眼差しは憂鬱さが混じっていたが、衣装を仕立てた針子の女性は気づかない。式を目前にして、衣装に不備がないのかを確かめるのに余念がなかったからだ。


 最後の試着を終えて、ティナが帰り支度を整えると、女性は笑顔で祝福した。


「準備は完璧だわ。全て順調だし、良かったわね。こんなご時世だけど、これからの人生薔薇色じゃない」


 ティナの暮らす地は、頻繁に支配者が変わった。


 近隣一帯を治めていた国が隣国ルーフスに滅ぼされてからというもの、各国が土地を奪い合い、国境線が四六時中変わっていたからだ。戦が絶えず頻発し、不安定な世情ということもあって、結婚は家同士の繋がりが重視された。


 特にティナは村長の一人娘であることもあって、父親が勿体ぶって中々相手を決めなかったものだから、彼女はもう二十歳を超えていた。


 嫁き遅れの娘と密かに陰口を叩かれていた事もあって、今回の結婚が全て順調に運んでいる事は、ティナの家族や親類はもちろんの事、親しい人々は誰もが喜んでいる。


 だが。

「⋯⋯そうかしら⋯⋯――」


 ティナは、曖昧(あいまい)に笑って返した。


 婚約者は、元は流浪の末に村にたどり着いた旅人だった。戦火で故郷を焼かれ、天涯孤独の身となったという。このご時世では、珍しくない。


 半年前に彼は身一つでやって来たが、村の男達と比べ物にならないほどの美貌の主だった。長身痩躯であるが、痩せ過ぎという訳でもなく、薄い平服の上からでも鍛え抜かれた体がよく分かるほどだ。


 それでいて、まるで貴族のように所作が洗練されていた。物言いは堂々としたものだが、老若男女問わず誰に対しても分け隔てなく優しかった。


 父親の村長はすっかり彼を気に入って、屋敷に留め置いて歓待した。


 彼がティナを見初めたのは、その頃である。熱心に口説かれたティナは、いつも返す言葉に困った。なにしろ婚前に悪い虫がついては困るからと、ことごとく若い男から遠ざけられて育ったからだ。


 ただ、彼の思慕に気づいたティナの両親は彼に縁談をもちかけた。彼は二つ返事で了承し、ティナもまた両親の命に従った。 


 普通ならば彼の方が玉の輿に乗ったと思われるものだが、今のところ逆である。


 婚約が公表されてもなお、あまりの美貌に彼への他の女達からの誘惑は多かったのだが、彼の中心はいつでもティナだった。戦に駆り出されて男が少ない村では貴重な労働力となったが、彼はよく働き、『村長の娘』の婚約者という立場が霞む程だ。


 そして、ティナは顔だちは整っている方だが、飛びぬけて美人という訳ではない。二重瞼に黒の瞳だったが、それだってこの国の人間にはありふれたものだ。


 長い黒髪は艶やかで褒められる事も多いが、その程度である。彼が『ティナが世界中で一番可愛い』と日々連呼してくるが、気恥ずかしくてたまらない。必死で頼みこんで人前では止めてもらったが、家では一日一回は必ず聞く。


 なんなら、朝一番に目が覚めた瞬間に彼は言う。

 涎を垂らして寝ていた人間に蕩けるような極上の笑顔を浮かべながら囁くなんて、正気の沙汰ではない。


 本来は余所者を警戒するというのに、完璧な好青年はあっという間に馴染んで、今や村の中心人物である。


 誰もがティナとの婚約を祝ってくれたし、両親など婚前だというのに一緒に住めと言って、早々に実家を追い出してくれた。なんなら子を先に孕んでも良いとまで言ってくる。


 そんな後押しもあって、村に一軒家を借りて二人で住んでもう一か月ほど経つ。結婚式まであと半月に迫っていたが、既におしどり夫婦のように見られていた。

 ただ、薔薇色の人生が待っていると言われると、ティナは何故か釈然としない。


「――――確かに幸せだと思うのだけれど。⋯⋯彼になんの不満もないけど⋯⋯なんだか、ちっとも気持ちが落ち着かないのよ」

「それは贅沢(ぜいたく)な悩みね!」


 単に結婚という人生の一大事を前に緊張しているだけだろうと、皆は口を揃えている。いわゆるマリッジブルーというやつだ。


 ティナも初めはそう思った。


 彼は夫として申し分ない男だ。むしろ、自分などを妻にして良いのだろうかと思うほどだ。

 でも、何だか違和感を覚えるのだ。それは彼と共に過ごす時間が長くなる内により強くなっていた。


 店を後にしたティナは、村はずれの一軒家に一人帰った。その頃には夕方になっていたが、庭先にいた彼はティナの姿を見るとすぐに駆け寄って来て、いつものごとく大事な宝物を扱うように抱きしめてきた。


「お帰り。遅かったな、迎えに行こうかと思った」

「大丈夫よ。だから、あの⋯⋯そろそろ、止めてくれる?」


 彼は抱きしめるだけでは足りないと、頭の上や頬に何度も口づけている。婚約が成立してからというもの、大義名分を得たとばかりに、彼はよくティナに触れる。やめてと言っても中々聞いてくれないので、家を探す時にあえて辺鄙な場所を選んでいた。愛情表現過多な所を人目につきにくくするためである。


 ティナが身をよじったので、彼は渋々といった様子で腕をほどいた。


「式に必要な物は全部揃ったか? 欲しい物があったら言えよ。お前と結婚するまで真面目に働いて稼ぐからな」

「ええ、ありがとう」


 ティナは微笑んだが、やはりまた彼の言葉に何か引っかかりを覚えた。


 ――――あなた、結婚したら働かないつもりかしら。


 我ながら捻くれた見方とも思えたが、彼が結婚を急いでいるようにしかみえないせいか、どうも疑り深くなっている。両親や人々の懐に入り込むのが早すぎる上に、何事も上手くこなし過ぎるのだ。


 でも、小さな村の長の娘の持参金などたいしたものでは無いし、ティナは嫁き遅れ寸前の小娘である。両親は人の恨みを買うような者ではないが、さりとて人から尊敬を集める程の者でもない。いわゆる平凡だ。

 

 彼一人だけが、この結婚に熱心だった。

 ティナはその理由が分からずにいる。



 深夜になって、ティナは一人、目を覚ました。

 とはいえ、ベッドに横たわったままなのは、彼がティナを抱きしめたまま寝ているせいだ。これで抜け出そうとしようものなら、勘のいい彼はすぐに目を覚ましてしまう。


 ベッドは少しばかり手狭だ。二人用のものだが、彼が長身で体格も良いせいか、いささか物足りない。

 一緒に暮らし、夜も共にするようになって、関係は深まる一方だ。彼への違和感が増していたティナだが、自身にも異変が起こっていた。


 窓のカーテンの隙間から僅かにベッドに差し込む月明りを頼りに、ティナは手の甲を見つめた。

 そこには薄らと《竜》の紋章が現れていた。


 雄々しく翼を広げるその姿は、おそらく《飛竜》だろう。


 竜を模した紋章を抱く国は、現在二つある。水の中に生きる《水竜》と、地を駆ける《地竜》の紋だ。かつて空を飛ぶ《飛竜》の紋章を掲げる国があったが、《地竜》を抱くルーフス王国に滅ぼされている。


 以来、飛竜は亡国の証として忌避されていたが、ティナの手に刻まれているそれはどこをどう見ても、他の竜には見えない。唯一の救いは、国章とは異なるデザインであったことだが、こんなものが手に現れているとなったら大騒ぎになる。


 だから、ティナは彼にも両親にも、誰にも言えずにいる。


 ――――まただわ。困ったわね⋯⋯どうしたものかしら。

 朝目を覚ますと消えている事も多かったが、同衾している彼にはいつ見られるか分からない。いつものごとく悩んでしまったが、不意に彼がぎゅっと抱きしめてくる。


「⋯⋯ティナ⋯⋯」


 寝言だろうと声ですぐ分かったが、それでも愛おしいという思いがにじみ出るような優しい声だ。こんなにも完璧で優しい婚約者を疑い、大事な事を黙っているなんて、と罪悪感がこみあげてくる。

 やはりマリッジブルーに違いない。明日悩みを打ち明けようと、目を閉じたのだが。


「⋯⋯俺が殺してやるからな」


 衝撃のあまり、全身が凍りついた。温厚で優しい笑みを崩さなかった好青年の言葉とは到底思えないものだったが、間違いなく彼の声だ。


 一瞬呼吸を忘れ、だが短い言葉は耳にこびりついて離れず、何度も頭の中を巡り、それと共に脳裏に失われていた《記憶》が蘇ってきた。


 滅びゆく祖国。燃え盛る王都。次々に倒れていく騎士や、王宮の人々。

 なだれ込んだルーフス王国の騎士たちによって、再興の芽を摘むために王家に連なる血筋の者は徹底的に追いまくられた。


 密かに王都を脱出した者達も全員が討ち取られ、最後に残った王族は――――まだ幼かった国王の一人娘だけになった。


 ――つまり、私である。


 全てを悟ったティナは、一声、漏らした。


「⋯⋯困ったことになっているわね」


 最初に零した感想は、それである。

 動転するとか、騒ぐとか、ない。一介の村娘なら絶望して泣き叫んだかもしれないが、一国の王女として厳しく育てられた女であり、自分でも嫌になるほど冷静である。


 幸いにして今まで村娘として暮らしてきた間の知識も残っていたから、すぐに蘇った記憶と一緒に擦り合わせて、現状を理解する。


 ティナの祖国は《飛竜》を国章にするほど飛竜に縁深い国だったが、その関係はそれだけに留まらない。


 祖国には実際に空を飛ぶ《飛竜》が存在し、国軍と共に戦ってくれていた。だが、地を駆ける《地竜》を有するルーフス王国に屈し、滅びの道を歩んだ。


 ティナの祖国を滅ぼしたルーフスだが、その後領土の占領に苦心したのは、村娘であったティナの記憶からもよく知る所だ。


 主を失った《飛竜》は激怒し、ルーフス王国に一匹たりとも従属せずに飛び去ってしまったというのだ。貴重な戦力として見ていたルーフスは焦った。


 王族が生きていたら、飛竜は従うかもしれぬ。

 いや、王族がまだ生き残っているから、従わないのだ。


 意見は真っ向からぶつかり、未だに解決していない。

 ただ、飛竜を制御出来る者をルーフスは血眼になって探し、何としても手中に収めようとしていた。


 ティナは小さくため息をついた。

 将来の国主として育てられたティナは、無論、幼い頃から飛竜と触れ合って育っていた。仲の良い飛竜も沢山いた。何よりも、ティナは竜の言葉が分かるという、王家に時々現れる異才の持ち主でもあった。


 敵国ルーフス王国にしてみれば何が何でも手に入れたい相手であろうし、もしも見つかれば、生涯利用されるだろう。異能の力を持つ者を増やすべく、ルーフスが男を送り込んできて、無理やり子を産まされるかもしれない。


 役に立たないと判断されれば、今まで散々飛竜で煮え湯を飲まされてきた憎むべき国の王女であるから、抹殺したい相手だろう。


 ルーフスの民の敵意を、ティナはよく知っている。


「⋯⋯やらかしたわ」


 ティナは自身を絡めとり、何としても結婚しようとしている男を見上げ、呻いた。


「あなた⋯⋯ヴェルークじゃないの」


 かつて憎悪と激怒を秘めた瞳で、まっすぐに己を見返してきた男である。

 一刻も早く、婚約を解消しなければ、私はこの男に何をされるか分からない。

『貴方との婚約を解消するわ!』

 その一言に尽きる。即刻ヴェルークと縁を切ろうと、ティナは胸に誓った。



 だが、翌朝になって目が覚めた時には、彼は仕事に行くという旨のメモを残して出かけていってしまっていた。何度も戦に巻き込まれて家を焼かれている人々もいたので、家を建て直すのに人手がいるのだ。


 ヴェルークは無論、即戦力である。


 いくらなんでも仕事の邪魔はできないと堪えて、居間に行ってみれば、机の上にはティナのために朝食が用意されていた。品数も多く、栄養満点であるのは一目でわかる。


 ヴェルークは狩りが得意で、勘もいいのか山で食料を見つけるのも上手いので、ティナはお腹を空かせたことが無い。しかも、村人たちにもきちんと分配しているので、人々からも感謝されている。


 ――猫かぶりにも程があるわ⋯⋯。あなた、殺意しか見せなかったじゃないの。


 とても喉を通る気分ではなかったのだが、無駄にしてはいけないと思って食べ、気付いたら完食していた。その事実に気づいたのは、後片付けを終えて、一人椅子に座った時である。


「これは⋯⋯餌づけというやつじゃないかしらね。懐柔されているわ⋯⋯」


 思わず机に突っ伏して頭を抱えたが、すぐに切り替える。


 改めて室内をぐるりと見回せば、二人で暮らし始めてから生活に必要な物は買い揃えてあったが、彼の私物は殆どと言っていい程無かった。

 もともと身一つでやって来たから荷物は少なかったが、家で暮らすようになっても増やそうとする様子がない。


 物欲が無いともいえるし、いつ何があっても簡単に行方を晦ませられる上に、痕跡も殆ど残さないに違いない。


 ティナは悶々とした思いを抱えつつ一日を過ごした。そして、夕方になって、ヴェルークはいつもと何ら変わらない様子で帰って来た。


「ティナ、ただいま」


 いつもなら玄関まで出迎えるティナだったが、居間に留まり、ソファーに座ったまま彼を待った。また抱きしめられたり、キスをされたりするのを避けるためだ。

 ヴェルークは出迎えがなかったことに特に気分を害した様子もなく、にこやかに笑顔を向けてくる。その柔らかな眼差しに、ティナは目を奪われた。


 ――人違いとしか思えないわ⋯⋯。


 もう頭では状況を理解しているはずなのに、甘ったるい声で自分の名を呼びながらやって来る彼の姿を見ると、驚愕以外の何物でもない。


 絶句している間に、ヴェルークはさっさとティナの横に座って、さっそく腰を抱いてきた。そのまま頭の上にキスをしようとしてきたので、ティナは懸命に押し退けた。が、びくともしない。


「やめて」

「何故だ。一日ぶりに会えたんだぞ? 喜んで何が悪い」


 にっこりと笑う男の笑顔に、ティナは頭がくらくらしてきた。

 麗しいお顔は結構だが、かつての彼とのあまりの言動の差に眩暈(めまい)を覚える。


 ――貴方、頭でも打ったのかしら。私の記憶がまだちょっとおかしいのかしら。


 記憶にあるヴェルークは、冷然と笑っていた。獣みたいな獰猛さを秘め、迂闊に近づこうものなら喉元を食いちぎられそうな恐怖すら覚えさせる男だった。


 絶望と怒りを秘め、殺意さえも滲ませていた。

 決して、こんな小さな村で真面目にほそぼそと働いて生きていく男などではないはずだ。


 もしもこれが演技などでは無かったら、私と同じで記憶が無いとしか思えなかったが、狙いすましたように求婚してきたから、絶対に違う。


 この男の目的は、別にある。


 だが、そうと分かっていて、手をこまねいていれば事態は悪化するに違いない。

 まずやるべき事は、この男との婚約を解消する事だ。できなければ、逃げるしかない。


「あの⋯⋯聞いて欲しいことがあるのよ」

「愛の告白ならいくらでも」


 誰だ、このキザな男は。ティナは心が折れそうになったが、顔には出すまいと堪える。


「実は⋯⋯他に好きな人が」

「うん?」

「いるわけないわよ⁉」


 普通の村娘が婚約解消を申し出る理由としては妥当だと思ったが、ティナは即座に撤回せざるをえなかった。

 端正な顔に優しい笑みを浮かべながら、凄まじい殺気を感じたのだ。背後に一瞬だけ怒りの焔を見た気がする。幻影じゃない。


 そして、初めて垣間見せた獰猛な気配に、ティナは確信する。


 この男は――私が誰か分かっている。記憶がなかったのは私だけだ。


 そうなると、理由をつけて説き伏せるのは困難だ。もう逃げるしかないだろう。

 ティナはそう胸に秘め、絡みつく彼の腕を解くと立ち上がった。


「お風呂に入ってくるわ⋯⋯」


 今日一日を何とかやり過ごして、明日彼が仕事に出たら、家を出よう。次にいつゆっくりと風呂に入れるか分からないから、念入りに身体を洗おうと思ったが、ヴェルークが立ち上がって、当然のようについてきた。


「俺も行く」

「一緒に入らないわよ⁉」

「でも、俺が洗ってやらないと、すぐに髪が傷むぞ。お前は扱いが雑過ぎる」


 ティナは結婚式のために、髪を伸ばしていた。今では腰ほどまで伸びたのだが、長すぎて管理が大変だ。彼が丁寧に洗って手入れも欠かさないから、つやつやなのだ。


 今更ながらに、どれだけ彼に面倒を見られていたか理解する。ああ、自分を殴りたい。


「け、結構よ!」

「却下だ」

「何様のつもりかしら」


 きっぱりと返すと、男の目が笑った。今までのような優しいものではない。眼光は鋭く、それでいて心底この状況を楽しんでいるものだ。


 ――え。何を喜んでいるのよ。


 もっと、嫌な予感がした。色々と間違えた気もした。今日もう既に逃げておくべきだったんじゃないだろうか。


 素知らぬ振りをして扉を開けて出ていこうとすると、背後からすさまじい勢いで手が伸びてきて、扉が閉ざされた。ティナは冷や汗が止まらなくなったが、ヴェルークは後ろから耳元で冷然とした声で囁いた。


「記憶が戻ったな、お姫様?」

「ひいっ」


 ティナの顔から血の気が引き、背筋から滝のような汗が流れる。


 硬直している間に、ヴェルークは彼女の腕を掴み振り向かせると、扉に身体を押し付けた。無論顔の両脇に腕をつき、逃げ道を完全に塞いでいる。


 驚くべき手際の良さである。


「なんの事――」

「俺の伴侶になると誓った事も、当然思い出しただろうな?」


 艶然と笑う彼に、ティナは目を丸くした。そうだっただろうかと一瞬考えたが、


「いいえ、言ってない! それは絶対に言ってないわ!」

と、断言する。この男は、どさくさに紛れて何を認めさせようとしているのだ。ティナは真っすぐに彼を見返して、更に告げた。


「ただ、兵に連れてこられた貴方を見て、『私の騎士にしたい』と言っただけよね? それがどうして結婚にまでなるのよ」

「⋯⋯⋯⋯。よく解釈すれば、そうなるだろう」

「ならないわよ!」


 かつて、ティナの祖国は隣接するルーフス王国に攻め寄せられ、滅びの日を迎えた。王家に連なる者はことごとく抹殺され、唯一生き残っていたのは、まだ十八歳だったティナ一人だった。


 ティナが最後の一人になってしまったのは、子供だからでも、大事に守られていたからでもない。

 我先にと逃げてしまった王族達に見捨てられて置き去りにされ、そんな彼らを彼女からも見限ったからだ。


 王都には大勢の騎士たちがいた。民がいた。彼らを置いて逃げる事などできるわけがない。

 だから、ティナは己の非力と無力さに苛まれながらも、祖国のために戦ってくれた騎士達の徹底抗戦の象徴として、最後まで王宮に留まった。


 そして、誰もいなくなった。


 四方を敵兵に囲まれ、ティナを守る騎士はいなくなった。逃げ損ねた王女を敵将は嘲笑い、『最後に一つ望みをかなえてやろう』と告げた。


 単なる戯れだったのだろう。非力な王女をより貶めるためのものだったのだろう。ティナは決して顔に出さなかったが、人生の最期にこんな喜びを得て良いのだろうかとさえ思いながら、告げた。

 

『彼を私の騎士にしたいわ。一緒にいさせて』


 ティナは敵軍の中で、一人の虜囚(りょしゅう)を見つけていた。


 相当抵抗したらしく、全身は薄汚れて傷だらけだったし、手足は鎖で拘束されていた。よく見れば美しい顔をした身なりの良い青年だったが、その眼は極めて獰猛で、敵兵達だけでなくティナへの敵意をも滲ませていた。まるでこの世の全てを嫌悪しているような目だった。


 彼を捕らえた敵将は、その容姿端麗な姿から貴族の令息かと思い込んでティナの前に連れてきたようだったが、ティナに対しても敵意しかない鋭い眼差しを向けてきたから、到底自国の兵とは思えなかった。


 だが、ティナは彼を求めた。


 何もかも失ってしまった自分に、守られてばかりだった最期の王女にも、出来ることがあると信じたからだ。

 敵将は武器も持たない虜囚を一人解放した所で問題ないだろうと、彼を解き放った――――。


 その後の事も、ティナは今も鮮明に覚えていた。拘束が解かれた瞬間、ヴェルークが大暴れして、敵軍を恐怖のどん底に落とした事もだ。

 そして今、かつて凶悪な本性を晒した男は、眼前で虫も殺さぬ好青年の皮を被り、ティナの伴侶になろうと迫ってきている。


 そんな彼に、ティナは心の底から言いたい。


「だいたい貴方、こんな所で何をしているのよ」

「お前の伴侶になろうとしているだけだ」


 何をいまさらと言わんばかりの彼に、ティナは頭を掻きむしりたくなった。


「できるわけないわ」

「俺をお前の騎士にしただろう? その権利はあるはずだ」


 ティナはぐっと言葉に詰まる。祖国では《騎士》に対する地位は高く、特に王女の護衛を務める騎士ともなると高い功績を挙げれば、婚姻を許される事だってあった。


 それを逆手に取られたティナだが、あまりに身分が違うだろうと言いたい。


「無いわ。記憶を取り戻した以上、貴方と結婚はできない。婚約は解消よ!」


 とうとう言ってやったと思ったティナだが、ヴェルークは冷然と笑った。


「それはもう無理だな」

「どうして!」

「お前には俺しかいない」

「⋯⋯⋯⋯っ」

「それに、俺に甘やかされるのに慣れている。今更、一人で生きていけるはずがない」

「そ⋯⋯そんな事は⋯⋯っ」


 真っ赤になったティナだが、否定しきれない。今朝だって食事を完食している女である。


「それに、これだ」


 ヴェルークは少し体を離すと、すかさず逃れようとしたティナの腕を掴み、彼女の手の甲を眼前に突き出した。

 そこに刻まれていたのは、あの竜の紋章だった。

 絶句するティナに、ヴェルークは笑みを浮かべながら、手の甲の上に愛おし気に口づけた。


「これがある以上、お前がどこに行っても俺には分かる」

「貴方の仕業だったのね⋯⋯! 消して!」

「無理だ」


 平然と言い切って冷たく笑うヴェルークを、ティナは軽く睨みつけ、彼の手から腕を引き抜いた。そして、前よりも少しばかり濃くなった気がする紋様を見据えた。


 彼は不可能だと嘯いたが、今までだって時が過ぎれば薄くなって消えていたのだ。絶対に何か手段があるはずだ。一刻も早く、その手段を見つけて、彼と縁を切らなければならない。


 ヴェルークは優しい好青年などではない。


 彼の本性は、そんなものでは無い事をティナは知っていた。現にもう既に容赦のなさが、垣間見えている。

 もしも、故郷が滅んでいなかったら、全員から反対されていただろう。誰も祝福してはくれないだろう。


「お願いよ」

「諦めろ。俺の手を取ったのが、お前の運の尽きだ」


 ヴェルークは冷然と答え、態度を変える兆しがない。

 やはり、彼だけがこの結婚に熱心だった。


 懇願しても彼が翻意する様子はなく、ティナの胸に絶望が広がった。


 ――どうして、私をそんなに求めるのよ。

 たった一人生き残ってしまった王族に、一体何の価値があるというのだ。


「俺はお前の騎士だ。伴侶になる男だ――認めろ」


 ヴェルークは重ねて迫った。彼女はまだ気づいていなかったが、ティナの身体から、また竜紋が消えかかっているのを目の端で捉えていた。


 ――ちくしょう。どうして消える。


 今までひたすら優しくして甘やかしてみたのに、騙されないとばかりに薄くなる一方だ。ヴェルークは口惜しくて仕方が無かったが、うつむいたティナがぽつりと呟いた言葉が、焦る彼の心を突いた。


「嫌よ。もう誰も巻き添えにしたくないわ」


 戦に負け、祖国は滅んだ。

 王家に連なる者はその責を負い、みんな処刑された。その死は王家に産まれた者に課せられた義務だと、ティナは今でも思う。


 でも、王都が陥ちるまでに、どれだけの騎士たちが命を落としただろう。民が犠牲になっただろう。飛竜が堕ちていっただろう。地竜を有し圧倒的な力を見せたルーフス王国に、もはや降伏するのもやむを得ない状況であったにも関わらず、彼らは最後まで戦ってくれた。


 それは、私が――最後の王族が、王都にいたせいだ。


「どうして⋯⋯私だけが生きているのかしら」


 悔恨を滲ませるティナの表情は、かつてなく暗い眼をしていた。それは、かつて王宮で最後に見た彼女のものとそっくりで、ヴェルークは唇を噛み締め、己の過ちを悟る。


 二人だけで生きていく――その道は、彼女の記憶が戻ったことで閉ざされた。


 ならば、新たな道を拓くしかない。


 彼はもう既にそれを見定めてもいたし、ティナも異変に気付いた。

 外から悲鳴が聞こえてきて、ティナは息を呑み、わき目も振らずに家を飛び出した。村はずれの小高い丘の上にあった家からは、村の異変がすぐに分かった。


 もうもうと立ち込める砂埃と共に地竜の咆哮が聞こえる。悲鳴は逃げ惑っている人々の声だ。統治者を失い、田舎の村はただでさえ略奪の対象になりやすい。その上、支配権を巡って他国と地竜を有するルーフス王国軍がたびたび近隣一帯への侵略を繰り返してもいた。


 小さな集落だからか、聞こえてくる地竜の鳴き声は一頭だけだ。だが、一頭いれば騎士百人の働きをするとも言われるものであるから、誰も太刀打ちできない。


 ただ、村は制圧され、再びルーフスに略奪されるままになるだけだ。

 戦慄くティナを追って隣に立ったヴェルークは、相変わらず冷静だった。


「ルーフス軍が来たな。さて、逃げるか」

「嫌よ」


「敵う相手じゃないぞ。村人が束になって挑んだ所で全員死ぬだけだ。まあ非戦闘員だから、従属しさえすれば命はとられない。せいぜい、かつての俺のように奴隷にされるだろうな」

「⋯⋯⋯⋯」


「全てを、諦めたお前は、それでいいんだろう?」

「⋯⋯⋯⋯」


 ここは村はずれであり、敵軍からはまだ遠い。逃げる事も出来るだろう。でも、村には両親がいた。森の奥深くで、まだ一歳ほどの幼児だった自分を拾って育ててくれた大きな恩がある。


 彼らの為に留まれば、自分は再び虜囚となり――やがて、飛竜の言葉を理解する能力者と露見するかもしれない。亡国の血筋の者と露見すれば、どんな辱めを受けるか分からない。


 ヴェルークは動こうとしない。

 ただ、静かにティナを見返すだけだ。その眼は力強く、どうしようもなく優しい。


「みんなを助けに行って」

「断る」

「⋯⋯貴方しかいないわ」

「俺には何の義理もない」


 ヴェルークは、ティナの婚約者という立場ではあるが、元をただせば赤の他人である。放浪の末にたどり着いた彼に、危険をおかす理由はない。彼は正しい。

 だから、ティナは意を決して告げる。


「いいえ。貴方は――王女の騎士でしょう」


 国は滅んでいるのに。もう誰もいないのに、なんて滑稽な話だろう。

 でも、彼は微笑んだ。その言葉だけを待っていたのだ。


「俺をお前の伴侶に足る男だと認めるか?」

「⋯⋯えぇ」

「よし。お前の敵は、俺がこれから残らず蹴散らしてやる」


 ヴェルークはティナの唇をかすめ取ると、丘を駆け降りていった。


 その後ろ姿を見つめ、ティナの目から涙が落ちた。


 古の時代、この世を治めていたのは竜の一族だったと言われている。竜は大別して三種いるとされ、水竜と地竜――それに飛竜だ。


 そして、彼らの支配から抜け出そうと人間達が一致団結して戦った。中には人々に手を貸す竜族も現れ、彼らの助力もあって、ついに竜の一族は別の世界へと去っていった。人々は共闘した竜と手を取り合い、新たに三つの《国》を作った。


 中でもルーフス王国と共生する《地竜》は、陸地で圧倒的な力を振るう事もあって、国土を大きく広げた。やがて、かつて共闘した他の国々と領土を巡って争うようになり――――ついに、《飛竜》と共にあったティナの祖国を滅ぼしてしまった。


 もう、百年も昔の事である。


 ティナの目には、人から竜へと姿を変えて、大空を飛び去って行くヴェルークの姿が映っていた。


「やっぱり⋯⋯飛竜の化身だったわね」


 百年前、敵兵達に連れてこられた彼を見て、ティナは目を疑った事を今でも覚えている。一見すると、薄汚れた男だったが、竜語を解するティナは竜の気配に敏感だ。


 この男は、人ではないとすぐに察した。


 何故大人しく捕らえられているのか理由は分からなかったが、自分を含め人間達に憎悪を滲ませる目がティナの胸を騒めかせた。


 そして、祖国の滅亡を目の当たりにして絶望しかなかった心が、動いた。


 囚われの彼を、飛竜を、鎖から解き放ち――空に還そう。


 最期に自分も役に立てたという喜びを秘めながら、

『彼を私の騎士にしたいわ。一緒にいさせて』

と、敵将へ告げたのだ。


 長い月日が流れて王都はもう跡形もなく、飛竜の名は滅亡とともに堕ちた。今では、三種の竜の中で飛竜は最弱と嘲られるほどだ。


 飛竜の名を貶めた国の王女が、彼の伴侶になど相応しくない。身分違いもはなはだしい。みんな死んでしまったのに、自分だけが何故か転生してしまって申し訳なさばかりが募った。


 それでも、ヴェルークは伴侶となれと言う。

 何も怖がる必要はないと、示してくれている。


 空に響き渡る飛竜の力強い咆哮に、ティナはようやく顔を綻ばせた。

「⋯⋯頑張って、生きていくしかなさそうね」



 ヴェルークは歓喜していた。

 彼は、かつて人間の側に立って戦った竜の一族だった。

 だが、戦が終わった後、人間達は手のひらを返して従属させようとしてきた。力で圧倒する事など簡単だったが、かつては仲間だったという事が躊躇いを与えた。


 とりわけ高い知性を持ち、人に化す力を持つ最上位の竜族は、心も人に近い所がある分、よりいっそう裏切りに傷ついた。そして、人間達に襲い掛かられる最弱の同胞達を庇い、深手を負って散り散りになった。


 ヴェルークも、そんな最上位の竜族の一人である。


 二度と人間になど手を貸さないと誓って、傷ついた身体を癒すべく、深い眠りについた。どれ程の間眠っていたかは分からなかったが、気付いた時には周囲を見知らぬ者達に囲まれていた。


 訳が分からないまま鎖で繋がれた。深い眠りについていたせいで体は全くと言っていい程動かず、されるがままだった。

 ただ、連行されていく道中で、己の同胞である飛竜達が屍と化している光景を見せつけられた。知能の低い最弱種ではあったが、人間の国の争い事に巻き込まれ、戦力として使われた事を理解して、人間への憎悪が増した。


 ティナの前に引き出された時もそれは変わらず、全員食い殺してやろうかと、思った。


 だが、己の敵意を理解しているようだった少女は、それでも告げた。

『彼を私の騎士にしたいわ。一緒にいさせて』


 周囲の者達から嘲笑されても、彼女は全く表情を変えなかった。ヴェルークの鎖が外された時、ティナは初めてヴェルークに優しく微笑みかけ、薄汚れた彼の手を取った。


『これが最後の役目よ』


 その時、ティナは気づいていなかったが、その手の甲には薄らと竜の紋章が現れていた。


 人間達の中で稀に産まれるという、竜と同じ強い魂を持つ者だ。強靭な身体を持つ竜族とは異なり、身体は人間そのものだが、伴侶の誓いをたてて竜と交れば同じ月日を生きられると言われていた。


 そして、竜の長い生涯の中で唯一無二の存在であり、失えば二度と現れる事のない者でもある。


 衝撃のあまり呆然とするヴェルークの元から、ティナはすぐに引き離された。


 やめろ。何をする気だ。

 彼女は俺のつがいだ。傷つけるな。


 絶叫して追おうとしたが、ルーフス兵は世迷言をと嘲笑い、押さえつけた。忌々しい事に、身体はまだ深い眠りから覚めてこない。


 そして――彼女は敵将の刃にかかった。


 あれほどの怒りと絶望を、ヴェルークは知らない。


 気づけば竜と化し、周囲を一掃していた。でも、残ったのは彼女の亡骸だけだ。ルーフス兵への憤りは無論の事だったが、彼女を守り切れなかった不甲斐ない己に一番腹が立った。


 身体から離れていこうとした彼女の魂を、すぐに己の体内へと取り込んだ。竜紋を持つ者の魂はたとえ肉体が滅んでも、竜族が守りさえすれば現世に留まることができるからだ。


 ただ、身体に死を与えられたせいかティナの魂は酷く傷ついてもいて、修復にも時間がかかった。

 己の最低限の生命維持以外の全ての力を彼女に注ぎ続け、ずっと抱いて守ってきたが、それによって彼女の身体が再誕した時、意識を保っていられなかった。


 いつの間にかいなくなってしまったティナを、死に物狂いで世界中探しまわって、やっと見つけたのだ。


 生まれ変わって一介の村娘として、静かに人生を送らせても良かった。

 それこそ、苦しい思いしかしなかった前世の事を、思い出さないままでもいいと思った事もある。


 でも、彼女は別の道を歩き出した。


 ならば、祖国を失った彼女のために、誇り高く散った王女のために、また新たな国を作ってやろう。

 眠っている間に、すっかり腑抜けになった飛竜の性根を叩き直すのだ。

 全ての飛竜を従えて、彼女の敵になるものは全て蹴散らしてやる。


 そして――今度こそ思う存分、ティナを思いっきり愛するのだ。



 巨大な飛竜が大暴れしている姿が遠目からも見えて、ティナは呻いた。

 

 あれはもしかして、竜族の始祖と言われる伝説の最強種ではないだろうか。

 自分はとんでもない男を、世に解き放ってしまったような気がする。

 手の甲を見れば竜紋が色濃くなっていて、もう逃れられないのではないだろうか。

 彼が帰ってきたら、とんでもないことになりそうだ。


 それでも、途方もない喜びと安心感を覚えた。ヴェルークに抱きしめられるたびに、腕は温かいといつも思った。彼はずっと――そうやって守ってきてくれた気がした。


 ならば、気高い飛竜が暮らす地を、取り戻さなければならない。

 それが私の使命であり、彼の伴侶としてなすべきことだろう。

 ティナはそう胸に誓った。


 後に、《アルティナ》という新たな国が興った。


 飛竜の長に終生愛された開祖の名をとり、大陸に勇名を轟かせることになる大国の名である。

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