第13話 魔法使いの弟子 SIDE:静香
昨日から始まった光輝とのやりとり。
好意をにじませてくる文面に煩わしさを感じることもあるけれど、巨匠やノエルについて、いろいろな話を聞けたのは素直に嬉しかった。
両親共に世界を相手にしているから、日本にジッとしていることは少ないのだという。
「その分、自由にできるんだよ」
私立ではなく都立に入ったのも、親が自由に選ばせてくれたからだ。
光輝は嬉しそうに書いているが「そうなんだ」としか静香には思えない。
静香自身も自由にしてきたし、幼馴染みの祐太も自由に生きてきた。親のあれこれで人生を決められる生き方が身近になかったせいで、実感できないというのがあるからだろう。
そして、待ち合わせのカフェは、光輝の最寄りの隣の駅だ。確かに雰囲気が良いお店。でも、別に最寄り駅の適当なお店で待ち合わせても十分だったのにと思う。
春向きの軽やかなワンピ。胸元か目立たないデザインで、お気に入りだ。
巨匠に会えるのだから、それなりにオシャレには気を遣った。一度家に帰って着替えてきた結果だった。
光輝から言い含められている「演技」のせいもあって「まるで、デートみたい」な形になるのは不満だが仕方ない。
ケーキは確かに美味しかった。話もそこそこに食べ終わるといよいよだった。
初めて招かれた「巨匠の家」は立派な家ではあったけれども、思ったよりもこぢんまりしていたのも事実だ。
ガレージもあり、立派な外車が置いてある。いわゆる「お金持ち」の家だなぁというのが最初の感想。
静香が初めて感動したのは、ピアノルームに入った時だ。普段は息子と言えども入室禁止。巨匠の仕事部屋だ。
室内の設えは趣味が良く、聞いていたとおりベーゼンドルファーのグランドピアノがあった、
しかも「インペリアル」である。
「すご~い。こんなのがお家にあるなんて」
ため息だ。
「お嬢さん、よくご存じですね」
静香が目を丸くしてピアノを見つめているところに、巨匠が入って来た。
背筋がピンとなる。
「初めまして。新井田静香です。本日はありがとうございます」
「ははは。息子にしては上出来だ。素敵なお嬢さんを連れてきてくれました。光輝の父親です。お目にかかれて嬉しい」
少しも驕らず、そこにあるのは「友人の父親」として出迎える優しい笑顔。
「すみません。お忙しいのに」
「いえいえ。私もたまには父親らしいことをしてやらないと。ところで、お嬢さんはこのピアノをご存じみたいですね?」
「話だけは聞いたことがあって。実物は初めて見ました」
「ふふふ。そうですねぇ、まあ、普通だと趣味みたいなものですが、実際に耳をアップデートし続けないと、すぐに衰えますからね」
目の前にあるのは、完全8オクターブ、97鍵の鍵盤を持つピアノだ。標準の88鍵の下にさらに9組の弦が張られて、最低音を通常よりも長6度低いハ音としている。特別中の特別なピアノ。
「あまり下世話なことを言いたくはないのですが、日本での自宅であるこの家と、お値段は大して変わりませんよ」
つまりは数千万円である。そんなモノを個人で用意している。音楽の世界では楽器にかけるお金は天井知らず。それが当たり前だと頭では理解できるが、実際に目の前にすれば、ため息しか出ない。
それに、部屋自体もすごかった。
防音、エアコンは当たり前として、加湿器までもが作り付けで天井に埋め込まれている。あちこちにあるオブジェのような黒い出っ張りや、特別な素材でできている壁。余分な反響を抑え、狭い部屋でもホールの響きに近づけるための特別設計だという。
しかし部屋やピアノよりも、静香の緊張は目の前の人物にある。世界に名の知られた巨匠が、そこにいるのだから。
実物の巨匠は、息子よりもさらにイケメンで、ダンディな「お洒落オジさん
」である。テレビで見た通りだった。
街で会ったらさりげなく避けて歩くだろうが、この人があの巨匠だと思えば、チャラそうに見えるのもいっそ「イタリア人ぽくていいね」と評価したくなるから不思議だ。
偏見なんて一切持ってないつもりだが、某擬人化マンガで各国の特徴を覚えている静香としたら、砂漠でパスタをゆでて、そのまま湯を捨ててしまう「イタリア人」としか言えない感じだったのだ。
そんな葛藤はさておき、背が高くて、お洒落な巨匠は一つも偉ぶることなく、笑顔を見せた。
「え~っと、君が演るのは暮鳥の『春の海の歌』だったよね?」
「はい」
話は親子で通っていたのだろう。ビアノイスに座った父親に光輝は黙って楽譜を渡した。
サラッと目を通すと、ポロロロンとさりげなく鳴らしたピアノ。
キーを取ってくれたのだろう。逆を言えば、ノータイムで不意を突かれても音取りができるかどうかも見ているのかもしれない。
もちろん、静香に油断はない。
「ソロパートからでいいかな? それとも最初から歌わないと調子は出ない?」
笑顔だが、そこには挑発の気配が残されている気がした。
「大丈夫です」
曲の途中からいきなり歌うのは難しい。まして、緊張感のある状態ではなおさらだ。
しかし「世界の酒井」を待たせるなんてもってのほか。本来なら聞いてもらえるだけでも奇跡なのだから。
静香は決意を込めて一つ頷くと、ピアノの横に立つ。
自分の世界に入り込んで歌唱姿勢だ。
おもむろにソロパートを歌い始めた。
静香達が歌うのは山村暮鳥の童謡「春の海の歌」から取った合唱曲。
第1連「さしたり ひいたり はるのしほ」をソプラノとテノールの掛け合いで始める。そして、今回選んだ楽譜は5連、6連をソプラノのソロに指定している。
静香が歌うべき場所だ。
高音を伸びやかな歌唱を求められつつ、童謡特有の楽しさを表現しなくてはならない。しかも直前が四声によるフォルテッシモを引き継いでいくから声量も要求される。
最初はソロなど想定してなかった。だから楽譜はあったにしても、ソロパートは高校生に高難度の曲になってしまった。
静香も四苦八苦している。
そんな曲を巨匠の前で歌うのだ。
大観衆の前で歌うよりも緊張していたかもしれない。同時に、こんな素晴らしい人の前で歌えることに喜びで震えていた。
♫ ぴよつこり
♫ おふねが
♫ ういたらば~
『大丈夫、いける』と自分に言い聞かせながら呼吸を入れる。
♫ ひよつこり
♫ いそが
♫ しいづんだ~
きっちり三拍伸ばして、切る。
自分では上手くやれたはずだ。でも、巨匠の顔を見るのは怖い。
その時だった。
パチパチパチパチ
え? と静香は初めて巨匠をまともに見た。
世界の酒井が手を叩いている。ブラボーとまで言葉にしてくれるではないか!
「ありがとうございます。恥ずかしいです。恥ずかしいです」
真っ赤になりながら、ペコペコと頭を下げる静香。最高に幸せな気持ちだ。
椅子から立ち上がった酒井は手を差し出してくれた。反射的に握手をしてもらう。
『すごい。私、酒井光延に握手してもらっちゃった。ぜったい、祐太に自慢しなくっちゃ』
束の間、握った手を離してくれないことに困惑しながらも、自分から振りほどくわけにもいかない。しかも困惑に気付かないのか、酒井は親指で手の甲を撫でてくる。
気持ち悪いとまでは言わないが「えっ」と思ってしまった。そこに酒井が興奮したような口調で言葉を出してきた。
「えっと、新井田さんだっけ? 新井田静香ちゃん」
「はい。新井田です」
ちゃん呼びとかw
思わず脳内補完で草を生やしてしまう静香だが巨匠の前に失礼な態度は取れない。
「まだまだ荒いけど、見所があると思うよ。どう、今度のコンサートが終わってからも、よかったら、しばらくウチに来てみない?」
「え?」
「こうして静香ちゃんの歌を聴いたのも何かの縁だ。ちょうど日本での仕事が続くし、空いてる時だったら見て上げるよ」
まさかだった。個人指導の申し出なのだ。しかし、と静香は困惑する。
「あの、でも、ウチは、あのぅ、お恥ずかしいんですけど」
「あ? ひょっとして謝礼を気にしてる?」
酒井はにこやかだ。やっと手を離してくれた。手を拭いたくなるのは本能だろう。もちろん、そんな失礼などできない。懸命に我慢するしかない。
しかし、そんな葛藤の前に、話がすごすぎた。
実際に酒井の「個人レッスン」を受けるとなると一時間で数十万円を包むのは最低線だろう。音楽の世界で個人レッスン料は青天井なのが常識だ。
貧しいと言うほどではないが、普通の家庭である静香の家で、そんなことは不可能だった。
「気にしない、気にしない」
巨匠は気さくに、静香の肩をポンポン叩く。傍らの息子が怒りの視線を向けても気にした様子はない。
「あの?」
「息子のお友達から、しかも高校生からお金を取れるわけないでしょ」
「でも、そういうわけにも」
「あ、でも、気になるようだったら、ボクの内弟子扱いにしようか。来た時にメシを作ってもらう。そう言えば妻も…… ノエルも内弟子に来た頃は金がなくてね、あいつは料理ができないんで、掃除やらなにやらを一生懸命やってくれてたよ。才能のある若手にチャンスを与えるのも我々の使命だからさ。可愛い弟子から金なんて取らないのがしきたりだよ。それでチャラってことで」
まさかの「ノエル」と同じ扱いだという。
信じられなかった。呆然としてしまうのは、静香じゃなくても当たり前の反応だ。
嬉しさは巨大でも、むしろ戸惑いの方が大きいかもしれない。
「おや? 何か?」
「あの、すごく名誉で、嬉しいんですけど、そんなすごい方と同じにしていただくわけには」
ノエルと同じ扱いなんてありえないというのが静香の正真正銘の気持ちだ。
「何を言ってるの。君は、ひょっとしてノエル以上の才能が眠っているかもしれないんだよ」
「え?」
いくら社交辞令でも…… しかし、そこで思いだしてしまった。「世界の酒井光延」は、音楽においては常に本音しか言わない人だと。
むしろ「褒めない男」として有名で、ちょっとでも褒められた若手は、それだけでも、ニュースになってしまう人なのだ。
そんな人に「ノエル以上だ」と言ってもらっているという事実に、静香は嬉しさよりも青ざめてしまったが、それが普通だろう。
音楽が好きだというだけの、ごく普通の高校生が、世界の酒井から「ノエル以上だ」などと言われたら怖くなるものだ。
立ち尽くしている静香は薄いワンピース越しの二の腕をそっと握られていた。
「任せてみなさい。君に眠っている才能をきっと伸ばしてあげるから」
自分の感触を確かめられてる気がした不気味さを、静香は「とてつもない嬉しさ」という感情の下に押し込んだのだ。
14話「才能」
とセットになっています。