第11話 空気
お隣のドアが荒々しい音を立てて閉まった。
めったにないことだ。
それだけ怒りが大きいのだろうと思うと落ち込んでしまう。
『あ~ 怒らせちゃったか』
ポツンと取り残された自分が、どんな顔をしているのか鏡を見るまでもない。
心が縮まってしまった。
訳知り顔のもう一人の自分が諭してくる。
「理屈が正しいからって、なんだよ、あの言い方。しーかの気持ちを考えろよ。あそこは一緒に喜んであげた方が良いに決まってるだろ。バカだな、お前は」
さらに、もう一人の自分が熱のこもった主張をしている。
「あれで正しいよ。どれだけのラッキーであっても、いや、ラッキーが大きければ大きいだけ、それを女の魅力で手に入れるなんてダメに決まってるだろ? そんなのしーからしくないんだ。いつものしーかなら、わかってくれるはずなんだ!」
どちらも正しいから悩ましい。
「そりゃあ、さ、オレでも知ってるビッグネームだもんなぁ」
実際、静香の人生で、こんなラッキーは二度とないだろう。音楽を志すなら、世界の巨匠が個人的に聴いてくれる機会を見逃せる人間がいるとは思えなかった。
祐太にだってわかることだ。静香が有頂天になるのも当たり前だと思う。
『高校生が世界的な権威に見てもらえるチャンスなんて二度とないんだぞ? 喜ぶのが当然じゃん。それを、オレはけなしちまったんだ』
素直に喜べなかった。
「これって、やっぱヤキモチだよなぁ。みっともない」
水を差すことを言ってしまったのは、相手が酒井だからだという自覚があった。
1年生の合宿の夜、告白してきた話は聞かされていた。当の静香が合宿の後、真っ先にしてきた話だ。
夜練が終わった後、最終日の自由時間に誰も来ないミーティングルームへ呼び出されたんだという。
静香は、その時の話を細かく喋りながら、どういうつもりなのか頻りに「ごめんね、ごめんね」と謝ってきたのを覚えてる。
正直言って面白くない気持ちがあった。静香は自分の気持ちを察してくれたんだと思った。それにしても、あの件は、いまだに心に残ってる。
『だって、夜に二人っきりになったということだろ?』
初めて聞いた時から、ずっと引っかかっていた。自分以外の男と誰も来ないところに、夜、やすやすと二人きりになってしまった。
それがショックだったのだ。
もちろん「秒速」レベルで断ったと言ったし、それ以外のことは何もなかったというのも100パーセント信じられる。
お断りして、すぐにお部屋に戻ったよと言ったのも信じられた。
その晩に起きたことを静香は一つのウソもなく教えてくれている。それは今まで、ほんのカケラも疑ったことがない。
しかし、信じることと想像してしまうのは、また別の話だ。カッコ悪すぎて絶対に言えないが、あれこれと想像してしまうと腹の下がモヤッとする。
こればかりは理屈じゃないのだ。
まして、3月から何度もカラオケに行っている。自分とは出かけないのに、土日は毎週、必ずだ。「交流会とは、すなわち、仲良く遊ぼうという意味なんだよね」といつも考えているなんて、絶対に言えるものか。
『どうせ、今回はカップルシートだったんだろ? しーかは、オレが知らないと思ってるんだろうけど、話くらいは聞いたことがある、つーの』
モブだが、けっしてボッチ君というわけでもない祐太は、カラオケに行くことはなくとも、ウワサレベルで聞いたことがある。
と言っても、又聞きの又聞きだ。囁かれるのは、カップルルームに入って女とヤッたの、逃げられただの、ここまでヤッたのだの、3人で無理矢理入っただのと言ったお下劣な話ばかり。
だから、むしろ「カラオケのカップル《《ルーム》》はヤバいところ」ってな印象が強くて、祐太の中では怪しげななホテルと同レベルな存在となっている。
そんな場所で、静香は3年越しに狙っている男と二人で過ごしたのだ。
どれほど静香を信じていたとしても、ホントは「自分以外の男と二人きり」になることなんて、心穏やかでいられるはずが無い。
しかも、酒井は「ラッキー」を引き寄せてくれた相手だ。この後のことだって特別になる可能性は大きい。酒井と付き合うとかどうか、なんてことは考えにくいけど、なにしろフミ高一の男だ。金もあるって話だし。油断はできない。
『当たり前の話として、自分と酒井を比べれば、どっちを取るかなんて考えるまでもないよ。ヤツはフミ高一のモテ男じゃん』
そういう相手が静香を好きで、これで特別な関係になってしまうのだ。いくら静香と祐太の信頼関係が特別だと思っていても、心がモヤモヤしないわけがない。
『それに、何よりも、自分を好きだって言う男を利用してる静香って、見たくないもんな。それが一番の気持ちだよ。絶対に、単なる嫉妬じゃないからね!』
ベッドに身を投げだすと、天井に向かって「クソッ」と声を出した祐太は、次の瞬間、またしても内向きになってしまう。
『……ちっちゃいな、オレ』
自分が嫌になる。
『嫉妬してないなら、何で怒っちゃったんだよ。せっかくのチャンスなのに。なんで応援して上げられないんだ。なんて小さい男なんだよ、オレは』
応援しようと決めたはずだろ、と自分を叱る。
『やっぱり、謝ろう。明日、朝一で』
その後のことは、その時に考えよう。
ノロノロと体を起こした。
『明日は数学もあるんだったっけ』
予習をしようとノートを開いても、ちっとも頭に入ってこなかった。
『そう言えば言ってたな、光輝くん、か……』
思わず名前呼びした後、ホンの一瞬だけうろたえたのが見えた。あれは、いつの間にか、気持ちが近づいた証拠みたいなもの。
知らんぷりをしてはみたが、やせ我慢だ。だって、それを言っても「二人の気持ちが前より気安いものとなった」のは何にも変わらないのだから。
ふぅ〜
祐太はため息をつきながら、数学の例題をノートに写し始めるのだ。
第12話「ごめんなさい」で家に戻った静香を描きます。