第35話 言っておきたいことがある
「おーい、来たぜ~」
病室の入り口に引かれたカーテンの手前で声を掛けると、ゆっくりと宗一郎が入っていった。
振り向きざま目で呼ばれた通り、オレもゆっくりと続く。
バッと毛布を被ったのが見えた。
そこに見えるのは断固たる「拒否」の姿だ。
マジで、オレ、ここに来て良かったのかな?
「カナ~ 来たぞぉ~」
「帰って」
「お! やっと声を出してくれたな」
頭まで被った毛布の下で、縮こまって身を丸めているのがわかる。
「佳奈はナカかな? カナカナカナカ~ナ?」
ポンポンと毛布の上から優しく叩く。それは、かまってほしい子どもが隠れた布団をいらうような動きに見えた。
傍目に見ても、そんなスキンシップが、ずっと繰り返されてきたのがわかるほどに自然だった。
小さく震えていたシルエットの動きが止まった。
「お? 怒ったか? あ、そうだ。古川も来たぞ」
「え!」
「なんだよ。なんか、オレの時より嬉しそうな反応ジャン」
「嬉しいどころじゃないでしょ! 古川クン、共通テストが明日もあるんだよ! 何で呼ぶの、バカ!」
「うん? それは、どっかのお馬鹿さんがバカなコトをやったからだぞ」
「私のせいだっていうの? 古川クンを巻き込んでほしいだなんて一言も言ってない!」
「う~ん。まあ、それも古川の運命だ。しょうがないよ。な?」
声はおどけているが、目が「すまん」と詫びている。もちろん、オレだってわかってるさ。小さくウィンクしたが、よく考えたら、男同士、ちょっとキモかったかもしれん。
「まあ、これも、さだめじゃ。仕方ない」
バッと身体を起こした広田さんは、まだ青白かった。
「もう! しょうがなくないでしょ!」
宗一郎は大げさに、驚いたポーズ。
「おっ、元気、元気。良きカナ、良きカナ」
「さいてーよ。それから、古川クン。私なんかのことに巻き込んじゃってごめんなさい」
オレは首を振って両手を軽く前に出す。どんな言葉を出せばいいのか分からなかったんだ。
「わりぃわりぃ。ちょっと真面目な話。古川は、どうしても来たいって聞かなくてな。仕方ないんで連れてきた。もちろん、ここで何を聞いても生涯沈黙するって誓ってくれた。姫にも言わないって言ったんだぞ。な? 古川」
「あぁ。親友の一大事に駆けつけなくてどうする。オレは何を聞いても絶対に誰にも言わないって誓うからさ。少しで良いから信用してもらえないか?」
宗一郎に合わせて話を作ってから、ゆっくりと頭を下げてみせる。
眉を寄せながらオレを見た広田さんは、深々と頭を下げた。ごめんなさいと言った。
「私なんかのために、ありがとう。もちろん、古川クンは信用してる。でも…… いま、イッチーに喋る事なんてないよ」
そっか。宗一郎は「イッチー」って呼ばれてたのか。
オレの知る限り、学校で彼女がそう呼んではいなかったはずだ。
広田さんの視線が宗一郎に一瞬向かった後、プイッとそっぽを向いた。
ベッドの脇にツカツカツカと近寄った宗一郎は「ああぁ、そうだろうな」と小さな声だけど、さっきとは一変した、いつになく強い調子だ。
むしろ、オレの方がビクンとなるほどの声。それは怒気だ。
「オレもさぁ、命を粗末にする女に喋る言葉なんて、実は持ってねーよ」
え? お前、説得に来たんじゃないのかよ? いきなりケンカを売ってどうする。
「え? え? え?」
広田さんも、そっぽを向いたまま驚いた顔。チラリと宗一郎の顔を見ると、慌てて、顔ごとさらに反対に向けた。
宗一郎は温厚な男だ。いつも柔らかな微笑を浮かべて、ご機嫌なオッサン顔で歩いてる。見知らぬ後輩達から「留年しないお守りに」と言われたら、ニコニコと黙って頭を差し出す男だし、フミ高の「オチコボレちゃん」達の信望を一身に集めるほどに優しい男。
それが、宗一郎だ。
しかし、そんな男が見せているのは、明らかに「怒り」そのものだった。
「くだらないことで死にたがるやつが何をどうしたかなんて、いまさら聞かねーよ。どういうつもりだったのかもどうでもいい。聞く必要もないことだから聞くつもりもない。だから、話す言葉も持ってねぇ」
ハラハラした。マジでケンカを売ってる。
知恵者、宗一郎が、なんで、こんなマネを? しかも、自殺を図ったばかりの女の子に? 言葉もケンカ腰だし、口調だって、ちっとも優しくない。
自殺を図って病院に運ばれた女の子にありえない態度だった。
疑問符だらけだったけど、カンのようなものが働いて「言葉を挟んじゃダメだ。それはオレの役目じゃない」って思えた。
焦りまくりながらも、ただ黙って見つめていた。だって、あいつは「証人になってくれ」と言った。それがダメなら説得しろと言った。だから、何かを約束しようとするまで、オレは黙っているのが正解なんだ。
『ここはあいつを信じる。オレができるのはそれだけだ』
宗一郎はベッドにストンと腰を落とした。
気を呑まれた広田さんが、思わず顔を向けた。その視線をグイッとつかみ取るように顔を寄せた。
「いいか。オレが喋る相手は、幼なじみで、ずっと、ずっと、ずーっと大事にしてきた女だけだ。覚えておけ」
決して大声ではないのに、低く、よく響く声には「ドス」が利いていた。
「お前、もう、目が覚めたんだろ?」
広田さんはマジマジと宗一郎と視線を合わせてから「ふぅ~」と深い息をこぼして下を向いた。
「うん。悪い夢を見てたみたい」
ポツリと小さな声だった。哀しみと言うよりも、どこか、ホッとしたような声だった。元気者の彼女のこんな声も姿も想像すらできなかった。
「バカだよね。せっかくずっとイッチーに助けてもらってきた命なのに」
弱々しい声だ。
「オレは、そんなの覚えてねぇぞ」
「バカ言わないでよ。中学の時、病気でバスケを諦めようとした私に、ずっと、ずっ〜と横にいてくれたじゃない! イッチーがいなかったら、今ごろ、バスケを続けるどころか、この世にいなかったって、私が一番知ってるわよ!」
なんとなく、広田さんが中学時代に病気になったということは推測できた。ずっと横に? 二人にはいったい何があったんだ?
「そんな昔のことは覚えちゃいないが、とにかく、目が覚めたってぇんなら、ここにいる女は、大事な幼なじみってことでいいんだろ。戻ってきたんだな?」
だんだんと、語りかける口調になった宗一郎に、毛布を見つめたまま、小さくコクンと頷いた広田さん。
「わかった。念のため聞くが、これからは命を惜しんでくれるんだな?」
「惜しむっていうか…… バカバカしいって言うか。あんなヤツのために「ストップ! わかった。もう、いい」何なの?」
ステイだぞ、といいながら革ジャンのポケットを探る。
「アメはいらないわよ。病院だもん。ちゃんと血糖値も管理されてるし」
またしてもプイッと横を向いた。
「そうか。アメはいらねぇか」
苦笑のようなモノを浮かべつつ、ポケットを探り続ける宗一郎の背中を見ながら、広田さんの「病気」の正体に気付いた。
糖尿病。
『そう言えば、保健の授業で広田さん達のグループが発表してたのも糖尿病だったな。あれは、自分のことだから、あんなに真剣だったのか』
まるで、バスケで速攻を決め込んでいるような、あのグループの強烈な勢いは、まだ覚えてる。
「低血糖状態になると本人は判断能力がなくなり昏睡状態に陥ります。放置すると、そこから死に至る場合があります。そうならないように、回りの人が早く気付いて、糖分を補給させる必要があります」
広田さんがキビキビと説明していた。
糖尿病って、肥満のイメージばかりがあるけど、実は原因不明で発症する人が5パーセントもいる。インシュリン注射を打ってコントロールすれば運動だってできるけど、常に血糖値のコントロールが必要だ。
一番怖いのは低血糖状態になると「糖分を補給しよう」と自分で判断できなくなるということだ。特に激しく身体を使う人には、常に近くで誰かが見守って支えてあげる必要がある。
オレの頭の中には、あの時の広田さんの声が朗々と響いている。
「もしも糖尿病になっても何ひとつ諦める必要はありません。誰かがいつも側にいてくれれば、何にだって挑戦できるんです」
広田さんらしい、明解な説明は印象的だった。
『あっ! だからだったのか』
その瞬間、オレは全ての疑問が解けた気がした。
始めから進学を考えてないくせに、なぜフミ高に来たのか。
ポケットの中に、なんでいつもアメを持ち歩いていたのか。
なぜ誰にでも押しつけるようにアメをばら撒いていたのか。
『だから、広田さんにアメを押しつけても誰もヘンに思ってなかった』
ひょっとしたら病気に気付いた人もいたのかもしれない。でも、広田さんは、あれだけ激しくバスケをしながら、糖尿病のことをしーにすら気付かれずに来たのは事実なんだ。
『フミ高の中でのサポートは完璧だったってことか』
さすが宗一郎だよ。
しかし、そんなにすごい男が、ポケットの中から何かを取り出すのには苦労しているみたいだ。ごそごそと不器用な動きの果てに小さな箱を二つ取り出した。
「そうか。アメはいらないか。あぁ、これはアメじゃないんだけど」
左右の掌を見比べて、左手の箱が突き出される。
「コイツは受け取ってくれるな? さっき国分寺の駅ビルで買ってきたんだ」
「何よ、国分寺って……」
広田さんの目が無骨な掌に載った小さな箱を見つめていた。潰れたリボンがかけられている。
「すまん。バイクだからな。ポッケに入れるしかなくてよ。ちょっと潰れた」
照れ笑いを浮かべてる宗一郎。
オレの視線も「それ」に釘付けられていた。
「ね、お見舞いにリボン付きの箱を持ってくるとか、ないと思うんだけど」
広田さんの目が輝いているのは明らかなんだけど、懸命に、それを抑えようとしているのもハッキリしていた。
「ダダ漏れ」
頭に浮かんだのは、その一言。
嬉しさを絶対に出すまいと決め込んでいる人が、身体のあらゆる隙間から喜びの光を漏らしている姿だった。
「こんなお見舞い、受け取れないよぉ」
伸ばしたい手を毛布に突っ込んで懸命に押さえ込んでいる広田さんがいる。嬉しいんだけど、それを拒もうとする姿だ。
「おいおい、これが見舞いの品なわけがないだろ」
「違うの?」
「あたりまえだろ。これは、お詫びの品だ。受け取ってくれ」
「お詫びって。私、なんにもされて「オレが拒んだせいだろ?」ち、ちがうもん」
幼子のような言葉遣いが、図星だと言っていた。
「ぜんぶ、オレへの当てつけだったんだよな?」
「そんなこと…… ないよぉ。私がバカだっただけ。イッチーのせいじゃないもん」
元気が売りものの広田さんが弱々しく頭を振る。
「あの時、ちゃんと説明しなかったオレが悪かった」
「せつめい?」
「素晴らしい大学生活が待ってるお前と、車をイジるしか能のないオレとは生活が違ってくる。フミ高なら勉強すればいいだけだが、さすがに大学に行く時間もカネもなかったからな。大学生活で佳奈に釣り合う素敵な彼氏を見つけてほしかったんだ。だから、あの時、受け入れるわけにはいかなかったんだ。ただ、それをちゃんと説明すれば良かった」
立ち上がった宗一郎が「けっして、お前のことが好きじゃなくて拒んだわけじゃなかった。だが、誤解をさせてしまった。今回のことは、ぜんぶオレの責任だ。すまなかった」と深々と頭を下げた。
『え? 雰囲気的に、これって広田さんが宗一郎のことを好きでコクったけど、進路を考えて宗一郎が振ったってこと? で、ヤケになったかなんかで、バスケマンとつながって見せた?』
仰天だった。
「違うよ。違うの、イッチーは悪くないよ。私がバカだっただけなの」
「聡明な女をバカにさせてしまうのは、いつだって男の責任だと思ってるよ」
「だけどぉ、私、こんなことしちゃったし」
「オレの責任だ。だから、お前は悪くない。目覚めてくれたなら…… 戻ってきたなら、そのままの勢いで、オレのところまで戻ってきてくれ」
「戻ってって、あの、それって?」
すくなくとも、こんなイチャイチャシーンは想定外だよ!
言葉で拒んでるけど、もう、結論見えてるじゃん。
「あの時の返事を変更したいんだ。許してくれるか?」
「返事って。あの、でも、私、もう汚れちゃったから、そんな資格なんて「これを!」え? なに?」
顔のすぐ前に左手をさらに近付けた。載っているのは右手のヤツよりちょっと大きい。
「ネックレスだ。大学で付けてくれ」
「私に?」
「そうだ。彼氏からのプレゼントだって、大学の仲間に胸を張って言ってくれ」
怖々と、でも、喜びを隠しきれない顔が、その箱を大事そうに持ち上げていた。
「ずっと、付けてて良いの?」
「そうしてくれると嬉しい」
「ね、そっちは何なのか、聞いても良い?」
右手に載せた小さい箱を見ている。
「こっちか? こっちは、あの…… そのぉ、あれだ。ほら、あれ」
宗一郎が真っ赤になってる。こういう顔を見られただけでも来た甲斐はあるけど、来た意味はなかった気がするぞ。
もう、答え出てるじゃん。ラブラブってやつだ。ごちそうさん。帰りたい。
「教えてよ、イッチーってば! これ、なに?」
「ああああ! もう! これは指輪だよ、指輪。シンプルだけど、おソロを買ってきたんだよ」
その瞬間、パッと広田さんの手が動いた。あまりにも素早くて、目が追いつかなかった。
手に取った小さな箱をマジマジと見つめる広田さんの輝いた目。
「あ~ だから、その、ほら、こういう時に必要な証人も呼んだんだ」
ここでオレに振るのかよ! 鬼か、お前は!
「あ、えっと、そういうわけで、オレ、しょーにんだよ? 広田さん、受け取っちゃったね。これで、決まりだよ?」
たぶん、さっきまで流していたはずの涙と、違う涙をツツッと二粒落とした広田さんが「うん!」って元気に答えてくれた。
「じゃ、二人の未来を!」
もう、それ以上の言葉はいらないだろ。
これ以上、ここにいるのは、ヤボだもんね。
きっと、この後は指輪をはめてもらうシーンなんだろ?
お幸せにね。
エレベータに乗ったのはオレ一人。
下降の微かな浮遊感の中で、さっきの二人が見せていた「この後」に向けての高揚感に打ちのめされていた。
途中で何があったにしても、最後の最後で二人が幸せになれたのなら良いさ。
「宗一郎だって、広田さんのために身を引く覚悟を決めたってことなんだよなぁ」
結局それが広田さんの絶望を生んでしまったけど、そんなの結果論だ。宗一郎は広田さんの幸せだけを考えて行動した。
好きな人のために何ができるのか。
オレには何ができるんだ? オレはどうなんだよ? 宗一郎の友達として胸を張って歩けるのか?
一つため息をこぼして、暗い道を駅まで歩く。
「それにしても、だいぶ遅くなっちゃったな」
時間は9時を回ってる。
その時、アプリではなく、電話の方に着信が入ったんだ。
だれだ?
「はい。古川です」
「今晩は。萩原恵です。わかります?」
「えっと、合唱部の?」
「よかった。わかってもらえた。そうです。シズにはいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
「あのぉ、今ちょっと良いですか? 試験の前の日なのにごめんね」
「歩きながらですけど、それで良ければ」
「あのね、シズのことなんだけど。身近な人だけで、サプライズの送別会をやろうかなって思うんだけど、ほら、やっぱり古川君がいないと始まらないっていうか。そういう話になったんだけどぉ」
「ありがとう。受験さえ終われば、喜んで参加させてもらうよ」
「わっ、そう言ってくれると思った。じゃ、そのつもりでいるね」
そこで微かな無言を挟んでから「ところでさ」と萩原さんが秘密めかした声を囁いてきたんだ。
糖尿病の病態は、色々とありますが、佳奈の場合は中学生の時に突然発症しました。原因は現代の医学では解明できていません。インシュリン注射を使うにしても血糖値のコントロールが難しいタイプであるため、普通の高校生活を諦めようとしました。それを支えてきたのが宗一郎君です。本当は機械科のある都立工業に進もうと考えていました。なお、1型糖尿病患者さんは、サポートさえあれば、ホントに何でもできて、プロスポーツ選手も、超一流のアルピニストまでいます。ただし、カナの症状や状態は、あくまでも小説の中の描写に過ぎませんので、よろしくお願いします。
なお、広田さんのご両親は刑事さんとの話の時は病室前で待ち、その後は宗一郎君にお願いされていたとおり席を外しました。1階のロビーのイスに座り、祈る気持ちでふたりの話が終わるのを待っています。
今回もなが~くなりました 笑
でも、親友の行動って、ぜったい影響を受けますよね。