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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
冬 12月~3月
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第24話 母として

新井田家 レッスンの帰りが遅くなった娘を待っているシーンです。


 ドアの開く音がした。


 思わず、リビングから様子をうかがうと、娘は気怠げに靴を脱いでいた。


「あら。お帰り」

「ただいま」


 心がここにないみたいな動きだ。


「お風呂、湧いてるよ」

「うん」


 直行するはずのお風呂ではなく、お部屋に入ると、ドアがピタッと閉じられる。


『乱暴に閉めたりしないけど、これって「入ってこないで」サインよね』


 子どもの頃からの癖。一人になりたい時は、ドアを閉めた後、こうして身体を押しつけているキシミが聞こえる。


『こうなっちゃうと、ゆーちゃん以外には返事をしなくなるのよね』


 子どもの頃から、こんなことがたまにあった。そして、聖が出ていく時も、こうして立てこもった。一日、立てこもったのを知った祐太が、パンケーキを焼いてきた。


『あの時は、パンケーキが冷めちゃうぞ、とか言ってドアを開けるきっかけを作ってくれてたよね』


 その後、何時間か二人で閉じこもった後、やっと出てきた時には、瞼を腫らしてはいても普通の受け答えをしてくれるようになった。

 

 あの時に「何」を話したのか、いまだに教えてもらってない。


『今回は、もう、ゆーちゃんには頼めないよ』


 レッスンが始まって以来、娘の雰囲気が変わった。


 歌への自信と、自分が向上していく手応えを日を追うごとに強めた。


 それは良い。


 しかし、同時に、ふと見せる儚げな姿は親としてもドキンとしてしまうほどに虚ろなのだ。そして、もはや、なりふり構わずに、レッスンの日以外はお隣にべったりになった。たまにこっちに帰ってきても、祐太のことばかりを話している。


 3月までで良いからと頼まれて、ピルを許可したのは「甘すぎる」と言われればそうだと思う。


 だけど、いくら素晴らしい男の子でも、やっぱりお年頃だし、失敗はあるかもしれない。何よりも、母としてではなく、()()()()()()()、そうしてあげたい気持ちもわかってしまった。


 考えたくはないけれども、ゆーちゃんではない方だと、もっとゾッとしてしまう。体よりも心が耐えられないに違いなかった。


 だから、一緒にレディースクリニックに行って処方してもらった。お医者さんから色々と言われるかと思ったけど「留学に備えて」と言ったら、むしろ積極的に褒めてくれて、海外用の処方箋も出してくれるとまで言われた。


 私達の時代と感覚が違っているのかもしれない。


 お医者さんには言わなかったけれども、帰り道に「留学したら必要ない」と言い切ったのは、私を安心させようとしていたのかなと思ってしまった。


 次は一人で来ても大丈夫だと言われたので、留学分の処方箋は「私にわからないように」出してもらえるだろう。ある程度出してもらって、後はあっちの病院を頼るしかない。それくらいは娘に期待して良いと思った。


 母として、外側から支えてあげられたのは、せいぜいその程度。


 後は、当たらず触らずの態度を取るしか無かった。


『私には、娘の決断を責める資格も、そして、褒める気持ちも持ってないのだから』


 だから、たまにお隣から帰ってきたときは、表面的でノンビリした会話ばかりになる。


 一番のお気に入りの話題は「ゆーが食べてくれそうな料理」の話。


 歌の話を一つもしなくなってしまった。


『でも、今日は、いつもと比べてもヘンすぎるわ』


 2時間も遅くなって帰ってきた。


 終わった後は「帰ります」くらいは送ってくるのに、それもなかった。


 心配でこっちから連絡したくらいで、それにはさすがに返事が来た。


「レイさんに送ってもらってます」


 オーティオススで静香と仲良くしてくれるお姉さん。とても親切にしてくれるらしい。


 お兄さんの事故の件で日本に戻ってきたのは聞いていた。せわしない予定があるはずなのに、合間を見て励ましに来てくれたんだ。


『オーティオススの他の人達も優しそう。良い出会いがあったね』


 そんなことでウソを吐く子じゃないし、必要もないこと。だから、とりあえず、そっちの心配はしなくてよくなった。


 となると、今日、何かがあったと言うこと。


『もう、とっくに手を出されていたのかと思ってたけど、ひょっとして、それが今日だったのかしら?』


 好きな人がいるというのに、親である美紀よりも遙かに年上の男との行為をする。


 倫理とか道徳とかで、この話を考えるのは辞めていた。

 

 そして、身体の関係と年齢は必ずしも関係ないのは身をもって知っている。


『あの子はセックスというものがなんなのか知った上で夢に賭けたんだもの』

 

 口を挟むべきではない。


 それはわかってる。わかってはいるけれども……


『こんなのダメだよ、静香。あなたが壊れていく』


 心の中で何度叫んだか。


 そのくせ、その一言はけっして言葉にできなかった。


 言おうとするたびに「今さら、お前がそれを言うのか」という嘲笑がどこからか聞こえてきて、娘の前に立つ勇気を消し去ってしまうのだ。


 声なき声に怯えて、娘と向き合えない。


『こんなことをしても、何にもならないのよ?』


 自分のことを考えれば、そしてあの子が生まれたという事実を突きつけられたら、私には口が裂けても言えない。


 そのくせ生理的な嫌悪感は拭えなかった。


 できることは、せめて娘に悟られないようにすることだけ。避けようとする分、不自然なほどに、この話題から私も逃げてきた。


 レッスンから帰ってくるなり「風呂場に直行する女」が何をしてきたのか。わからないわけがない。しかし、それを涙で迎えたり、小言を言ったりするのだけは違うと信じてきた。


 私にできるのはお風呂を用意してあげて、なるべくそっとしておくことだけだ。風呂場で泣いているのも聞かないふりしてきた。


 しかし、今日の様子はそれを遙かに超えていた。


『今朝までは、最近のいつもの感じだったから、今日、何かあったんだよね?』


 普通に考えれば、今まではセックス無しで、今日、本当にしてきたとなるかもしれない。しかし、それだと、これまでの様子に説明が付かない気がする。


 それなら何が起きたのか?


『今日は何かが起きた。今までになかったこと。その破壊力にやられたから、お風呂にも入る気力が湧かないほど落ち込んだってことでしょ?』


 自分の娘が、一番落ち込むのは何なのかと考えてみた瞬間、ドキンとした。


『ゆーちゃんに知られてしまった?』


 そう思い当たった瞬間、ストンと、自分が座り込んでしまったのに気が付いた。


 フローリングにお尻が着いたまま、動けない。


 しかし次の瞬間に「それはないわ」と私の中の冷静な部分が首を振らせた。


『ゆーちゃんなら、もしも秘密を知ったとしても、絶対に、それをあの子に言ったりしない。むしろ、知らないふりを押し通そうとするはずよ』


 夢を追うための決断だと、一番信じているのは、むしろ祐太だった。その思いは、ひょっとして本人よりも強いかもしれないと思える。


『ゆーちゃんは、何がなんでもあの子の夢を優先させようとしてくれるはずよ。それに思慮深い性格だもの』


 例え秘密に気付いたとしても、それを言葉にすることはない子だ。その意味では、我が子よりもよっぽど信頼できるだろう。


『ううん。違うわよね。あの子に関してなら、きっと、母親である私よりも深い愛情で包もうとしてくれるのがゆーちゃんだもの』


 もちろん、祐太の変化にも気付いてる。


 美紀のことを極端に避けていた。いくら声を掛けても、静香がいる時以外は勉強の切れ目が悪くなるのでと絶対に夕食を一緒に取ろうとしなくなった。


 受験勉強を理由にされると無理も言えない。いや、以前だったら、もっと強く言えたはずだ。けれども日に日に痩せていく祐太に、今は強く言えなくなっていた。


『あの子の留学があるから無理はないかなと思ってたけど』


 食も極端に細くなっているらしい。一緒に食べてくれる時も、無理に押し込んでいる感じだった。実際、頬のこけ方も尋常ではない。


 医者には行ったらしくて、クスリを飲んでいると言ったが、食が戻った気配はなかった。


『ともかく、このままだと、もたないかもしれないわ』


 この感じが続けば、祐太ともども壊れてしまう可能性が高い。


『いよいよ、限界かも…… ダメね、私って。やっぱり母親失格だわ。そんなのずっと前からわかってたはずじゃないの』


 何が正解で、何がダメなのか。自信を持てなかった。だから「自分で決めなさい」って突き放してしまった。優しさとか、物わかりの良さとか、そんな皮を被ってるだけの無責任な母親だ。


『でも、まだ間に合うことは、親としてやるべきよね』


 留学そのものは変えられなくても、少しだけ頭を冷やす時間を与えるべきだろう。


 翌朝、おそらくは一睡もできなかったと思える娘がダイニングテーブルにやってきたところで「聞きなさい」と娘に言った。


 細かく震えている娘を見つめて、心が痛い。


 ひょっとしたら、これは間違っているかもしれない。でも、このままでは壊れてしまうという危機感が「とにかく、これを言うのが親の役目だ」と決断した言葉。


「来月の共通テストまで、レッスンに行くのは禁止させてもらうわ。あなたにも言い分はあると思うけど、これは親として決めたこと。留学前に…… 親としてできる、たぶん最後の決定よ。先生への電話は、私からしておくから」


 娘の反論に身構えながら、一気に言い切った美紀は、そこで仰天することになる。


「おかあさん」


 いきなりしがみついてきたのだ。


「静香? 静香! どうしたの? ね? 静香?」


 ただひたすらにしがみついてくる娘。


 こんなの、いつ以来のことだったのか。


 オロオロしながら娘の背中を撫でるので精一杯だった。




・・・・・・・・・・・



 その時、静香のスマホに小さなウソが届いていたことを、二人とも、知らなかった。


 昨夜送られた「お帰り」と「お疲れ様」の雪だるまスタンプのすぐ次に、それは表示されていた。



「今日は予備校に行って勉強してくるね!」




 昼近くになっても、冬の光は温かさを届けてはくれなかった。  


静香が母にしがみついて、何を訴えたのかということは、現段階でコメント返しができませんのでご了承ください。


なお、祐太の送ったスタンプがすぐ上にあったと言うことは、静香からのメッセージも、そして祐太からのなにごとかも、なかったと言うことになります。

初めてのことでした。

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