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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
冬 12月~3月
135/169

第20話 くもをつかむ話

祐太がレイからの電話を受けた木曜日の夜。

レッスンからの帰り道のシーンです。


 疲れた。


 吐き気はあるけど、むしろ(こら)えてしまった方がマシだというのは経験から学んだこと。


 ふらふらの身体を引きずるようにして駅までたどり着く。電車に乗っても、ドロドロ感は変わってない。周りからジロジロと見られている気がしてしまう。


 汚物を見るような目を向けられている気がする。


 それなのに


  歌った疲労と充実感の心地よさが確かにある。


 それなのに


  汚泥に塗れた気持ち悪さに全身が浸かっている。


 それなのに


  回を重ねるごとに強まる子宮に残る残滓の埋め火が甘い。


 カオスを抱えてる。


 ううん。私自身がカオスそのものだ。


 汚泥の底に埋まっているのに、メッセージの世界には別の私がいる。


「今日も充実してたよ!」

「電車に乗った」

「今日は音域が広がったって言われたよ」

「悲しき朝も褒められた!」


 スタンプ スタンプ スタンプ


 楽しそうなスタンプを手当たり次第だ。


 ゆーへのメッセを打ち続けていた。


 最初の頃は「ゆーを安心させるため」だと思っていたのに、今は違う。


 メッセを一つ送る度に、心の中に温かいモノが生まれているのがハッキリとわかる。


 返事なんてもらえなくてもいいの。こうして、ひと言一言を送るこの瞬間の温かさ。それだけで良い。


『そんなの言い訳にならないのは知ってるよ。裏切っておいて、そんな自分勝手なことなんてない!』


 自分に言い聞かせているはずなのに、私の心は止まらない。


 捨てられて当然。ぶたれても当然。最低の女だと罵られて当然だ。


『でも、でも、でも、捨てられたくないんだもん。嫌われるのは仕方ないよ。でも、私のこと覚えてて。私がゆーのことを大好きでいるのは許してください』

 

 ワガママな私の本音だ。


 決定的な何かを間違えてしまった気がする。


 病室で快楽の嗚咽をあげる度に、そう思ってしまった。体と心が完全に別れてしまってる。


 歌の世界は、自分でもビックリするくらい広がってる。1回ずつ。レッスンを受けるたびに階段を上っている感覚がある。


 代わりに、今はもう食べ物の味も感じない。世界から色が消えた。


『眠る時も、ダメになっちゃった』


 ゆーに抱きしめてもらえる日だけ、ちゃんと眠れる。


 一人で眠る今夜は、きっと何度も何度もケダモノに嬲られる夢を見るに違いない。


 その度に目が覚めて、そのたびにゆーの写真を見て。


 そして、裏切っているのだという思いが黒い霧のように噴き出してくる。


 もう、一人で寝る時は部屋の電気を消せなくなってる。闇に引き込まれる感覚が襲ってくるからだ。


『そんなこと絶対に言えないよ。気付かれてもダメ』


 明日も、目の下にファンデーションを濃いめに塗らないと。


『ゆーの声を聞いて、ゆーの匂いをかいでいると、私は光の世界に戻れるのにな』


 手をつないでくれる時だけ、世界に色が戻ってくる。


 一緒に食べる時だけ、味がわかる。


『そんなこと、絶対に気付かれちゃダメなんだよ。だって、夢を叶える留学なんだから!』 


 あぁ、私はどこで間違えたんだろ。


 気付けば、ひっきりなしにメッセージを送り続けてしまった。


『さすがに勉強の邪魔になっちゃうよ。もうだめ、送っちゃだめ。でも、あと1回だけ。「駅に着いたよ」って。そう、心配しちゃうといけないから、これだけでもおくってしまおう』


 ホームに降りて、真っ先にメッセージを送ろうとした時に、レイさんから着信があった。


「はい!」

「あ、しずちゃん? ごめん、とつぜーん」


 どうしたんだろう? しゃべり方は冗談めかしているけど、声のトーンが違う。なにか緊張しているみたいだ。


「あのさ、明日、私日本に戻るんだ」

「え?」

「詳しい事情は会った時に話すけど、兄が自殺しちゃったの。それで帰ることになったの。ね、明日の午後、時間をもらえないかな?」

「え! お兄様が?」


 そうだったんだ。お兄様が自殺なんて。そんな大変なことがあったんだ。


「あっ、それは、あんまり気にしないでね。そこまで悲しんでないから。もう10年は話してない関係だから」

「でも…… ホントに、ご愁傷様です」

「ありがと。心配掛けちゃったね。でもね、その件もあって、ちょっと話したいことがあるの」

「明日ですよね? 日本に帰って、そんなにすぐ? 学校は午前中だけなので、時間はありますけど」


 ホントなら、ゆーも一緒に来てもらえると安心だけど、迷惑掛けちゃうから言えないな。 


「よかった。ね、それでぇ…… しずちゃんにはちょっと過酷なお願いをしたいの」

「えー 怖いです。なんですか?」


 怖いと冗談めかして返しつつも、レイさんのことだ、きっと大したことのない話だと思ってる。


「あのね、1時間で良いの。時間をちょうだい」

「ええ。もちろん、大丈夫です」


 ほら、やっぱり。どこが過酷なんだろ? レイさんに会うだけだよ。お安いご用。


「ただね、私と会うことを()に言わないでほしいの。お願い、一生のお願い!」

「え? ゆーに言ったらだめなんですか? あの、何かサプライズかなんかですか?」


 レイさんと会うのを秘密にする必要なんてない。ちょっと会ってくるね、で十分だし、悪く思うはずもない。


 じゃあ、なんで?


 ひょっとして、今の時期だとクリスマスのサプライズかなんかだろうかと思ったけど、まさかだよね。


 声のトーンが急に暗くなった。


「けっこう大事な話…… だと思う。今のあなたたちにとっては、とっても大事な話になるのかもしれないの」

「あの、いったい、どういう……」

「とにかく。あなたの学校のそばに行くわ。ゆーくんに怪しまれないで出るとしたら何時になる?」


 レイの声にこめられたのは、真摯な心配だった。


『これじゃ、彼氏の浮気を見つけた友人が忠告する時みたいじゃないの』


 そんな想像をふとしてしまって、束の間、自分のカオスを忘れていた。



・・・・・・・・・・・




 夢の中でも、歌っているときだけは輝いている私。楽しい。嬉しい。こんなに自由に歌える。透き通った世界だ。


 すべてが輝いてる。光に溢れるコーラルピンクの空気に包まれてる。


 不意に声が出なくなる。息ができない。


 歌うのをやめた瞬間に、怪物が襲ってくる。


 大型犬並のクモに似た何か。


 濁ったようなピンク色、青、赤、そして真っ黒なクモのような怪物達。


 こんな時だけ色が見える皮肉。


 一匹、二匹、三匹……


 数え切れないクモにグルグルと糸で巻かれて身動きできない。


 ただひたすらに悲鳴を上げているはずなのに、何も聞こえない。聞こえないけど、私は悲鳴を開け続ける。


 体中を囓り尽くされても痛みはない。代わりに自分が溶かされていく恐怖が襲ってくる。


 だけど、夢はそこで終わらない。


 いつの間にか巨大なモノに犯されている。


 体中を溶かされながら、身動きできないほどに糸で縛り上げられている私は、獣の姿勢で犯されてしまう。


 逃げなきゃ。


 恐怖と嫌悪で拒絶しているはずなのに、子宮の奥まで差し込まれた何かから強制的に汲み上げられてしまう快感が兆してしまう。


 どうしようもない快感。


「あぁああ!」


 目覚めて見回せば、私の部屋。煌々と灯る灯り。シーンと静まりかえる部屋。


 ハア、ハア、ハア


 寝ていたはずなのに、全力疾走した後みたいに心臓がすごい。


 時計を見ても、さっきと同じ。目を閉じてから1時間も経ってない。まだ、4時。


 パジャマがべたつくほどの寝汗。


「この時間なら、起きちゃった方が良いか」 


 お母さんを起こさないように気をつけながら、キッチンに立つ。


 野菜の皮を剥いて下ごしらえ。


「ゆーのご飯を作る時は、ちゃんと味がわかるんだよね。助かるけど」


 お弁当の用意をゆっくりと進めていく。


 我ながら手慣れてきたと思う。


『それにしても、レイさん、いったいどうしたんだろ?』


 お兄さんのことで急遽帰国して、真っ先に私に会いに来てくれて、話したいこと。


『しかも、ゆーにないしょだなんて』


 いったい、何があるのか見当もつかない。


 モヤモヤした感覚を胸の中に押し込みながら、鍋からアクをすくう。


「いっけない、ほうれん草もだよね」


 別の鍋に水を入れながら、料理の手順だけを頭に浮かべようとする。いくつものメニューを少しずつだ。


 意外と時間は掛かるし、なるべく音を立てないように気を付けないと、お母さんを起こしてしまう。




 でも、母が、そっと様子をうかがっていることに気付く余裕はなかった。




 

 

コーラルはcoralで「サンゴ礁」とか「サンゴ」ですね。ここにhが入ったchralだと「合唱の」という意味があります。 

いえ、だからなんだと言うつもりは無いんですけど。なんとなく。

夢の象徴性(「夢占い」ではない)で言うと、蜘蛛は「絡め取られ感」「複雑な人間関係」「夢や願望の実現」「孤独」「再生」と言って意味があるそうです。

まあ、分析する場合は、一つのキーワードだけではなくて、その前後関係から判断していくのですが。

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