第10話 汚れつちまつた哀しみに
中原中也氏の没後50年を経過したため日本国内では作品の全てが1987年以降パブリックドメインとなりました。
中也は、小林秀雄と一人の女性を争って負けたのは有名な逸話です。本話に引用した詩は、その時の思いを込めて作られたようです。
定職はないし、敵(小林)は東京生まれ、東京育ちの裕福な家庭に生まれた帝大(東大)生です。一方で、中也はその女性を放り出して遊び歩いていたのですから負けて当然。人間の大きさでも圧倒的に負けてます。同居していた女性は、小林と一緒に暮らすと言い残して出て行ってしまうのですから「完敗」でした。
病院を出ると外は真っ暗だった。
凍るように冷たい風。寒さを感じない。むしろ、もっともっと凍てつく風が吹けば良いと思ってしまう。
「何か送らないと」
気持ち悪さに負けている場合じゃない。もうすぐ7時になる。思ったよりも遅くなってしまった。心配しているはずだ。
こんな自分が心配してもらえるなんて間違ってると思う。
でも、違う。
「今は、心配してくれるゆーに感謝してるんでしょ? どれほど私がダメでも、今は、そこに甘えなくちゃいけないところだもん」
そうしないと、もっとダメな私になってしまうから。
自分を鼓舞する。
『レッスンだけを思い出すの!』
楽しかった。すごく充実してた。頑張ったよ。
そんな気持ちを奮い立たせてスタンプまで使う。
画面に落ちた小さな雨粒に、フリックまで邪魔される。そんな小さなコトで、泣きそうになってしまう静香だ。
だけど、メッセには愛情が籠もる。そんな資格がなくても、すがってしまう自分がいる。
一度、送ってしまうと、次々と送りたくなる。
『つながってたい。ゆーとつながってたいよ』
絶対に会いたくない。会えない。会う資格なんて無くしてしまった。そう思いながらも「会いたい」と打ってしまう文字を、何度も何度も消している自分がいる。
代わりに「礼佳さん」も来てくれたことを送った。
送った後で「あ、これ、アリバイにしようとしてるかも」と恥じる。
『違うよ、だって、本当にいてくれたんだもん』
誰に言い訳しているんだろうか?
いくつもいくつも送りながら、受験生が相手だと思い直して「返事は気にしないで」と付ける。
フラつく脚を堪えて地下鉄に乗った。
夕方のラッシュの時間も過ぎた師走の地下鉄は、つり革が全て埋まっている程度だ。
身体を縮めるようにして、できる限り人との距離を置こうとしていた。いつものマスクの上から、予備の不織布マスクを付けても吐く息が気になっている。
『私、クサいよね』
18年の人生の中で、体と心が一番汚れた日だ。服を着終わった瞬間から、ひどい吐き気がした。身体全体から腐臭を感じる。
エレベータホールで出迎えてくれた前沢さんの顔は、どんな表情だったのだろうか。
何か優しい言葉を掛けられた気もしたけれど記憶にない。自分が、それに答えられたかも覚えてない。
我慢した吐き気もエレベーターまでが限度だった。一階のトイレで2回も吐いた。
駅で、もう一度トイレに駆け込んでしまった。
吐いたのに…… いや吐いてしまったからこそ口の中に強烈な不快感が充満してしまったのだろう。
途中で買ったお茶で、何度も何度も口をすすいだがニオイが取れる気がしない。
むしろ、時間とともに、ますます異様なニオイが立ち上ってくる。電車に乗ってからは、口の中に横溢する生臭さが隣の人に気付かれるのではないかと怯えてしまうほどだった。
それが純粋な「ニオイ」の問題とは別だということは、ひょっとして静香自身もわかっていたのかもしれない。
体中を黒く染める強烈な汚濁感のせいだ。
地下鉄の温かな空気すら疎ましい。凍てついた風こそが、今の自分にはふさわしいと思ってしまう。
『こらえないと』
泣き出してし突っ伏してしまいたくなる感情と、人前で泣いたらダメだという理性が静香の中でぶつかっていた。
しかし、ただ苦しい、悲しいという気持ちだけではないのが辛い。
『なんなの、この感覚って!』
一言で言えば、混沌。
わけのわからないモノ達に飲み込まれた感じだ。
しかも、それが汚濁や屈辱だけではないのが厄介なのだ。
魂の底にレッスンの充実感がある。
それは真実。
確実に磨き上げられた音楽に研ぎ澄まされ、全てを浄化されたような感覚。磨き上げられた感性は、さらに次の音楽、もっと上のレベルをと貪欲な欲求を生み出している。
そして、厳しくとも手厚く指導してくれた先生への感謝も確実に存在した。
「先生は、本気だった」
世界で第一級の天才が静香だけのためにテキストを用意して、病室をレッスンルームに変え、助手まで探して待っていてくれたのだ。
これだけのことをしてもらえた弟子が、かつているだろうか?
その感謝の気持ちは本当に深い。
感謝と感激、そして自分が磨き上げられた感覚。
それが一番の大元にあるのは間違いない。
今日のレッスンは、間違いなく自分の音楽を磨き上げてくれた。
『でも……』
その後の感覚は、全てを投げ捨ててしまいたいくらいに苦しい。
本当に気持ち悪かった。
口の中も胃の中も、いや、身体のあちこちに、こすり落としても落ちない何かがこびりつている感覚がある。
実際に舌を受けた秘部や胸だけでなく、あちこちに唾液がこびりついている感覚も確かにあるが、それ以上のケガレた感覚が全身を覆っていた。
それは、すさまじい毒素に塗れた「ヘドロ」に浸かっている感覚に異ならない。
洗っても、シャワーしても、もう、ぜったいに落ちなくなってしまった何かなのだろう。
汚れてしまったのだ。
『それなのに……』
汚れてしまっただけなら、あるいは諦めが付いたかもしれない。
『私は、あんなになってしまった』
まだ、ふつふつと熱いマグマが湧き出すような感覚が子宮に残っているのが悔しかった。
信じられないほどに辛い。
まだ腰の奥が熱くなって、今すぐにシャワーを浴びねばどうにかなってしまいそうなふわふわした感覚が残っている。
思い出したくない。けれども子宮に刻まれてしまった感覚。
いつか、F市のホテルで教え込まれた感覚なんて子どものいたずらに過ぎなかったのだと思い知らされるような、高すぎる頂点。
『あんなになっちゃうなんて……』
自分は、なんと淫らなのかと思う。
心は拒絶していたはずだ。
快楽なんて訪れるはずがない。そう思おうとしていた。
けれども実際は、違った。まったくの逆だった。
拒絶したいはずなのに、巨匠の唇を求めてそこに押しつけてしまった。何度もだ。
あの瞬間を人生から削り取りたかった。
いや、危険なモノを感じていた。
恥辱の行為ですら受け入れて「頂き」を求めてしまった自分だ。もしも「本当に受け入れろ」と言われていたら、あの時、望んでしまったかもしれない。
『ううん、かもしれない、じゃなかったよね。きっと、私、お願いしちゃってたはずだよ』
自分に正直にあろうとすれば、それが答だ。
なんと言うことか。
事実、口の中を占拠したあの黒い凶獣を、最初は拒絶しようとしていたはずだ。
形だけは従っても、言われた以上にするものかと思っていた…… はずだった。
しかし、明らかに、自分は頂点を求めてしまっていた。
汚液が放出される瞬間だって、本当はわかったのだ。
大きさは違えど、祐太の時と反応は同じだったから。
わずかに膨らんだ瞬間に離そうと思えばできただろう。
けれども、白い波動に脳を焼かれてしまえば、自ら求めるように喉奥へとさらに押し込んでしまったのだ。
喉の奥で受け止めるのは、女としての自分の動きだったのだ。
何の言い訳もできなかった。
静香の中の「オンナ」がいつの間にか、喉奥へと受け入れてしまったのだから。
三度にわたり、汚液を飲み下した。
身体に受け入れた瞬間、子宮がどうしようもなく震えていたのを、自覚していた。
『わたしって、どうしようもなく淫らだったの? なんで、こうなっちゃったの?』
茫然としながら先生の嬉しげな言葉が頭に浮かんでいる。
「ふふふ。最初っからこれだけ楽しめるんだ。この先は楽しみだな」
『楽しんでる? そんなはず無い! 辛かっただけよ!』
そう言い切りたい。
しかし、それがウソだと静香は知っている。
もちろん「またしたいか」と問われれば、きっぱりと「したくない」と答えられる。だが「もう来たくないのか」と問われれば、考えてしまう自分がいた。
受けた指導は、確かにすごかった。先生が本気で自分を育てようとしてくれるのがヒシヒシと伝わってきた。
そんなことをしていただけるなんて、世界でも自分だけのはず。
『こんなことダメ。してちゃダメだよ。分かってる。でも、先生だって、私のためにあれだけのことをしてくれるんだよ? だったら、私だって、少しは我慢しないとだよね?』
レッスンは確かに素晴らしかった。しかし、ただそれだけではなく、あれだけ自分のためにしてくれたという感謝があった。
『私のために、お部屋だってピアノだって。それに礼佳さんまで呼んでくれて。どれだけ、私のためにしてくださっているの?』
それだけの恩義を受けたのだ。
自分の身体に、そんな価値があるのかと思うと、その引き換えに一時の汚濁を飲み込むくらい仕方ないのではないか?
我慢するべきだ。
確かに受け入れたい行為ではないけれど「我慢できたよね」と白黒で現れた自分が腕組みをして指を突きつける。
「世界は甘くないの。少しぐらい我慢をしなくちゃ。あんなに素晴らしいレッスンなんだよ? いくらお金を出しても手には入らない世界一のレッスン。先生がどれだけの手間とお金を掛けてくださってると思うのよ! 逃げ出していいいの?」
くなくなと、顔を振る。
先生は誠意を尽くしてくださってる。それなら、自分も誠意を尽くすべきだ。望まれているモノを返せるのかどうかもわからないけれど……
でも、と思う。
自分だけの屈辱とか、気持ち悪さなら耐えられるかもしれない。
「ゆー」
ホームからの階段を上りながら、切ない声が出てしまう。
自分は我慢できるのかもしれない。
「男の人にはプライドがあるわ。それは大事にしてあげないと」
レイさんの声が聞こえている。
自分はプライドなんて捨ててもいい。
でも、ゆーは違う。
『裏切っちゃった私には、何にも言う資格がないよ。だけど、今だけは騙させて』
それが、たとえ、おためごかしだとしても、これ以上の負担をかけちゃダメだ。
痩せてしまった顔を浮かべる。
留学するということだけでも、こんなにかき乱してしまったのだ。
『平気でいないといけないの。ゆーの前では「楽しかったよ」って無理やりでも笑わなきゃいけないの』
駅を出る。
目の前に淡雪がチラついていることに気付いた。
そっと手を伸ばす。
暗闇から、ふわりと降ってきた雪は掌に載った瞬間に溶けていく。
ふっと2年生の時に教科書で読んだ中也の詩を思い出していた。
「汚れつちまった悲しみに 今日も小雪が降りかかる」
そんな始まりだったはず。
「汚れつちまった悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる」
ポケットに手を入れながら、背中を丸めた静香は、ゆっくりと家に向かった。
・・・・・・・・・・・
汚れつちまつた悲しみに
中原中也
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
第二連まで引用
中原中也氏の没後50年を経過したため日本国内では作品の全てが1987年以降パブリックドメインとなりました。
中也は、小林秀雄と一人の女性を争って負けたのは有名な逸話です。この詩は、その時の思いを込めて作られたようです。
定職はないし、敵(小林)は東京生まれ、東京育ちの裕福な家庭に生まれた帝大(東大)生です。一方で、中也はその女性を放り出して遊び歩いていたのですから負けて当然。人間の大きさでも圧倒的に負けてます。同居していた女性は、小林と一緒に暮らすと言い残して出て行ってしまうのですから「完敗」でした。