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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
冬 12月~3月
123/169

第8話 レッスン



 控えのスペースから、にこやかに現れた人影。


 丸顔のショートヘア。


 チャーミングな若い女性だ。


「こんにちは」 

「こんにちは。しずかちゃん、初めまして」

「は、はい。そうです。あ、あの、初めまして」


 名乗ろうと思った矢先に名前を言われた。


「話題の歌姫にお会いできて光栄です。芸大ピアノ本科の4年生、中村礼佳(あやか)と言います。兄がお世話になりました」

「え?」

「あ、先にお渡ししておきますね。これ、お土産。お母様と召し上がってね」

「すみません。ありがとうございます」


 それは、よく知っている老舗和菓子メーカーの箱だ。


 途端にひらめいた。


「ひょっとしたらケイさんの妹さんですか?」

「さっすがぁ。一発ね。今までニューヨークにいたからオーティススの集まりにも顔を出せなくてごめんなさい。日本には、この秋に戻ったの。今回は兄に言われてアルバイトで来ました」

「え?」


  ケイさんは、オーティオススのチェロ担当。F市でも、一杯お世話になっている。気さくな人だけに、その妹だという礼佳さんも優しそうだ。


 そこに巨匠が口を挟んだ。



「残念ながら腕がこれではピアノは無理だ。かと言って、きちんとした音を使わずに練習などありえないから弾ける人間を探してもらったんだ。灯台下暗しってやつでね。聴いてみたが彼女はちゃんとしている。レッスンなら問題ないよ」

「私はラッキーだったのよ! 尊敬している先生のお側でレッスンに立ち会えるなんて。アルバイトどころか、お金を出しても、この役をしたがる人がいくらでもいると思うわ」

「早速だが、はじめよう。医者が許してくれたのは二時間しか無いからね。譜面はそこに用意してある。順番にやっていくぞ。今日は、10ページもできれば、十分だ」


 練習用に作られた譜面は分厚かった。全部、巨匠の書斎から持ち出した楽譜をコピーしたものらしい。


 指示されて、これを作ったのも礼佳さんだった。


「すごいのよ。先生は、お持ちの譜面のあらゆるページを覚えていらっしゃるんだもの」


 だから、私は言われたとおりにコピーしてきただけなのと笑う。


 巨匠が、自分のレッスンのために膨大な時間と労力を掛けてくれていることに身が引き締まった。これだけのテキストを静香のためだけに作り上げたのだ。巨匠の熱の入り具合が並々ではないことは歴然としていた。


 静香は唖然とするほどに感激していたが、実は「指揮」という夢を失ったSAKAIにとって「天才歌手を育てる」方向へと夢がシフトするのは、ある意味必然なのである。


 SAKAIの天才が、本気で一人の歌手を育てようとしていた。


 これも真実なのであった。


「さて、時間がもったいない。始めるぞ」

「はい」

「お願いします」

「そこに座るんだ」

「はい」


 ベッドの足下のスペースが指定された。テーブルとイスまで用意され、楽譜のコピーと白紙の五線譜が大量に載せられていた。


「最初は、聴音からだ。中村くん、頼むぞ」

「はい」


 始まった。


 レッスンの中身は以前とほとんど変わらない。

  

 だけど、思っていた百倍ハードだった。


 徹底的に厳しく、徹底的に厳密で、徹底的に揺らぎを無くすこと。


 基本、基本、基本。


 ひたすら、その繰り返しだ。


 結局、音楽の基本は正確さにあるのだ。


 その正確さという点で、以前とは比較にならないほど厳密になっただけのこと。


 ホンのわずかな音の揺らぎを見抜かれ、やり直しを命じられる。聞き分けなければならない音は複雑に絡み合って出題される。正解が出せても、一瞬ためらうだけで、やり直し。


 微妙な音の絡まりを、瞬時に、正確に、自信を持って解けるレベルを要求されていた。楽曲分析においては、即時に読み解いて答えねばならない。


 異常なまでに突き詰めていく厳密さと高度な理詰めの分析は、静香の才能をとことん信じている証拠でもあった。


「君は世界を目指すんだ。高みを求める人間は、求められるモノもそれだけ、高く、厳しくなるのは当然なんだ」


 時には、追い詰められて涙を浮かべる静香に、全くのためらいなど見せずに平然と追い詰めていく巨匠。


 そこにあるのは、世界最高を自負する人間が、自分と同等と認めるべき音楽人と「対決」している姿だった。


 明らかに要求水準が上がっていた。


 しかし、それは静香も望むところ。世界を目指すのだから、甘くないのは覚悟の上だ。


 涙をこぼしはしても、弱音は吐かない。


 try it again  もう一度だ


 try again  もう一度お願いします


 まるで真剣勝負のやりとりが、繰り返し、繰り返し、繰り返し


 納得できるまで、繰り返す。


 至高の音楽の世界へと、双方に鬼気迫るものが生まれていた。


「ごまかすな、バカ!」

「てきとーにやる癖を付けるんじゃない、ゴミだぞ、そんなヤツは!」

「カス! この程度で揺らぐな!」


 もう一つ、以前と違うことがこれだ。


 罵声に近い叱責が乱れ飛ぶ。そこにはエレガントな巨匠の語り口が全く見られない。


「音痴」「クズ」「ヤル気あんのか!」「手抜き!」「サボんな!」


 ギプスをはめたままの腕を時には振り回している。本人も、時折痛みが走るのか、顔をしかめて腕を押さえることも一再ならずだ。

 

 それでも、静香が少しでもためらったり、些細なことでも揺るがせれば、とたんに巨匠の忿怒(ふんぬ)が爆発する。


 もしも、まともに腕が使えれば、きっと手近なものを投げつけていたに違いなかった。


 その姿は、たとえるなら体育会系の三流指導者だ。


 根性主義で、ただひたすら罵声を浴びせる無能なコーチそのもの。


 ところが、激昂している巨匠の指摘はことごとく正しいのだ。


 音楽についての説明も理論的だし、時には楽器や作曲の歴史にまで及ぶ該博で深い知識に裏付けられた話は、目から鱗が落ちることもしばしばだ。


 超一流が三流の着ぐるみを着ている。


 着いていく静香からすれば、辛くないと言えば嘘になる。だが、どれほど厳しい指導でも受け入れることにためらいはなかった。自分が正しくあればいいのだし、厳しい怒りの言葉一つひとつが自分を成長させてくれるという充実感に満ちている。


 開始から、きっちり二時間。


 巨匠としては、ピアノを他人に任せているもどかしさを隠せなかったが、レッスンを受ける側にとって充実していることは間違いない。


 指導の言葉にオブラートがかかって無い分、音楽に対する情熱は圧倒的な圧力として静香を包んだのである。


『やっぱり、先生の仰ることは、すごい。こんなに()()()ようになるなんて』


 たった2時間でしかない。されど2時間である。


 天才・酒井光延の情熱を一身に受け止め続けるレッスンは、静香の中に眠っていた才能を刺激し続けた。


 教える側と教わる側の才能がガッチリと結びついたのである。


 これまでの人生で感じたことのない、レベルの高い感動と感激、そして、先生に対するひたすらの感謝。


 身体も頭もクタクタだが、静香の中の音楽が、今日だけで二つも三つも階段を上がった気がしてしまう。


『やっぱり、先生のレッスンは次元が違うんだわ』


 ノエルの言ったことは本当だったのだ。


 今までに見えないモノがハッキリと見えてくる感覚がある。


 静香は興奮せざるを得ない。


『先生は、私を違う世界に連れて行ってくださるんだ』


 そんな思いが静香の心を満たしていた。


 とはいえ、あまりにも厳密で執拗な指導のせいだろう。用意された分厚いテキストは8ページ分しか進まなかった。それをちょっと気にした静香の視線に気付いたのだろう。


「なあに、まだまだ時間はある」


 巨匠は気にも留めてない口調だ。


「どうしても間に合わなければ、毎日来てもらうようにすれば良いんだ。急ぐよりも正しくやっていこう」

「ありがとうございます!」

 

 そんな。これを毎日? いいの? 本当に? こんなに充実した時間が、毎日、与えられる!


 静香の心は躍る。


 自分が変わる。変わっていく。どんどん、高みへと導かれるという感覚。


 これを、毎日続けたら、自分はどうなってしまうんだろうか。


「今日一日だけでもずいぶんと良くなっているぞ。だが、ボクが教えたことを身体に染みこませ、刻みつけることが大事なのはわかるだろ?」

「はい!」

「ちゃんとついて来い。君もボクもお互いがもっともっと幸せになれるからね」 


 師匠も、弟子も、ご機嫌である。

 

 世界の酒井に「これだけ尽くしてもらった教え子」は世界に二人といないはずだ。


 レッスン中に礼佳の羨望の眼差しを何度も受けた意味が十分に理解できた。


「よし、レッスンはこれで終わろう」

「ありがとうございました」

 

 充実感。


 指の先から心の奥まで。自分が音楽の至高に一歩近づいた気がする。


 これで頭が下がらないわけがない。


 尊敬と感謝で胸がいっぱいだ。


「お疲れ様~」

「礼佳さん、本当にありがとうございます」


 ピアニストにも感謝の気持ちが素直に向く。


「ううん、そばで聞かせてもらったおかげで、違う世界なのがつくづく、わかっちゃった」


 笑顔で、肩をちょっとすくめてみせた礼佳の眼差しに、音楽人としての嫉妬が混ざっているのを、静香は気付かないふりをせざるを得ない。


 もしも自分が礼佳の立場であれば、きっと複雑だっただろうと思うからだ。


 譜面をサイドのテーブルに手早く揃えた礼佳は「お先に失礼しまーす」とそそくさと帰ろうとした瞬間に、静香はハッとした。


『レッスンが終わった……』


 礼佳の仕草は「ここからは邪魔者ですよね」と言いたげだった。


 あまりにもあからさまな姿は「これからのことを知っているの?」と疑わせるには十分。いや「これから、お楽しみですよね」と言っているのも同然だったのだ。


 この後に、起きること。


 考えないようにしていたことが、始まるのだ。


 ゴクリ


 自動ドアが閉まった瞬間、上機嫌な声が病室に響いた。


「スイッチが左上にあるだろ? そいつを切るんだ。鍵も掛けてくれ」


 まさに「待ってました」とばかりに指示が出る。


 待ちきれないという意志がハッキリと出されていた。


『いよいよなんだ……』


 身体が震える。


 奥歯を噛みしめながら「はい」と返事をした静香は、左上のスイッチを切り、回転式のラッチを回した。


 その背中に、巨匠の気さくな声が届いた。


「病室だからね、その気になれば外からでも簡単に開くけど、まあ、普通に返事をしている限りは誰かが入ってくることもないんで安心してくれ。そういう約束だからね」

 

 何が「安心」なのか、わからない。


「いや~ まだマスコミが狙っているかもしれないだろ? うかつな子を呼ぶなと止められてたんだよ。不自由してたしね。ここからは、お互いに楽しもうか」


 クリスマス前後は、仕事が立て込んでいる。東京への転院に合わせて、ノエルはヨーロッパへと戻っていった。


 代替品がいるなら、自分がこれ以上は必要無い。そんなことを前沢さんに言い残していったのだが、もちろん静香には伝えられてない。


 そもそも巨匠は静香を「代替品」などとは思ってない。


 むしろ、あの時のノエルに勝る素材だ。しかも、だいぶ若い。


『この年から仕込めば女としても超一流になれる。ま、とりあえず、ナカを見てみないとだが、男を知ったのは最近だろ? それなりに期待しても良いはずだ』


 18歳の少女を自分なりに育てようという意欲も十分なのだ。


 巨匠に言わせれば「芸術家にとって女は肥料」であり、逆もまたしかり。


 芸術家は、色々な経験を持ってこそ、成長できるというのが持論である。


 だからこそ、巨匠は臆面もなく言う。


「いよいよボクとの体験ができるね。成長するチャンスだ。いっぱい楽しんでくれ」


 好きでもない男に身体を捧げて、音楽が成長するはずがない。まして「楽しむ」なんてコトがあるわけないと思った。


 けれども真っ向から否定するわけにもいかない。


 曖昧に頷いて「ありがとうございます」と答えるのがやっとだ。


「じゃあ、さっそく始めようか」





R15が限界なので、明日の「そっち」のシーンは期待なさらないでくださいね。


※CAUTION※

次話(第9話)と次々話(第10話)は、ヒロインがかなり汚れます。

寝取られ度は危険な高レベルです。

ネトラレに耐性のない方は「お休み」でお願いします

第11話からお読みいただいても、話はつながります。


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