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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
冬 12月~3月
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第7話 ためらい


 病院へ行く前に、何が何でも家に帰らなければならなかった。


「頭の中をゆーだけにしておくの」


 さもないと、自分が保てない。


 明日のお弁当に晩ご飯、お掃除をいつして上げたら良いのか、夜食も作った方が良いかな?


 ゆーが好きなモノで、食べやすいメニューも考えなくちゃ。


 考えるべきことは山ほどあった。


 それでも、気が付けば、何度も呟いていた。


「ゆーの顔を見るのが辛いなんてこと、あるとは思わなかったよ」


 優しい笑顔を見るたびに、申し訳なさと後悔があふれ出す。でも、それを選んだのも自分なのだ。


 ただでさえストレスのかかってる時に、これ以上傷付けてはダメ。


『絶対に気付かれてはいけない』


 ただでさえ「留学」について心配してくれてる。ゆーは目一杯私のことも考えてくれるはずだ。もしも、ホンの少しでも「レッスンに不安がある」ってバレてしまったら……


『ゆーなら、きっと、ぜんぶわかっちゃうよ』


 子どもの頃からそうだった。


 何かで困っていると、どこからともなく現れて、何も説明してないのに全てを理解してくれる人。


 解決できることも、できない事も、全部背負(しょ)い込もうとしてくれるのがゆーだ。


『でも、今回だけはダメ。後でどんなに恨まれても、怒られても…… 嫌われたとしても、これを知っちゃったら負担になるだけだもん』 


 受験が終わった後ならまだしも、今は絶対にダメだ。


 ふっと、お風呂の中で話した時を思いだしてしまう。


『あの時の「行ってきなよ」は、絶対に私のことだけを考えてくれたんだよね? 私が不安にならないようにって。優しいゆーらしいけど、少しだけ悲しい顔をしてくれた方が嬉しかったのにって言ったら、ゼータクなのはわかってるんだけど』


 どうしようもない甘えだと知っていても、寂しさがあったのは事実だ。


『ゆーが優しく包んでくれることに甘えちゃってるだけだって、わかってるんだよ? でもさ』


 少し乱暴に肩を掴んで「お前はオレのモノだ。どこにも行くな! 音楽なんかよりもオレのそばにいればいいだろ!」なんて言ってくれるシーンを想像してみたくなる。


『思い浮かばないよ、ゆーのそんな姿』


 誰かに「そんな風に引き留めろよ」と言われても、きっと、ほっぺたあたりをポリポリしながら首を振るに決まってる。


 薄く笑いながら「女の子にモノとか言っちゃダメでしょ」と言うだろう。


 静香のことを愛しているからこそ、望むことをさせてあげたい、一人の人間として大事にしたいと思うのがゆーなのだ。


『そんなに素晴らしい人に愛してもらっているというのに、私って、ホントにひどい女。こんなに大切にしてくれる人を、自分の夢のために裏切っちゃうんだもん』


 たぶん「ごめん」という言葉を、最後の最後まで出せない。


 だから「レッスンが楽しみ、ワクワクしてる」という笑顔を、どんなにむりやりでも作り出さなきゃいけない。


『今は絶対に悟られないようにする』


 最大の決意だった。


 秘密を作るのは、自分が「汚れる」以上に辛かった。


 入念にシャワーした。


 そこから祐太の顔を浮かべるのが、さらに辛くなってしまう。


 この後にある、レッスンだけを思おうとした。


 でも、頭のどこかでイジワルな声が頻りに聞こえているのだ。


「なんで、シャワーしなきゃいけないの?」


「なんで、その部分を一生懸命に洗うの?」


「なんで、そんな下着を選んでしまうの?」


 もしも声に答えようとしたら、その瞬間から自分が一歩も動けなくなる気がしている。だから、声を無視して自動人形(オートマタ)のように何も考えずに動き続けるしかない。


「今日は、レッスンなの! 素晴らしい先生に見ていただける大切なレッスンなの!」


 自分に言い聞かせている言葉。


 本当だけれども、それはウソ。


 ウソだけれども、正論でもある。


 病院に向かう間、一瞬たりとも止むこと無く、声は聞こえ続けていた。


 電車を降りての道。


 切迫した声が響く。


「ホントに裏切っちゃっていいんだね? 今ならやめられるよ」


 その声を遮るような大きな声がした。


「ここでやめたら、何も残らないんだよ! 留学して、音楽の世界に行くんでしょ! 簡単に諦めたらダメ!」

   

 どちらも自分の声だった。


 遮るように別の声。


「シャワーしちゃえば、何も変わらないわよ?」


 たとえ洗ったって……


「レストランで出されるフォークは、見ず知らずの人が使ってるわ。洗ってあれば普通に使えるでしょ? まして、相手は見ず知らずの人なんかじゃなくて、世界で一番尊敬している人。何がダメなの?」


 レイさんは、きっと、当たり前のことのように言うだろう。微笑を浮かべながら。


「妊娠する可能性はまったくないのよ。尊敬する人と一緒に楽しむのがダメ? そんなことを言ったら、美味しいものを一緒に食べちゃダメかしら? テニスをしちゃダメってことにならない? 」


 違う、そんなことない! これは違うの!


 思いっきり反論しようとする自分がいる。


 しかし「何が違うの」とそっけなく返してくるイジワルな声に、反論できないのも自分だ。


 けれども、ゆーの顔がふわっと浮かんでしまえば、そんなヘンな考えはすぐに吹き飛ぶ。

 

『裏切るんだよ? ホントに良いの?』


 答えられるわけがない。だって、これは、間違いなく裏切りなんだから。


 血を吐く思いで「やっぱり、裏切れない」と言いかける静香の言葉は「そんなに簡単に諦めて良いの?」と遮られる。


 ノエルの声だ。 


『ガラス窓の世界に入るために全てを捨てる覚悟が必要よ。あなたはこの世界を知ってしまったんでしょ?』


 真剣な、あの瞳を思いだしてしまう。あの言葉にウソはない気がした。


 でも、本当にそうなんだろうか?


 目の前に、自分が現れた。 


『身体を代償にしてレッスンする意味なんて、ある?』


 ない、かも……


 それが一番怖い。でも、自分では届かない世界に行ってみたい。


『あの快感が忘れられないだけなのでしょ?』


 そうかも知れない。レッスンで垣間見ることができた世界。F市の大ホールで歌った、あの第三楽章に味わった、あの快感を、やっぱり忘れられない。


 あの世界に挑戦してみたい。


『ふふふ。バカね、そっちじゃないわ』


 え?


 もう一人の自分は腕組みをして、イヤらしい笑いを浮かべている。


『あっ!』


 「快感」の意味が、もう一つあることに気が付いた。


 とっさに「ダメッ」とかき消そうとして、子宮が蘇らせてくる、あの記憶。


 服の上から体中を這い回る手に焦れ、自らねだってしまった。その果てに与えられた紺碧の頂点。


 あれも、確かに快感だった。


 違う。あんなのじゃない。私が求めているのはそっちじゃないの!


 かぶりを振ると、さらに追い打ちの言葉が被さってくる。


『ホントは淫乱なだけじゃない? あれが忘れられないんでしょ?』


 違う!


 それだけは違う……


『音楽だろうと肉体だろうと、結局、先生が与えてくれる快感を欲しがってるのは同じじゃない』


 イヤらしい笑いは、冷え冷えとした笑顔へと変わっている。


 脚が震える。


 止まれば良いだけだ。


 まだ、引き返せるよ?


「でも、今の私は、これしか選択できないの!」


 苦しい。押しつぶされそうだ。


 突然、優しい声が響いた。


「行ってきなよ」


 この世で一番、優しく響く、ゆーの声だ。


「大丈夫、しーは先生の指導が必要だって思ったんだろ? それなら、オレは応援してるから」


 愛しいゆーの声。


 とても甘美な響きを持っていた。けれども、それに乗れるほど自分を信じられない。


 自分で自分がわからない。


 そうまでして世界に行くべきなのか?


 愛する人を裏切ってまで、知らない世界を見ようとするなんてダメなこと?


 何が正しいのだろう。


 世界が回る。


 ただ一つだけ間違いない真実があった。


 至上の音楽の世界を思うと足が止まらないと言うこと。


 いくつもの制止の声がする。


 非難、蔑みの言葉。自己嫌悪と理性の悲鳴。


 ゆーだけが微笑みかけてくれている。


 ダメだ。


 そんな自分勝手は許されない。


「ゆーを使ったらダメなんだから!」


 そんな資格なんて無い。自分が1番わかってる。


 あ……


 ふと気付けば、ホテルと見まがうばかりの入り口が目の前だった。


 余裕を持って出たはずなのに、3時ギリギリ。


 思った以上に時間がかかったのはなぜなのかわからない。


 ともかく、急ぎ足でお見舞い用の通路に差し掛かると前沢さんが待っていてくれた。


 F市の時と同じやり方だ。


 ただ、案内しながら静香を見る目が、もの悲しげに、あるいはモノ言いたげに見えるのは気のせいではないだろう。


 静香は知らんぷりをするしか無い。


『レッスンを受けに来たの。ただ、それだけよ』


 ひたすら自分に言い聞かせる。


 めったに付けないコロンが薫ってしまう自分が説明できない。


「一応、念のためよ」


 そんな風に呟いた自分がいる。


 とにかく、今日はレッスンに来た。ただ、それだけ。


 病室は今回も最上階。特別室だった。


「やあ! よく来てくれたね」


 上機嫌な巨匠に「こんにちは」と挨拶をした静香は目を丸くしてフリーズ。


 特別室の広い部屋の中でも一際(ひときわ)存在感を放つモノを見てしまったのだ。


『ウソッ、いくら個室でも、ここは病院なのに』


 ありえないモノがある。


「グランドピアノ?」


 スタインウェイの刻印がある。


 その刻銘があること自体で超高級品であることくらいはわかる。


 いや、問題はそんなことでは無い。そもそもグランドピアノを病室に持ちこむというのは、一種の暴挙ではないのか。


 驚きのあまり声を失った静香を見て、巨匠は上機嫌に言った。


「これは国内で手に入る一番小さいS155って奴さ。国内に在庫がなくって、北海道の短大に一つ眠っていたのをやっと見つけたよ。病院にも1日2時間だけという約束で許してもらったんだ。まぁ、代わりにリハビリで頑張る約束はさせられたけどね」


 はははと、快活な声で笑うが、その軽さとは反対に、そのピアノがとてつもない苦労の末に、用意されたことになる。


『私のために、そこまでしてくださるの?』


 静香が目を見開いている姿を、巨匠はいたずらっ子の目をして見ていた。


「ちゃんと調律もすませた。さすがに病室でやるのは初めてだって言ってね。だいぶ泣かせてしまったよ」


 巨匠の耳に適うまで厳密に行われたのだろう。音響などまったく考慮されていない部屋だ。巨匠に気に入られているような調律師でも悪戦苦闘したはずだ。


『あれ? 壁が?』


 気が付けば、病室の無機質な壁には、一面何かが貼ってある。


「ん? あぁ、これは音波の反射を制御する素材らしい。どうしても上手く行かなかったもんだから調律師が手配してくれてね。こいつを貼って調整したみたいだ。ま、これで音は何とかなったというわけさ」


『そんなことまで……』


 高校生の静香には、手間とお金が、どれほどかかるのか想像もできないが、途方もないものになるはずだ。


『本気でレッスンをしようとしてくれてるんだ』


 心の底からの驚きと、ジーンとした感謝の気持ちがわき上がってくる。


「あ、ありがとうございます」


 世界の巨匠が、自分のためにここまでしてくれるなんて。


 感動という言葉では全く足りてない。


 ありえないほどの厚遇だった。


「今日は手伝いを呼んであるよ」


 室内には、もう一人いた。



 モデルになっている病院は存在しますが、わざといくつかの病院の特徴を混ぜ、受付のシステムなども曖昧にしています。場所も厳密に特定できないようにしているため、矛盾が出ているかもしれませんが、お許しください。

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