第7話 父の名は 2
「いや、母親としてはあんまり自慢にはならないよ。世界中を飛び回っているからね。親子でも、あんまり会ってないんだ。あの人にとっては家族なんて二の次だからね」
苦い思いを口調に含めないように注意を払いながらの謙遜。子どもの頃から、母親の愛情など感じたことがないのは本当だ。母親は、子どもよりも音楽を取ったのだと光輝はずっと思っていたのだから。
「そうなんだ~ あれだけ活躍なさってらしたら仕方ないのかなぁ。今度はNYホールで『魔笛』だっけ? 夜の女王のアリア役ができるほどの超絶技巧を世界で認められてる人って少ないんでしょ。素晴らしい人だわ、酒井君のお母さん」
仕方ないの一言で、サラッと流されたのが胸にチクッと刺さるが、そんなことは小さなコト。静香が尊敬する「ノエル」が身近な人物だったという話は確実に興味を引けた。
身を乗り出してきた。
チャンスだ。
今なら、キスだってできそうな距離。
もちろん、そんなことをするつもりもないが、さっきまで感じていた心の距離が完全に埋まっているのだと嬉しくなった。
さぁ、ここからだとばかりに、光輝は言葉を続ける。
「そうらしいよ。それが終わったら、国立ホールでの公演も待っているしね」
近々日本に帰ってくる。久しぶりに母親に会う嬉しさよりも、うざったく思う気持ちの方が強いのが実際のところ。しかし、ノエルを否定すれば静香の不興を買う危険性がある。
「すごいよね~ ノエルさんの歌。憧れなの。あんな風に歌えたら、どんなに嬉しいんだろ」
目を輝かせて憧れを言葉にする静香。そこには一ミリのお世辞も入ってない。
静香がノエルに憧れているのは、前に聞いたことがあった。
ここまではOK。共通の話題ができると女の子は気持ちが近寄るよというのは恵のアドバイス。
「2人だけの秘密」が女の子は大好きだから、きっと二人の仲は縮まるよ。
恵の言葉がありがたい。確かに、縮まっている実感が湧いてくる。
『これも、みんなおメグが「カップルルーム」を提案してくれたおかげだよな』
二人っきりで話すことなど、こんなチャンスがない限り無かったはずだ。
『ここまではカンペキだよね』
予想通りの反応に、内心、ニヤけてしまう。
だが、大事なのはここからだ。
「で、さ、ノエルを世界の歌姫にしたのは誰か知ってる?」
自分の母親を捕まえて「歌姫」だなんて言うのはバカげているが、ここは静香の憧れを増幅させた方が良い。もちろん「歌姫」はあらゆる宣伝媒体に使われているノエルの代名詞でもある。
「あ! お父さまね!」
さすがに知っているらしい。
ノエルは大学生時代から名前が知られ、怜悧なまでの美貌と確かな歌の力で「将来を期待される美人ソリスト」と呼ばれた。しかし、裏を返せば大学時代までは「期待される」止まりの存在だった。
転機は卒業後すぐに訪れた。
光輝の父である酒井光延に師事することにより奇跡とも言えるほど力を付けたのだ。ファンの間では「進化」とまで言われた成長として有名な話だ。
二人は師弟の結びつきを愛に昇華させ、やがて結婚に至ったことも知られている。静香だって、もちろんちゃんと知っていたわけだ。
「さすが! そうなんだよ。父がね…… あ、えっと、絶対に他の人に言わないで欲しいんだけど」
「うん、大丈夫だよ。こんな大事な話、ペラペラ喋ったりしないよ」
「あのさ、父が僕の話を聞いてくれて、静香ちゃんの歌を一度聴いてみたいって言うんだ」
「ウソッ!」
思い切って「静香ちゃん」呼びをしているのに気付かないほどに驚いている。
無理もない。
酒井光延と言えば「ノエルを進化させた男」としてしられてはいるが、それ以上に、日本の音楽会の第一人者として知られている大物だ。世界にも通用する才能は「ウィーンフィルに一番近い男」として有名な指揮者なのだ。
巨匠という名をほしいままにする、現代の最も有名な音楽家と言って良い。
そんな人物が自分の歌を聴いてくれる?
静香でなくとも、興奮して当然のことだ。
『ク、ク、ク 効いてる、効いてる』
真面目な顔を崩さないようにするのに苦労するほど食いついてきた。膝が触れているのに気付いてないほど。
そんなにすごい人に、私の歌を聞いてもらえるの?
そんなセリフが頭に浮かんでいるのが光輝にも丸わかりである。
歌をやっている人間が、この巨大な幸運を喜ばないはずがない。ましてや、合唱命の静香にとって、これがどれほどの嬉しさなのか想像に余りある。
『これ以上のエサはないよね?』
内緒で、と言う条件もバッチリだ。酒井光延に歌を聞いてもらえるという話があまりに大きすぎる。「周りに喋らないで」と言うお願いは、カモフラージュとして良くできていた。
みんなに内緒の話は、おおっぴらに学校で話せない。
当然のことだ。
プライベートな問題だから、やりとりもプライベートなときにしてほしい。
当たり前だろう。
打ち合わせもしておいた方が良いよね?
これも、当然のことだ。
そんな理屈をすべて、静香はあっさりと飲んだのである。
その日から、光輝との個人的なメッセのやりとりが始まった。