第20話 それで良いの?
心に恋人の姿を呼び起こしているのを知っているかのように、ノエルはしばらく黙って見つめていた。
そして、小さくかぶりを振った静香を見定めて、ゆっくりと瞬きを二回すると、ちょっと口調を緩めて話題を変えてきた。
「公平のために言っておくわね」
「はい?」
「超一流の世界ってね、ひとたび知ってしまえば、もう戻れなくなるの」
「戻れない?」
「だって、暖かい部屋に入ったら、さむーい世界に出ていきたいだなんて、誰も思わないでしょ?」
窓の外のカラスに視線を送ってから、ノエルは優しい笑みを浮かべた。
「一度知ってしまった世界で味わう快感は、忘れられないのよ。私達は」
その笑顔には何のケレンミもなく、ただ仲間を想う友情に似た気持ちが浮かんでいるようにしか見えなかった。
「満足のいくステージを終えた後の満足もそうだけどね、それ以上に、あぁ、私は世界に必要とされるっていう自覚は強烈な魔力を帯びてるの。一流になればなるほど、食事から何から何まで、全てに気を遣うわ。時には自分の子どもすら捨てても、世界に音楽を届けることを優先したくなるの。明日、世界が終わってしまうとしても、今日、歌の練習を怠ることなどできなくなる。そんな人生が待っているわ」
美紀と静香は、それぞれの理由で息を呑む。
「あなたがSAKAIを選べば、待っているのはそういう世界よ」
ノエルは「だから、考えなさい」と続けた。
「人として、あるいは女としての平凡な幸せを選ぶのか。それとも、天が与えた自分の才能を最高に磨いて新しい世界に受け入れてもらうのか。選ぶのは大変だろうけど、才能のある人だけに与えられる最高のチャンスとも言えるわ」
優しい微笑みだ。
「さっき、彼は『もう振れない』って言ってたでしょ? 私達は車椅子でだとか言ったけど、あれは元気づけ以上の意味はないわ。だって、たぶん、彼が万全の指揮ができないって言ってるのは身体だけの意味じゃないんだもの」
「どういうことでしょうか?」
「指揮者は、楽譜と自分の中にだけ特別な世界を…… 音楽を作るんですって。それを現実の演奏と常に調整しながら作り込んで行くの。だから、たいていは指揮をしながら、ものすごく欲求不満になるらしいわ。だって、SAKAIが求める理想の音楽よ? そんなの、ぜったいに現実とは同じにならないもの」
「それは、そうかもですけど」
「でも、演奏する人達に…… そうねぇ、空を飛べない人に飛べって言っても無意味でしょ?」
「確かに」
「だから、目の前にいる人の全てを見極めるの。何ができて何ができないか。何が素晴らしいのかを把握し、予測する。その上で、何をどう我慢して、どう生かしていくかを組み立てていってる」
「オーケストラ全員分を?」
改めて言われてみると、途方もないことだ。
「当然でしょ。それが指揮者というものだもの。といってもSAKAIのそれは、普通のレベルを遙かに凌駕しているんだけどね」
それはわかる気がした。だからこそ、世界の巨匠なのだろう。
「ステージいにる全員の全てを最高のカタチで組み立て、単純な足し算以上の力を引き出して、自分の中にある音楽に近づけていくのよ。そのためには、理想との駆け引きをする忍耐力が必要になってくるわけ」
「あ! 理性が!」
「その通り。今のSAKAIは、理想と現実のズレを我慢しながら調整するだけの理性は無い。もしもタクトを持ってしまえば、現実の音楽は全部が不快なだけ。それは現実の全てを許せなくなるのと同じことになるはずよ。今の彼が、以前のような指揮なんてできるわけがないわ」
「なんとなくわかります」
「彼自身も、おそらく、そのことを理解しているんだと思う」
「ご自分の…… 後遺症のことを先生はご存だということなんですか?」
もしも、巨匠が「自分は理性が効かない」と知っているなら、ひょっとしたら、そこから話ができるかもしれないと淡い期待が生まれた。
「ちゃんとは知らないでしょうね。たぶん本能のレベルで理解しているって感じよ」
「指揮者としての我慢ができないと、本能で理解しているんですか?」
「そう。ただでさえ、タクトを持つのは、彼にとっての最高の喜びだし、同時に最高のストレッサーだったんだもの」
ハァと一つため息を吐いたノエルは、イタズラな口調になって言った。
「あのね? 結婚したばかりの頃によく使ってた、彼の得意のセリフがあるの」
「先生とご結婚された頃ですか?」
なぜか透明感のある笑顔を見せた。
「傑作なのよ~ 『いつも欲求不満なんだから美女と美食で補う必要があるんだ』ですって。新妻に対して、そんなことを堂々と言ってのけるんだから。まったく、夫として最低の人よね」
クスクスと笑って見せたのは、何を想ってのことなのか静香には想像できなかった。
「ところで、あなたの才能があれば、SAKAIがいなくてもある程度まで行けるわよ? 間違いなく日本で『人気のある歌手』くらいにはなれると思う」
「人気のある歌手、ですか?」
人気、なんてことに意味があるのだろうか? ノエルの口調も、まったく熱を帯びてない。これっぽっちも意味を認めてない証拠だ。
笑顔を抑えると「そうよ」と頷いた。
「一般の人から見たら、きらびやかで手の届かないスター。今だってそうでしょ? JK歌姫だっけ? 間違いなくスターよ。マスコミにもてはやされ、この間のコンサートみたいに、勝手に投稿された動画がたくさんネットに出るわ」
あの時は本当にすごかった。
数え切れないほどの動画が勝手にUPされた。どの動画にも「泣けます」「母の顔が浮かんだ」「兄の優しさを思いだした」といった追悼や感動のコメントが大量に付いていて、だんだんと嬉しさよりも戸惑いの方が大きくなっていった。
「この後も、何かが載るたびに、みんなが見てくれて、いっぱいコメントが付くでしょうね。「泣ける」「上手」「感動」なんて月並みなのが、ど~っさり」
小さく肩をすくめたノエルの口元に皮肉な笑いが浮かんでいる。
「そこそこのステージにもい~っぱいお呼ばれするし、みんながあなたの歌を褒めてくれる。保証してあげてもいい。あなたは、どんな先生に就いてもすごい歌手だと言われようになるわ」
ちっとも褒め言葉に聞こえない響きで一気に喋ってから「でも、そこに意味はある?」と覗き込んできた。
「意味、ですか?」
「そうよ。あなたは、既にガラス窓の世界を覗いてしまった。温かい世界を知ってしまったの。あるいは、外の世界の不快を知っちゃったと言い換えても良いけど。どう? 今の音楽のままで、あなたは我慢できるの?」
「我慢って言うか……」
考えたことがなかった。
「あの、第三楽章の、あの世界に届くかどうかは、あなたの選択と言うことになる」
微苦笑を浮かべてノエルは再び口を開いた。
「素敵な彼がいるそうね? ずっと前に息子が嘆いていたわ。好きな人には恋敵がいて、ぜんぜん敵わないって」
「そ、それはその」
どんな表情をして良いのか困りつつも少し嬉しい静香だ。
「気にしないで。息子は表面的には何でもできちゃうでしょ? 顔も頭も悪くないし背もある。歌もスポーツもそこそこだし、服のセンスだって悪くない。女の子にモテる要素をたくさん持ってるわね。でも、それだけの男でしかない。だから、あなたの彼氏に敵わないってことは当然ある」
母親として、ヒドく冷たい見方だなとチラリと思ってしまった。
「あなたはスターよ。ねぇ、スターって、星っていう意味よね? 夜空に高く輝く存在」
私が…… 星?
「空の上、高く輝く星よ、あなたは」
「いえ、私なんて」
「ううん。あれだけの人気よ。わかってるでしょ?」
黙らざるを得なかった。背筋を伸ばしたノエルが、ゆっくりと言葉を押し込んできた。
「あなたの彼氏さんは、あなたのところまで上ってこられるのかしら?」
「それは!」
「恋は素敵よ。とてもすごいエネルギーを持ってる。彼氏さんは、あなたのそばに行こうと必死になるでしょうね。でも、そのためには途方もない努力と運、そして才能が必要よ。彼氏さんは何か特別な人なのかしら?」
「と、特別です! 彼はすごいんです! 頭だって良いし」
ノエルの目が優しく自分を見つめていることに気付いた静香は、口を閉ざす。
「本当に彼氏さんが特別なら良いのよ。私の言葉は忘れてちょうだい。でも、もしもよ? 普通の人だったらどうなるかしら?」
このまま黙っちゃダメ。何か言わないと。
「でも、ゆーは…… ゆーはすごいんです! ホントに優しくて、頭も良いし、私のことをいっつも考えてくれて、いつだって励ましてくれて、私のことを誰よりもわかってくれて!」
優しい目が、うん、うん、と受け入れてくれることが逆に辛かった。
夢中になって「特別だ」と言いつのるのは、あなたが一番「普通さ」を理解しているからなのでしょ?
そんな言葉が伝わってくる。
「普通の人にとって、しなくても良い苦労でしかない努力を彼氏さんにずっとさせるの?」
そんなこと!
ゆーなら! きっとゆーなら大丈夫。私といっつも一緒にいてくれるんだもん……
「神様だか、天なのか、運命って言うのか知らないけど、私達には何かが与えられた。おかげで、人には見えないもの、感じられないものを手に入れることができて、大勢の人に何かを届けられる力を得たわ? その引き換えに何かを喪うということがあるのかもしれないって、私は思ってるの」
ノエルはひどく優しい表情だった。傷ついた子どもに手を差し伸べている顔だ。
「よほどの幸運と彼氏さんの強い想いがなければ、どのみち、あなた達は上手く行かなくなる。そんな遠い未来のことじゃなくよ? SAKAIがいてもいなくても…… だから、今回だけは、その人の存在を忘れて考えなさい。自分にとって何が必要なのかだけを考えるの。だって、あなたの人生なんだもの」
静香の耳には「努力を彼にずっとさせるの?」という言葉が反響してる。
いつまでも止まらぬ残響は、静香の頭からごっそりと大事なモノを消し去っていく感覚を生み出したのである。
・・・・・・・・・・・
そして、ここは祐太の部屋。
今、目の前で問題集に向かっている背中を静香はじっと見つめていた。
ノエルの言い分を聞いていると、芥川龍之介の「地獄変」を思い出してしまうんですよね~ 直接、同じことを言ってるわけじゃ無いんですけど。
今回をお読みいただいた後に
春の章 第16話「ヴィーナスとスミレ」を御再読いただくと、新たな発見もあるかと存じます。
あ~ 二人のお風呂タイムを早く書きたい。
祐太クンにもスッキリしていただかないと(^_^)
その後で静香の内面が描かれます。