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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
秋 10~11月
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第19話 警句

 美紀はひどく困惑していた。


『この子は、ノエルさんが言っていることがわかるんだわ』 


 呪詛(じゅそ)にも聞こえた、さっきの謎の言葉を娘は感覚として理解できたのだろう。


 しかし、困惑しているのは「娘が理解してしまった」ことではなく、その事実を自分までもがわかってしまったということだ。


 だからこそ、母親なのに言葉を挟む余地がなくなってしまった。


 男の本能を剥き出しにする巨匠の元へ娘を行かせるかどうかなんて、親として考えるまでもない。


 有り体に言えば「ありえない」の一言しかない。


 しかし元はと言えば自分はどうだったのかと、思い直さずにはいられない。


『普通の幸せが一番なのよ。女として、ヘンなことをしてまでなんて。いくら世界の巨匠であっても付いていく必要なんて無いわ』


 そんなの母親として、人として当然の考えだろう。


 しかし、持っている巨大な才能を、()()()()()()()と引き換えにしていいのかとノエルは問うている。


 それだけではない。


 ノエルは意識的に、普通の「母親」である自分にもわかるように説明を入れている。


「あなたの娘さんは、あなたが感じられない幸せを知っているんですよ」


 そんな言葉を突きつけているのだ。


「母親が娘の幸せのカタチを、普通だとか、当たり前だとかいう言葉で決めつけて良いの?」


 そんな風に問いかけられている気がした。


 思い返せば、こうなるはるか以前から美紀は悩んでいた。


『幸せになるならこうするべきだなんて、自分が言えるのか?』


 ノエルが突きつけた問いこそが、自分の過去を鏡にして突きつけられてしまうことになる。だから、なおさら真摯に受け止めざるを得なかった。


『私は、かつて、幸せのカタチを自分で選んだ。それは、世間から見れば間違っていたかもしれない。だけど、今、ここに静香が存在するのは、その間違っていたかもしれない選択の結果だった。それなのに、私は「平凡な幸せ」のカタチにすがって、静香に押しつけていいの?』


 平凡な幸せは大事だ。誰もがそこにすがろうとする。しかし、それだけで、人生を測ろうとしたら静香を否定することにならないか?


 美紀は自分自身へ問いかけ、答えを出したはずだ。


『こうするべきだ、なんて、私には言えない』 


 一方で、ノエルの言っていることは単純で明解だ。


「自分にとって必要な、一番欲しいものを選びなさい」


 これだけ。


 非常識ではあるけれども「欲しいものを選ぶ」という選択肢は、ため息が出るほどの正論だと美紀は認めざるを得ない。


 しかも、自分自身が「結婚できない相手の子どもを産む」という、普通なら幸せとは遠くなる道を選んでもいる。


『どんな口で言えるのよ。私は好きに選んだけど、あなたは普通の幸せを選びなさいだなんて』


 欲望を丸出しにする巨匠の姿を見たショックで「ありえない」と思い込んでしまった。だが、改めてノエルに問われてしまうと、少なくとも「自分には何かを言う資格なんてない」と思わざるを得なかった。


 茫然と見つめるしかなくなった目の前で、ノエルの問いかけが続いている。


「今のあなたは、才能があっても生かし切っているとは言えない。あなた自身が、それを感じてるはずよ」

「才能はわかりませんけど、もっと、上手くなりたいって思ってます」

「そうよ。私達は、自分が上手になるチャンスを常に求めてる。自分が変わることを求めてしまう」

「変わることを求める?」

「彼のレッスンを受けたんでしょ? ほんのわずかな間とは言え、あなたなら、直接の指導でわかったはずよ。あなたの中に何が起きた?」

「わたしは……」


 静香は「答え」を知っている。変わった。何かが変わってしまったのだ。


 それはハッキリと自覚している。ただ漠然と歌ってきた今までの世界と見える世界が明らか違ってしまった。まるで白黒の世界が天然色の世界へと変わってしまったほど。


 過去の自分の歌ですら、全く見え方が違ってしまったのだ。


「わかるわね? この先も先生について行けば、どんな世界が開くのか」


 SAKAIについて行けば、自分がさらに上の世界に到達できる予感が濃厚に存在していることは否定できなかった。


 あふれ出るほどに巨大な才能ゆえに「自分にはSAKAIが必要だ」というささやきが正解なのだとわかってしまう。


 自分の音楽が変わったことを誰かに喋ったことはないが、おそらくノエルの言っているのは、そういうことなのだろうと直感した。


 しかし、である。それを認めたくない自分がいる。ゆーの顔が初めて浮かんでいる。


 裏切りに他ならない。


 そんなの嫌だ。そんなのダメ。


 フルフルと顔を震わせる静香に、坂下先生の声がふと聞こえた気がした。いつかの進路指導室での話だ。


「……あなたは否応なく大人の世界に放り込まれる。高校生としての自覚を持っていてもね。好むと好まざるをというのが残念なんだけど」


 大人の世界に入るには、好きな人を裏切らなくちゃいけないの?


 頭の中に、イジワルなもう一人が囁いてくる。


「もう裏切ったことがあるんでしょ? いい子ぶっても、あなたは、とっくに裏切ってるの」


 違う、違う、違う、違う、これは違うの!

 

 何が違うとか、理屈なんてどうでも良い。私はゆーを裏切りたくない!


 悲痛な思いで言葉を押し出す。


「でも、世の中には、いろいろな先生もいらっしゃるし」


 静香は、正論を返すしかなかった。


「もちろん、SAKAI以外にも、あなたを一流の世界に導いてくれる人は沢山いると思うわ。どこかにね」


 ノエルの鋭い目は言葉とは裏腹なことを告げている。


「良い先生と出会えると良いわね? 技術だけじゃじゃなくて、相性みたいなものもあるし、導き方の特性もある。色々な指導者がいるわよ」


 無理だ、と言っていた。


「私だって、様々な先生に師事した。もう、それこそ必死になって探し回ったし、世界中を飛び回った。自分を変えてくれる人を探したわ。白黒の世界から救い出してくれる、私にとっての最高の指導者を求めたの」


 真っ直ぐに静香の目を見つめたままだ。


「今でも『もしもSAKAIと出会えなかったら』って思うと震えが出るわ。私の運命を変えた先生よ。あなたが私と同じ方向性の才能を持っているなら…… って彼は言ってるんだけどね? もしも同じ方向性なら、あなたにも同じことが言えるはずなの」 

「私が一流を目指すなら、酒井先生の指導が、最短、最善…… いえ、唯一だって仰りたいのですか?」


 ノエルは、それには答えなかった。涼しげに、背筋を伸ばしている姿は答える必要性を全く感じていないのだと宣言しているようだ。


 でも、ダメだ。それを選んじゃいけない。


『ゆー』


 恋しい人を頭の中で浮かべている。


 これを選んじゃダメ。


 ゆー 助けて!


 しかし、目の中に浮かぶ恋人は「それでいいんだよ」と優しく肩を抱いてくれる姿だった。




第8話「ピュア」より、美紀さんが静香に掛けた言葉を引用します。


「あの時の私は間違っていたわ。でも、後悔をしてはいけないの。ううん。むしろ、今は、あの時の私を褒めたいわ。だって、あなたが生まれたのだもの」


 「平凡な幸せを選べ」と母親として娘に言えば、自分がかつて「平凡な幸せ」を追わなかったから生まれた静香の存在を否定してしまうような気持ちになるわけです。


 いや~ この一言のための伏線は最初の人物設定のレベルから考えて参りました。本当に、ここまで長かったです。

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