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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
秋 10~11月
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第18話 ガラス窓の中

 微塵も笑顔も浮かべてないノエルは、追い込むように言葉を突きつけてくる。


「それは良かったわね。でも、よく思いだしてみて? あなたにとって不快な部分は全くなかった?」

「そんなの!」


 ないと言おうとした静香の目を真っ直ぐに見つめながら、ノエルの唇は呪文のような言葉を紡ぎ出した。


「第2楽章出だし。パーカッション。第2楽章3節。真ん中、アルト、テナー。第4楽章の最後、テナーとバス。アルトは逆」


 あっ……


 静香は息を呑んだ。


 目を丸くしてノエルの目を見返している娘を、美紀はわずかに細めた目で見つめた。


 静香の表情を見て、怜悧な美女は初めて本気の美しい笑顔を見せた。


「やっぱり。あなたにはわかるのね。もっと細かいところも挙げていったほうが良い?」


 いいえと静香は首を振るしかなかった。


 わかる。わかってしまった…… ノエルが何を言おうとしているのか。


 声が出ない。


 静香の表情を見定めてから、ノエルの目は美紀に向けられる。


「お母様も楽器をなさっていたからわかると思います。自分と回りがズレたり、ほしいところに音が来なかったら、あるいは、不必要に被せられたり、足りなかったりしたら、どう思うか」


 ドキ、ドキ、ドキ、ドキ


 心臓の鼓動が、強く響いていた。ノエルが「何」を言いたいのか、静香は本能で理解してしまっている。


『今のは、全部、少しだけ…… ホンの少しだけだけど、気持ち悪く感じた場所だ』


 ノエルは「もっと細かく挙げた方が良い」と聞いてきた。おそらく、自分が少しでも違和感があったところ、気持ち悪く感じた場所をことごとく指摘しようということだろう。


『わかっちゃった』

 

 唖然とした静香の顔を満足げに見つめたた後で、視線が美紀に移る。


「初めから、大きく失敗しちゃうケースは、実はあんまり問題が無いんです」

「え?」

「ほら、たとえば、老人ホームの慰問で一緒に歌ったり、そうね…… たとえば息子の幼稚園のお遊戯会。お母さんも一緒に歌いましょうって時は、何があっても楽しいし、音が外れてるかどうかなんて何も感じません。楽しさは別の種類のものですからね。でも、質の高い演奏の中にいればいるほど、私達は気になるんです」


 私達、というのは、静香と自分をさしているのだろう。


「ほら、例えばテーブルにコップがあって、これがあって、ってなったら、ちゃんとよけますし、乗り越えます」


 テーブルの上に左手を置くと、右手の指が、そこをポコポコと乗り越えていく。


「そういうものだ、と思えるから逆に気にならないんです。音楽は人間が演じます。機械のような正確さはありえまえん。それぞれの個性があるのが当然です。でも、その個性にも、いろいろあるんです」


 ノエルは、おもむろに折りたたまれた紙ナプキンを取り上げた。


 ペラペラと薄く剥がして、指先で挟んで振って美紀に見せつける。


「紙一枚の厚さなんてわずかなモノですよね?」


 指で挟んでこすってみせる。本当に薄い。


「指先だけで持てば、こんなものあってもなくても変わらない。どうってことないものだわ。でも、こうしたら?」


 ガラスの上にハラリと置いて、指を滑らせた。


「あんなに薄い紙も、ガラスの上に置くとこうなります」


 グシャ。


「せっかく滑ってきた指が引っかかって、とっても不快です」


 チラッと静香を見てから、ノエルは親密な笑顔を浮かべて「私達の感覚は、こうなってるんです」と言った。


 指先は紙ナプキンにつっかえ、めくれ上がっている状態だ。


「たった一枚の薄い紙。普通なら気にする必要なんてない。誰も気になんてしないレベルの違和感。事実、お母様は、あの演奏で気にならなかった。いえ、あれを聞いている大勢の人達は感じなかった」

「それは、その方が失敗したということですか?」

「違います」


 即座に首を振った。


「失敗は、いつだって、誰にだってあります。市民楽団レベルのオケですもの。失敗がないなんてありえない。先日のコンサートも、個人のレベルだと失敗した人は沢山いましたよ。さっきもいったように、コップもあれば手もあるんです。それは乗り越えれば良い。でも、さっき挙げたのは違うんです」

「失敗ではない?」

「そうですね。失敗とは言えない、けれどもわずかなひっかり。紙一枚の差です。気にする人なんてほんのわずかですが、お嬢さんは、()()()()不快に感じていたんですよ。私が不快だと感じたところ。みごとに一致したみたいですね」


 美紀は茫然として我が子を見た。


 小さく頷いている。


『この子は、本当にそう感じたんだ』


 自分には、ぜんぜん、わからなかった。


 それを見定めて、ノエルはキッパリと言った。


「お分かりにならないのは当然なんです。元々が微妙な違いなんです。しかも、はっきりした失敗も含めて、多少のことがあっても」


 一拍おいたのはわざとだろう。


「SAKAIの指揮ですもの」


 淡々とした、しかし自信に満ちた表情が「解説」している。


「何かあっても他とのバランスでカバーしてしまいます。普通の人にはわからなかったでしょうね。いえ、わかったとしても、そんなのどうってことないように聞かせてしまうのがSAKAIの天才とも言えるんですけどね」

「そんなことが可能なんでしょうか?」

 

 次に起きることが予想できない限り、今起きている、微妙な違いを他でカバーするなんて、どう考えても無理。


 しかしノエルはこともなげに「それがSAKAIのSAKAIたるところです」と言い切った。


「舞台で百人演奏していれば、それぞれが何を考え、何を恐れ、何をしたがっているのか、百通りの全てを掴み、次に何が起きるのかを理解しているのがSAKAIなんです。だからこそ備えられる。渾然一体となったオーケストラの奔流の中で、ミスをミスにさせない、あるいは、ミスすらも至高の音楽に近づける糧となるように指揮をしています。だからこそ、超一流と言われるんです」


 一つずつ丁寧に言葉を使って喋ってから、少しだけ皮肉な笑みを浮かべた。


「事実、私から見て、お嬢さんが感じた気持ち悪さを他のソリスト三人は感じてなかった気がします」


 紙ナプキンを持ち上げるとグチャグチャに丸めた。


「でも、私達は違うんです。静香さんは、こんな風にグチャグチャになった気持ち悪さを感じていたんです」


 再び静香を見つめてきた。


「今回のオケもソリスト達も決して下手ではなかった。アマチュアとして、むしろ、あのレベルまで仕上げたことは敬服に値すると思うわ」

「はい。みなさん、お上手だったと」

「あなた、本気で言ってる?」


 怒気すら孕んだノエルの言葉に静香は返せなかった。その怒気の意味がわかってしまうからだ。


 あの「不快」を知っていて、なお、そんなことを言うのかという、いわば「音楽家としての真摯な怒り」なのだろう。


 ノエルは、一度瞬きをした。


「第3楽章の第3節。あそこが一番良かったでしょ?」


 そう、確かに、あそこは全てが完璧だったと思う。身体が音楽に完全に溶け込んでしまった。


「ねえ? もしも、よ? もしも、全ての小節、全ての楽章で、あのレベルだったとしたら…… そんなレベルのステージで自分が歌うって考えてみて?」

 

 ゴクリ


 途方もなく気持ちが良いはずだ。考えただけでも鳥肌が立ちそうな快感の予感しかない世界。


「一流っていうのは、そういう世界よ。まして、超一流って言われる人達と立つステージは別世界なの。そういうステージを知ってしまうと、もっともっと、って求めたくなる。妥協なんてできないわ。だって最高の快感を知ってしまったんですもの。目の前にある快感を求めないなんてこと、できる?」


『最高の快感?』


 ふと、妙なことを思い出しかけて、慌ててかぶりを振る。


『ダメよ! こんな時に、変なことを思い出すなんて』


 思い出してはいけない記憶…… あの、ずっと焦らされたあげく自ら快感を求めてしまった、あの日の記憶を、慌てて打ち消す静香だ。


『あんなのと、音楽は違うわ』


 頭の中で、イジワルなもう一人の自分が「ホントに違うの?」と指を突きつけている。


 ノエルの声が淡々と続く。


「最高の場所に行くには、自分がその人達に認められるだけの実力とチャンスが必要よ。認められれば、美しくて心地いい音楽の世界に囲まれるわ…… そうね、それは、ちょうど、このお部屋と同じかもしれない」


 大きなガラス窓越しに、外をグルリと見渡した。


「大きなガラス越し。外から、このお部屋の中は全部見えている気がするでしょ? でも、外の寒気は一切感じられない、とても、とても不思議な別世界。見えているけど中に入らないとわからない心地よさ。そして、入れるのは限られた存在だけ」


 窓の外に一羽のカラスが見えている。チラリとこちらを警戒しつつ、地面をほじくり返していた。


 ノエルはカラスを見つめながら、淡々と言った。


「あの子は、ここが、どれほど温かくても、美味しいものがあったとしても入れないわ。でも、入れない不幸を知らない。だって、この中に入って来たことがないんだもの」


 小さく肩をすくめてみせるノエル。


「でも、もしも、こちらの世界を知ってしまったら、どうかしら?」

「ガラス窓の中を、ですか……」


 わかってしまった。言われていることが完全にわかってしまった静香は、言葉が出てこない。


 ガラス窓の中の世界の心地よさを、静香の中に眠る巨大な「才能」が直感させていたからだった。




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