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ただ、君を応援したかった  作者: 新川さとし
秋 10~11月
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第17話 サンルームにて

 今週で11月も終わりだ。


「受験前でも、しっかり期末があるなんて、考えてみると大変よね」


 総合型選抜で、事実上、合格をもらった静香は期末の勉強だけで良いが、祐太は、そうも行かない。


「ま、ほら、受験科目系の授業は、それなりに気を遣ってくれてるみたいだからね」


 フミ高の先生は、期末試験の範囲について「センターの過去問から出す」と宣言している。それに、極端に低い点数を取らない限り成績を変えるつもりはないというウワサだ。


 だから、最終成績を大学に提出しなくてはならない推薦系の合格組はしゃかりきに勉強し、受験組は、いつもの勉強に励むという構図となる。


 結局、祐太の勉強量は変わることはない。


 祐太が手を休める時を見計らって後ろから声を掛ける静香も、後ろのテーブルで問題集に取り組んでいることになっている。


『ちっとも、頭に入らないよ』


 祐太の背中ばかり見てしまう静香の頭に浮かぶのは、病室を出た後にノエルと話したことばかりだった。

 

・・・・・・・・・・・

F大学附属病院のサンルームへと時が戻る。




『人って、あんなに変わっちゃうモノなんだ』


 巨匠のあまりの変貌ぶり。


 以前よりも「軽い」感じになった巨匠は、良い部分も、悪い部分もある意味で劇的なほどに剥き出しだった。


 人は、何かしらを取り繕おうとするものだが、全ての虚飾を取り払うと、あんな風になるのだろうか?


 衝撃から抜けられないまま、静香達はサンルームに誘われたのである。


 大きなガラス越しの日差しが温かい。


 円形の小さなガラステーブルを囲むように美紀と三人で座る。左に美紀、右にノエル。


 専ら入院患者用になっているサンルームの午後は人もまばらで、話している声は他の席に届きそうもない。


 小さくともよく響く声でノエルは表情を変えずに切り出した。


「お分かりの通り、宅は全てにおいて理性の抑えが効かなくなっております」


 その顔は怜悧とまで言えるほどに整っている。まるで、最も美しい瞬間を切り取ってお面にしたような顔には微塵も笑みはない。


 もちろん、笑顔で話すようなことではないが、一切の表情を消しているせいで、静香には全く心がつかめなかった。


「お医者様の話では、たいがいの患者は、数年で症状が落ち着き、以前の人格が戻ってくるそうです。それまでは、できる限り感情を逆撫でしないようにして、無理のない範囲なら、本人の要望に応えてあげるのが一番良いと言われています」


 少しだけ柳眉を下げたノエルは「まるで赤ん坊です」と付け加えた。


 美紀は、そこに何かを言いかけたが、口をつぐんだ。


 何を言うのかはわかりきっていると言いたげに「そうですね」とノエルは頷いた。


「お母様の仰りたいことは、よくわかります。私はダメな母親ですが息子がいます。男女の違いはあっても、一応は人の親。ご心配というか…… 宅がお嬢さんに求めていることを考えれば拒否するのが当たり前です。同じ母親として、そこは完全に一致できると思うのです」

「ありがとうございます」


 しかし、ノエルの言葉には先があるのだと美紀は警戒を緩めずに聞いていた。


「一方で私は表現者の立場でもあります。お母様も音楽の世界をた(たしな)まれたことがあるとうかがいました。お嬢様には類い(まれ)なる素質があります。宅に言わせれば、私に音楽の方向性が似ていて」


 チラリと静香を見た後で「素質は私以上だそうです」とキッパリと言い切った。


「それは、持ち上げすぎでは?」


 美紀が出した言葉に、怜悧な顔は「いいえ」と左右に振られた。


「宅は、いろいろと問題のある男です。しかし世界のSAKAIは、こと音楽に関して本当に真摯なのです。音楽に関することについて、自分が信じてないことを他人に言うなんて絶対にないんです」


 皮肉な笑いが浮かべた。初めて表情を変えたノエルに美紀は鼻白む。


「私は夫としての彼をとっくに見放しております。結婚する相手としては最低の男だと思います。けれども、いち音楽人としては、いまだにSAKAIを世界で最も尊敬しております」


 ノエルの表情は再び、最も美しい顔へと凍り付く。


「彼が言うのですから間違いなくお嬢様の才能はホンモノです。それに、先日のコンサートを私も拝見しました。音楽の才能に関しては客観的な事実と見て間違いありません」


 キッパリとした断言。迷いも、よどみも全くない。


 整った目は静香を、あくまでもまっすぐ捉えていた。


「SAKAIはあなたを一流のソリストとして育てたいと言ってる。間違いなく、それは本心よ。あなたには才能があり、SAKAIはそれを磨いてチャンスを与えたいと思ってる。そして、その役割を果たすのは自分が一番ふさわしいとも思ってるの」


 これも事実よ、とノエルはこともなげに言った。


 美紀は、当たり前の反論をした。


「でも、先生は、()()だけじゃないですよね?」


 男として静香を要求しているのだ。許せるわけがない。


 母として、人として、反対するのは当然だろう。


 ノエルは、美紀の声をサラリと聞き流し、静香だけをまっすぐに見つめている。

 

「わかっていると思うけど、あの男はただでさえ女に目が無いし、今は赤ん坊並みに理性の歯止めが全く効かない状態よ。だから、()()は飲み込むしかないの。でも、逆を言えば、それさえ飲み込んでしまえば、あなたには最高の指導とチャンスが与えられる。最高のステージだって待っているわ」

「しかし、それは「黙って」」


 美紀が挟もうとした口を、ピシャリと遮断した上で美紀を見つめた。


「さっき申し上げたとおり、母親としては、あなたと完全に一致しています。いいえ、母親を百人集めれば、百人とも同じように思うでしょう。当然だわ。でも、だからこそ、本人に聞きたいんです」


 怜悧な顔に浮かぶのは、苛烈なまでの決意のようなものだ。


「あなたの気持ちを聞きたいの」


 ごまかしも、逃げも許さないという意志が痛烈に伝わってきた。


「どっちを選ぶ? 受けなくてもいいのよ。あなたが嫌なら、できる限りマイナスにならないように取りなすことは約束する。でも、SAKAIの与えてくれる世界はホンモノよ。今のあなたが想像できないほどの高みに導いてくれる。そして、そんなチャンスをもらえる人なんて、本当に一握りなの。あなたはそのチャンスを捨てても本当に後悔しない?」

「でも、自分で少しずつ努力していけば……」


 懸命に返そうとして途中で喪ってしまった静香の言葉を「そうね」と受け止めたノエル。


「普通は、みんなそうするわ。地道に努力する」


 小さくかぶりを振って、息を一つこぼした。


「私がSAKAIに出会う前はそうだった。一つずつ階段を上るように努力をしていくのもありだと思うわ。でも、それであったら、今の私はない」

「え?」

「もしも、私がSAKAIに出会った、あの日に戻って選び直せるとしても今と同じ道を選ぶと思う。たとえ破綻する結婚生活が待っているとしても、今の音楽を喪う方が怖いわ。だから、あの時と同じ道を選ぶ。絶対よ」

「同じ道を?」


 ゆっくりと瞬きをしたノエルは「今から言うことは、あなた自身が一番感じていると思うんだけど」と瞳を覗き込んできた。


 何を感じているというのか?


「この間のステージはSAKAIが全面的に音楽監督を引き受けていた。だから、確かに全体のレベルは高かったわね? あなたも、初めて、それなりの大人に交じったんだもの。楽しかったでしょ?」

「楽しかったです。とっても」


 それは簡単に答えられる。


 だって、事実だから。


 あんなに楽しくて、充実したステージは初めてだった。


 しかし、ノエルは、静香の目を真っ直ぐに貫いていた。






ノエルは静香を自分と同等の存在となるべき「仲間」と見なしています。だから認めた相手に、自分がSAKAIから得た幸福をきちんと説明しようとしているわけです。一方で「妻」として、夫への不満を持ち合わせているのは、巨大なアンビバレントかも知れませんね。


ノエルの衝撃的な話は続きます。

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