第15話 腕の中
茉莉視点です。
・・・・・・・・・・・
放課後になると、予備校の自習室に直行するのが茉莉のルーティンとなっている。今さら勉強して何になるのかという自問はさておき、とにかく、目の前のことだ。
明日の小テストの勉強をしている方が落ち着ける。
皮肉なモノで、学校を辞める決心をしてから成績が急速に伸びていた。
合唱部は休部した。雷漢先輩の顔を見る気まずさだ。坂下先生には「家の都合で」とだけ言ってあった。
茉莉の気持ちを大切にしつつ、何とか事情を聞き出そうとする坂下先生の優しさを突っぱねるのは胸が痛んだ。
でも、ここまで来ると、そんなことを気にしている余裕などないというのも現実だ。
「はぁ~ 限界ですよぉ。逃げる方法にも限度があるんだもん。父親はしつこいし」
母親が遅くなるとわかっていると、朝、登校前に「早く帰ってこい」と「命令」までしてくる。
そういう時は、ニヤニヤしながらスマホを弄ってみせるのが奴の手口だ。
何度も無視していたら、本当に、そっち系の掲示板に投稿されてしまった。海外のサーバーらしい。蹂躙されている部分が丸見えだ。
辛うじて顔にぼかしが入っていたが、ベッドの端に映り込んだ机は、見る者が見ればバレてしまうレベルだった。
「ボカしなしのほうがウケるんだよね~」
ゲスな笑いを浮かべてスマホを弄るのがお決まりのポーズだ。
修正前のひどい写真を、毎日のように茉莉のRINEに送りつけてきた。顔はもちろんのこと、蹂躙されている性器や揉みしだかれる胸がハッキリと写っているものばかり。
「言うことを聞かないと、次はこれを載せるぞ」
そんな圧力をかけているつもりなのだろう。
もちろん、茉莉が身バレすれば、義父も破滅だ。たぶん、そこまでの度胸はないと思うけれど、絶対にやらないと言い切れない分、キッパリと断るのは難しかった。
だから、三回に一回くらいは命令を聞くフリくらいはしなくちゃならない。
そして、予備校の自習室を使ってギリまで帰らない作戦も、直接迎えに来ることで、無効化されてしまった。
むしろ帰る途中の車中で、いろいろとさせられる。
これが、また辛かった。
家の中でできない分を車の中でやらせろと言うことらしい。
オモチャのように好き勝手に身体をイジられ、感じたくもない快感に喘がされる苦痛もそうだし、あの汚いモノを口にさせられれば吐き気がする。
妊娠の恐怖よりはマシだと思うようにして、辛うじて我慢の範囲内だと自分に言い聞かせるしかなかった。
『お小遣いを貯めに貯めて、貯金だっていくらかはできました。バイトの面接も決まったし、家から逃げ出した最初の1週間、ネカフェかカラオケに泊まるお金があれば、あとはなんとかなりますよ。あとちょっとの我慢です』
どうにもならない現実を知りながらも、もはや、これしかないと思い詰めている。とにかく、家出が何ヶ月できるのかわからないけど、一日でも長く家を出ていることで、父親も少しは考え直すかもしれないことに賭ける。
それでも、ダメだったら…… 生きている意味はない気がした。
今はまだ、死ぬのは怖い。だから逃げる。
『フミ高の生活も今週いっぱいですねぇ。せっかく入れたのに』
高校は辞めるしかないというのが結論だった。下手に学校に来れば連れ戻される可能性が高い。
何をどう考えても、続ける方法が見つからなかった。
「泣いちゃダメです。自分で決めたんだから」
一つだけ安心できるのは、あのファミレス事件で、事実上のお別れができたこと。あれだけヒドいことを言ったのだ。いくら、優しい雷漢先輩でも見放したはずだ。
既に、アプリその他は全部ブロックしてある。第一、GPSを調べられる可能性を考えるとスマホそのものが、ほとんど使えないだろう。
『どのみち、かけてきて欲しいのは雷漢先輩だけですけどね』
しかし、世界で一人だけつながっていたかった人が、追いかけてくるなんてないと確信していた。いや、そのためにこそ、頑張って来たと言っても良い。
『これ以上迷惑なんて掛けられませんからね。私の存在自体が雷漢先輩に迷惑なんです。こんな汚い身体で大事にされるなんて、あっちゃいけないことですから』
「浮気女」を振ってもらうだけ。二度と思い出したくないくらいひどい女だったって思ってもらう。
家出を実行する前に、ひどい女だと愛想を尽かされること。それが茉莉にとって一番大事なミッションになった。
『雷漢先輩は、すごぉく頭が良いですからね。下手なことをしたらぜったいに見抜かれちゃいますから』
夏休み中から考えに考え抜いて作り上げたミッションの一環で、大事な手帳に偽のマークを描くたびに泣きそうになった。辛すぎる。
「一度だけだけど抱いてもらえましたね。幸せでした』
たった一日だけ、本物のハートマークを描けた時の幸せ。それすらミッションの一環なのが申し訳なかった。
『ネットオークションで「陽性反応の出た妊娠検査薬」なんてバッチイ物まで買っちゃいましたからね。でも、あれのおかげで、雷漢先輩の周りの人達も完全に信じてくれてました』
作戦通り、抱いてもらえたのは嬉しかった。この後の人生でも、きっと、一番素敵な記憶にはるはず。
『ううん、それって、結局、こんなバッチイ身体なのに、一度で良いから抱かれたかったっていう身勝手なわがままですよね』
あの時の先輩は本当に優しかった。涙が出た。
『私が初めてじゃないって、きっとわかったはずなのに、それを責める素振りも、何かを探ろうとするカケラも見せなかったんだもん。代わりに言ってくれましたよね。今の君が好きだって』
あの時の全身を震わせる感動は忘れられなかった。
『危うく、全部喋って台無しにしちゃうところでしたよ。雷漢先輩って、本当に優しすぎです』
自分なんて、もうどうなっても良い。とにかく家を出る。何ができるかわからないけど、とにかく家を出る。自分さえいなければ、お母さんも離婚しなくて済むのだから。
現実問題として、今日の面接だ。
今のうちにバイトを決めてしまわないと、お金を手に入れる手段がなくなってしまう。幸い「文川高校です」って身分証明書を見せたら、お店の人が大喜びしてくれて、今日は店長と会って正式採用となる。
『あれなら、たぶん、大丈夫ですよね』
おそらく、今日は面接と言うよりもシフトの話や研修になるようなことをマネージャーさんは言っていた。
『ウチの学校の名前が、こんなにすごいっていうのを、最後の最後で、また実感しちゃいましたね』
部活に向かう、楽しそうで輝いている人達の流れを横切って、昇降口。
「茉莉ちゃん」
新井田先輩?
とっさに、表情を隠した。
『どうして? あんなことをしたんですよ? なんで、こんなに笑顔を向けてくれるんですか? 私、とってもヒドい態度を取りましたよね?』
必死になって「クズ女・モード」を作り出す。
「はーい。なんですかぁ。また、アレの話ですか?」
あぁ! 素敵な先輩に、また、こんな顔を見せなきゃいけないなんて!
「ごめんね。ちょっとだけ、来てくれないかな?」
「え~ 私、これからイケメンの彼氏に会わなくちゃなんですけどぉ~」
「お願いします。一生のお願い! どうか、来てください」
慌てた。
静香先輩が90度以上に頭を下げてる。
『やめて! 先輩がそんなことをしてくれるような人間じゃないんです、私は!』
心の中で悲鳴を上げながらも演技は崩せない。ちょっとでも崩したら、自分がどうなるかわからないからだ。
とにかく、この場を何とかしないと。
「まあ、いーですけどぉ」
「よかった」
「なんのよーじですかぁ。面倒だから、手術代は、もう、いいですよぉ」
「あの時はごめんね。でも、ちょっとだけ用があるの」
先輩は申し訳なさそうな顔をしつつ、用件は何も話してくれなかった。こうなったら、ともかく話を聞くしか無いだろう。
ひょっとしたら、本当の父親は誰っていう話の続きだろうかと考える。
『あの時、DNA鑑定のパンフを持って帰ったのは、わりと真実味があったはずですよね? さすが静香先輩です。あんな資料まで用意していたなんてすごかったなぁ』
あれのおかげで「托卵」を計っているっぽくできた。ナイスな資料だったと今でも感謝しかない。
『でも、お腹の子どもの父親の件を持ち出されたら、どうしよう? 援交でもしてたことにすれば良いのかな?』
しかし、それはそれで「元カノが援交してました」っていう汚点を雷漢先輩に付けてしまう気がして、ためらわれる。
『えーい。どこかの大学生ってことにしちゃいましょう。イケメンで、背が高い、スポーツマンの大学生ってあたりの話にしておけば、なんとかなります』
「ここよ」
「音楽準備室?」
「そうよ。あ、坂下先生には断ってあるから大丈夫」
なんで、こんなところ?
合唱部のない日だから、他に来る生徒なんて思い当たらない。坂下先生は、進路指導部だから、放課後は専ら進路室にいらっしゃるのだ。
誰もいない音楽準備室で、静香先輩が、いったい何の話をするんだろう。不安だ。
「映画なんかだと、中にオトコの人達がいっぱいいたりして? 途中で殺されちゃうモブキャラのレイプシーンって感じですよね~」
「さすがに、そんな準備はしてないわ」
先輩がそんなことをする人じゃないのはよく知ってるけど、これ以外の悪態が思いつかなかった。
鉄のドアを開けた先輩は、私を先に入れながら、私に目を合わせた。
「ただね、茉莉ちゃん、今のセリフだけど」
「セリフ?」
「あなたはモブなんかじゃないの」
「え?」
「ヒロインよ」
その瞬間、部屋の中から、グッと腕をつかまれた。
「え? え? え?」
男の人に抱き留められていた。
背中では、静香先輩が外からドアを閉める気配。
暴れなかった。いや、暴れられなかった。
だって、腕を掴まれた瞬間から、それが誰だか、直感的にわかってしまったから。
『力強くて、でも、つかまれる人のことをちゃーんと考えてくれる優しさがある掴み方をする人ですよね』
そんなことができる男の人は、この世にただ一人だ。
ギュッと胸に抱き留められる。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。仮面を被らなくちゃ。
「なんですかぁ、センパーイ。相手は妊婦ですよぉ? 誰でも良いから、もう一度ヤリたいとか言うんですか~」
ヤバい、ヤバい、ヤバい
このパターンは想定外。雷漢先輩に抱きしめられたら、私は私でいられなくなる。全てを委ねたくなってしまう。
ダメなの!
だって、雷漢先輩の手には、めいっぱい愛情が籠もってるんだもん。世界で一番、居心地の良い場所だ。
ダメ、これはダメ。
泣きそう。
『だめよ、茉莉! ここは、私なんかがいていい場所じゃないんだよ! 汚れちゃった女がいて良い場所じゃないんだよ!』
必死になって声を作る。
「センパ~イ。離してくださいよ~ も~ わかりました。ヤラせてあげますってば~ ヤリマンでもよければ、何回でも使っていーですよー」
できる限り冷たい声を出そうと思ってるけど、頭はパニック。
ダメだ。泣いちゃダメ、泣くな、私!
涙を必死になって隠している私の頭を、いつもの通り、言葉がいらないほどに優しい手がポンって。
『何も言うなって?』
雷漢先輩の手が「もう、大丈夫だぞ」って言ってる。
違う、違う、違う、私は違うの。優しくされて良い女じゃないの!
あぁ、なんて優しい腕の中なんだろ。
でも、ダメ、私は汚いんだってば! 先輩のそばにいちゃいけないの!
あぁ、でも、この腕でいつまでも抱きしめてほしい。
でも、ダメ、この優しさに包まれてはいけないの。こんなに素敵な人のそばに、私なんかがいて良いはずがないんだから。
『逃げなきゃ。あああ、力が入らないよぉ。このまま…… お願い、雷漢先輩、離して、で、でも、あと十秒だけ、ううん、三秒だけこのまま。でも、ダメ! 今すぐ逃げないと、私、溶けちゃうから』
必死の思いで自分の心に抗おうとした。
気持ちとは裏腹に、手に力が入らない。身体が「このまま胸の中にいたい」と叫んでる。
「先輩、離してくださいよぉ」
ダメ、このままじゃ、私、自分が保てない。
その時だった。
「新しい父親だろ」
ボソッと呟いた雷漢先輩の腕にキュッと力がこもった。
ウソッ! 知ってるの?
「らい、か、ん、せん、ぱ……」
その時、背中をトントンとされた。
全部分かっているよと、伝えてる。
「離れるな」
ダメだ、ダメだ、ダメだ。こんな優しい腕の中にいて良い女じゃないの。私は汚いんだから……
「任せろ」
あぁ、だめだ。私、溶けてしまう。堪えようとする前に、私の唇が勝手に言葉を押し出してた。
「いいんですか?」
言ってしまった。
私は、ここにいて良いんですか?
先輩のそばにいても良いんですか?
生きていても良いんですか?
頭の中に無数の言葉がフラッシュしてる時に、雷漢先輩の温かな声がした。
「当たり前だ」
優しい、優しい、ぶっきらぼうで、途轍もなく温かい声。
あぁ、私はなんてバカだったんだろう。なんで、先輩を信じなかったんだろう……
「ごめん、な、さ……」
「言っただろ? 今のお前が好きだって。全部、オレに任せろ。好きな女の子を守るくらい、させろ」
珍しく饒舌に喋る先輩の胸の中は、とっても温かかった。
私は「ありがとう」を言う前に、大声で泣いていた。
雷漢は極端に喋らないキャラですが、実はムチャクチャ頭が良くて、喋ろうと思えばいくらでも言葉が出てくるタイプです。中学時代に周りが自分の思考速度について来られないことに気付いてしまい、以後、喋らないキャラを作っています。