第14話 道が分かれてる
祐太は痛烈に、自分の恋人のスゴさを感じている。
『やっぱり、しーはすごいや』
静香が居たときは、なんだかんだと場を取り持ってくれていた。
しかし、昨日から巨匠の見舞いに出かけてしまった。おかげで、今朝は、ほとんど会話がない。
気まずさの塊のような家の中。
母親のことを拭い去ることなど、一生かかってもできそうにないが、かと言って、あの時にやってしまった子どもじみた言動を恥ずかしく思う程度には後悔している。
『オレは勇気が無いよなぁ。しーみたいに自分から解こうとはできないもん』
それでも、朝食に父親の分のハムエッグと味噌汁を作ったのは祐太なりの和解案でもある。
父親は「ありがとう」と「美味そうだ」とだけ、ポツリと言葉を出した。後は黙々と息子が作った朝食を食べた。
「東京の味噌は、辛口だったんだな」
ぼそりと言った。
「口に合わない?」
「あ、スマン、そういう意味ではないんだ。ずっと甘口の味噌に慣れてきた自分に気がついただけだ。美味いよ、これ」
父親は素直に謝った後で「母さんの味に似てきたな」と一声。
立ち上がると自分で味噌汁のお代わりを付けた。息子には、その表情から「美味い」を本気で言っているのだとわかった。
「徳島の雑煮は白味噌で甘いんだ。はじめて食べた時は、何かの間違いかと思ったよ」
祐太は、黙っている。
「でもな、近所のばあちゃんのも、職場の若い人のも、みんな甘かった。慣れると、美味いもんだぞ」
母が亡くなってから、正月にも四国の山間の村から帰ってきたことがない。しかし、なんとなく、父は一人でいたんじゃないんだということを感じた。
もちろん、この四年間、正月は新井田家で温かい正月を迎えてきた祐太である。
少しだけ、口元を歪めた父は、視線を宙に動かした。
「あれを食べたら、きっとビックリしただろうなぁ。隣の村だと、砂糖まで入れるんだ。はじめて食べた時は父さんも驚いたからね」
ビックリしただろう、というのが「誰」なのか。あえて聞きはしない。ただ、父の中では、まだ母が生きているんだということだけは伝わっている。
そこから、再び沈黙した父親は味噌汁を見つめ、何事かを考えていた。
祐太も、あえて何も喋らなかった。
結局、二人はほとんど話すこともなく食べ終えた。しかし、父親は食卓を離れない。何か話したいことがあるはずだ。
自然と、祐太も待った。
「そろそろ、大学は決まったか?」
「薬理を学びたいんだ」
「そうか」
母親の病気が頭にあった。
自分が画期的な新薬を開発できると思えるほど、自分の能力に自信は無いが、誰かの役に立てるのではないかという漠然たる期待から院へと進み、創薬の道を考えていた。
父親は、それをどこまで察したのだろうか?
「ホントは理二がいいんだけど、ちょっと無理っぽい。2次で古文が足を引っ張るだろうし。やっぱりさ、ホンモノの連中には敵わない気がする」
祐太だって、それなりに能力はあるし、自信もあった。
しかし、星のように輝く、ホンモノの才能を持つ人間を見てしまうと、自分とのデキの違いを思い知らされてしまったのだ。
フミ高には、そういうホンモノが何人かいる。
『連中にはマジで敵わないよ。ああいう連中が理三や文一に行くんだろうな』
実際に「本物」を目の前にし、一緒の教室にいれば、自然と自分の限界のようなものがわかってしまう。
『オレには、あんな才能、ないもんなぁ』
得意だと思ってきた勉強も、ここまで根を詰めると届かない部分が逆にハッキリする。東大を受けることを考えると、現代文はまだしも、過去問レベルまで古文漢文に手を回す余裕はないのが現実だ。
現役合格を目指す以上、東大の選択肢は、もはや考えてない。
「となると地方を受けるのか?」
父親の口調が心なしか速くなった。
「京大か北大、名大、それに漢方があるから富山もありなんだけど、さすがに偏差値70超えクラスだからね。確実に受かるっていう保証はないよ」
最近受けたドッキング判定でも、北大でギリAといったところだ。
「そうか。大学は君が思うところにいけば良い。将来は院に進んでも良い。金は心配するな」
コポコポコポと息子に茶を注ぎながら、一つため息を吐いた父は「実はな」と自分の湯飲み茶碗を抱えた。
「この部屋が官舎なのは知っているよな?」
国家公務員は転勤が多いだけに、あっちこちに、こうした「職員住宅として提供されている部屋」というものがある。一般には、借り上げ宿舎と呼ばれている。
父親の本省勤務が長かっただけに、祐太はここに住んでからの記憶しか無い。単身での出向中、家族は元の官舎にずっと住める決まりだ。
すばやく、祐太は察した。
「総務省を辞めるの? 今の村に住むつもりなんだ?」
この家を払って永住する決意を父親が固めた。祐太はそう受け止めた。
「今でも異例と言えば異例なんだが、5年以上も同じ地方に出向した例がないんだ。これ以上は無理だと、本省からはっきりと言われている」
息子の言葉に少しだズラして応える父親だ。
「ずいぶんとヒドいんだね。出向させておいて戻さないなんて」
「いや、何度も戻れと命令されて、それを断ってきたんだ。途中で、投げだすわけにはいかなかった」
ゆっくりと目を閉じた後、息子を正面から見つめ「すまなかった」と食卓越しに頭を下げる。
「今さら、何を」
「そうだな。今さらだ」
父親は、目を瞬いた。
「父さんは、この後の人生を黒山村の人達とすごそうと思っている」
「好きにすればいいんじゃない」
「すまん」
「いや、学費を出してもらえるだけで、ありがたいし」
「母さんも連れて行こうと思うんだ」
「え!」
「村の人達の好意で、さほど遠くない眺めの良い墓を手に入れたんだ。そこで一緒に暮らしたいんだ」
「いっしょ、って……」
曾祖父の運のおかげで、府中にある有名な霊園に古川家の墓がある。母親は一族とともに、そこに葬られていた。その遺骨を四国に連れて行くと父親が言っているのである。
墓参りが遠くなる、どころの話ではない。
「母さんを……」
また、母親を取り上げるのかという怒りと悲しみ、しかし、一方で「父親が、また母さんを必要としている」という嬉しさがないまぜになった祐太は言葉が出ない。
「それでな、もしも君さえ良かったら、こっちに来ないか? 薬学部なら徳島大にある。今、思っている大学よりはランクが下がるんだろうが、悪くない大学だと思う。村から通えないこともないが、大学のそばにアパートは沢山ある」
悪くないどころではない。
模試を受けるたびに志望校の3番目は「徳島大」と書いてきたのだ。真剣に、大学の中身も研究体制も調べてある。しかも、立地が、山間の村から車なら通えるところだということまで知っていた。
偏差値的には「滑り止め」として妥当な分だけ、秘密に気付いた教師はいない。唯一、静香だけが「あ、お父さんのところね」と一発で見抜いたのは、ナイショの話。
ともかく、祐太だけの秘密を込めた志望大学だった。
「偏差値的には滑り止めとして妥当だけど。今のところは受けるつもりはないよ」
あえて、素っ気なく言った。自分でもどう反応していいか分からなかったのだ。
「そうか」
そこから父は、何も言わなかった。
ただ、家を出るときに「君が地方に行くことをシズちゃんは、なんて言ってるんだ?」とまっすぐに聞いてきた。
「今のところは何も言ってない。なんとなく薬を受けることだけは言ってあるけど」
「そうか。お父さんは口を出さ…… 口を出す資格なんて無いが、二人できちんと話せよ。それだけは、少しだけ君よりも長く生きている者のアドバイスとして、覚えておいてくれ」
父は、その日の飛行機で戻ったのである。
飛行機が飛び立った時間は、ちょうど「ウィーン」への道を静香が突きつけられた時と同じだったことを、二人とも知らなかった。
祐太はフミ高のトップグループにいるため、東大を受験することは極めて現実的な選択肢です。ご存じかも知れませんが、祐太の言う「理二」とは、東大で薬学部が入っている「理科二類」のこと。数学の超絶な難しさはさておき、理系なのに2次でも古文漢文が必要です。祐太はラノベを書くのが趣味で現代文はそれなりですが、古文漢文を苦手としています。そのため、偏差値以上に「無理~」感が強いです。