第13話 約束
巨匠は嬉しそうだ。
「じゃあ、東京に行ったら世話をしてもらうのと…… ついでに、ウィーンに戻ってからも、お世話を頼もうかな」
え? と静香が思った以上に、室内の女性三人は驚いている気配だ。しかし、巨匠は、そんなことを歯牙にも掛けず、さっきよりも声のトーンが上がって、一転しての上機嫌を見せている。
「そうか、そうか~ 君がそんな風に言ってくれるなんて。うーん、最高だよ! それは何よりだ。それに、君が来てくれるというならリハビリにも励みが出る。大いに期待しちゃうからね!」
室内にいる女性全員が、それぞれの理由でギョッとした表情を見せたのだが、巨匠は一切気にせずに、ニコニコしながら言葉を続けた。
「ボクもそろそろ東京の病院に移るからね。妻も年末の仕事に向けて、あっちに戻らなきゃだし。ちょうど良いタイミングだよ。ぜひとも身の回りの世話をお願いしようかな。なあに、介護的な部分は、ちゃんと専門家を雇うから心配いらないさ」
ケガの介護ではない「お世話」とはなんなのか。
ケガ人としての介護は専門家を雇うと言っている以上、静香には「オトコの世話を頼む」と言っているのも同然だ。もはや「お世話」の中身を隠すつもりもないらしい。
ノエルはもちろんのこと、母子も前沢も、一様に困った表情だ。
しかし、四人の空気など頓着せず、巨匠は上機嫌。
「そう言えば、オーストリアの音楽院の話をしてたね。そろそろ決めただろ? あっちに住んでからも君にお世話してもらえれば、ボクもちょうど良いし。君も相談相手がそばにいることになる。うん。どっちにとっても実にラッキーな話だね」
「あ、あの、あなた」
一瞬、トゲのある目でノエルを見た後に無視を決め込むと、静香に笑顔を戻した。
「君は学校以外でもレッスンが受けられて、しかも、ボクがそばにいるからヘンな男も寄ってこない。もちろん、部屋代なんていらない。うん、それでいこう! ウィーンではボクの家に一緒に住めば良いさ」
妻は「え?」と声を上げ、母は目が点になり、前沢さんは額に手を当てている。
そして、静香は、目を見開いて巨匠を見つめ、息をするのすら忘れていたのである。
一人、巨匠だけが、嬉しそうな笑顔満面だ。
さすがに、美紀も答える言葉を無くしたらしい。
ノエルが、いち早く我れを取り戻した。
「でも、転院できるとも限らないし、時期だってわからないわ? あなたがウィーンのおうちに戻れるかもわからないわ? 音楽院の方だって、あちらのご事情も確かめてないのでしょ? あんまり、うかつなことを仰ってはダメよ。それよりもほら、都内で車椅子が可能になったら、あなたのお好きだった紀尾井町のレストランにでも行かれるんじゃないかしら?」
優しく、しかし、ピシャリとこの話を終わらせ、無理やり話題を変えようとした。
しかし、巨匠は「転院は来週だ。そんなのはオレが決める」と声がトゲトゲしくなり、あからさまに不機嫌となる。
「それに、オーストリア音楽院はフランツの奴が理事長だ。彼ならオレの言うこと受け入れないわけがないだろ? 君以来の逸材だって紹介する人間を受け入れないとでも? それとも、ケガをしたオレには価値がないとでも言いたいのか! 世界のSAKAIは、もう終わりだって思ってるのか!」
自分の言葉に興奮したかのように、どんどん激しくなる語気が醸し出す空気が病室を占拠する。
「先生、そんなことはありません。ただ、奥様はお身体のことを心配なさって」
前沢さんが、優しく、かつ懸命に取りなそうとした。
「身体がなんだって言うんだ。ただ、才能のある弟子をベストの場所に紹介するだけの話だろ。その程度のこともダメになるほど、オレは再起不能だと言いたいのか!」
「違います。先生、誤解です。奥様は先生の身体のことを」
「うるさい! よってたかってバカにしやがって」
「先生、そんなことはありません」
「誤解よ、あなた。ただ、あなたの身体が」
「いつからお前達は、オレの音楽に口を挟めるようになったんだ! オレが誰をどこに紹介しようと、お前達が口を挟んで良いと思っているのか!」
静香は唖然として、そのやりとりを見ていた。
『いったいどうしたの? 先生が、こんな物言いをなさるなんて』
かつて、見たこともないほどに傲慢な姿に戦慄する。これが「後遺症」なのだろうか?
巨匠は静香に視線を合わせた途端、笑顔に一変した。
「学校が終わった後にでも病院に来なさい。そうしたら、合間にレッスンができるだろ? ボクの世話も必要だけど、君にだって一日も早くレッスン再開が必要なんだ。そうだろ?」
静香は勢いに負けて「はい」と答えるしかない。
もちろん、大人三人は介入の言葉を探している。その空気を察したのか、またしても表情が険しくなる。
「なんだよ、静香ちゃんに世話を焼いてもらったら、何か困ることがあるのか?」
まるでワガママな幼稚園児のような口調で、一気に、不満そうにぶちまけてきた。
「なあ、前沢? 何か困ることでもあるのか?」
「先生、しかし、お医者様のご意見をうかがわないと」
何とか取りなそうと必死な前沢さんだ。
「大丈夫だ。医者だって、止めやしない。もう、リハビリの話になってるんだからな。それは、お前だって知っているだろ?」
「えぇ、それは確かにそうですが」
ノエルは、否定をしなかったのがお気に召したのか、巨匠が美紀の方を向くと一転して笑顔になった。
その変化の激しさはジェットコースターを見ているようだ。
「どうですか? はるばる、こんなところまで見舞いに来ていただいたんだ。東京に戻ったら、お嬢さんにボクのお世話を頼めますよね」
「えぇ、あの、この子も学校があるので、それとの兼ね合いもありますけど」
美紀は明らかに答えに困っている。本当の答えを、何とか覆い隠すのがやっとといったところだ。
「なあに、ずっといろとは言いませんよ。学校が終わった後にレッスンを受けるつもりで通わせて来ると良い。たとえ振れなくなったって、一応、世界の酒井と言われている男ですからね。レッスンだけなら、それなりのことがしてあげられますよ」
「ありがとうございます」
強引な話の持っていき方に、美紀は、そう答えるしかない。
『やっぱり、これが、前沢さんが言っていたことなんだ』
ケガをする前の巨匠が、絶対にしなかった権柄ずくの話し方もそうだが、なによりも、こんなにもコロコロと機嫌を変えるなんて常人のできることではない。「後遺症で性格が変わってしまったんだ」と確信した静香だ。
「ね? 静香ちゃん、悪い話じゃないだろ?」
「はい」
静香の立場で、これを今、拒否して良いモノかどうかがわからない。前沢さんも「合わせてほしい」と言っていたではないか。
静香は、無理やり笑みを浮かべてみせる。その笑顔がお気に召したのか「うん、うん」と嬉しげに頷く巨匠だ。
「よし、決定だね。じゃあ、転院が決まったら連絡するから」
「あなた「いいんだよ! 一刻も早くレッスンをしてあげることが大事なんだから。ボクのリハビリにもちょうど良いし。それとも反対する理由でもあるのか?」いえ」
眼光鋭く見つめた夫にノエルが美貌を下に向けてしまった。それを見て、ニコニコした巨匠は「そうだ」と言い始める。
「それでさ、例のオーストリアの音楽院の話。そろそろ向こうにも話を通さなきゃいけないんだ。次回までに返事を考えておいてくれ。まあ、世界を目指すなら、考えるまでもないと思うけど。君は世界に通用する歌手になるんだ。ボクと一緒に羽ばたこう」
「はい。ありがとうございます」
静香は、頭を下げるしかなかった。
いよいよ、決断の時なのである。
巨匠が美少女の弟子に「何」を求めてくるのか、ここにいる全員、よくわかっています。それだけに、妻と母親がいる前で、ぬけぬけと露骨な要求をしてしまうという「巨匠の状態」に、みんなが困り果てています。それだけ、深刻な後遺症を持ったとわかるからです。
なお「高次脳障害」の一つとして、感情を抑える力が極端に弱まり、本能が剥き出しの言動になるケースがあります。急性期を超えた方に発症した場合は1~2年程度の影響が残ります。多くの場合、少しずつ、以前の自分を取り戻せるようです。また、周囲の人は、本人の言動をなるべく「否定しないこと」が求められます。