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《二話》イケメン執事登場

「はぁ……」


 あたしはため息をつきながら、家庭科室横の先生控室を出た。なんだかよく分からないけど、ものすごく疲れた……。とぼとぼと靴箱に向かい、履き替えて校門に向かう。

 校門にたどり着いたところで、目の前にスーッと音もなく一台の車が現れ、目の前に止まった。

 ……長い車体っ!ということは、これは……う、噂のリムジン、というやつですかっ!? 呆然とその黒光りするボディを見つめた。

 ああ、人生で一度だけでいいからこの車に乗ってみたいと思っていたのよねぇ。こんな車に乗ることができる人、だれなんだろう。

 あこがれの視線でリムジンを見つめながら歩くために足を上げようとした瞬間、リムジンの扉が開いた。開くとは思っていなかったので驚いて片足をあげたままの恰好で固まった。

 扉が大きく開き、中からひとりの人物がゆっくりと降りてきた。紅黒色のつやのあるさらさらと流れるような髪、鉄黒色の吸いこまれそうな美しく太陽をきらきらと反射している瞳。普通なら浮くような光沢のある黒いシルクのロングタキシードを完璧に着こなしていて、リムジンをバックにして一枚の絵のようだった。

 うっわー。世の中にはこういう人がいるんだ……。

 先ほどまで一緒にいた立花先生のダサくてイケてない恰好を思い出し、あまりにも対照的すぎてぽかん、とまた間抜けに口を開けてしまった。そしてその人物は扉の横にピンと背筋を伸ばしてこともあろうことかあたしを見て、とろけるような極上の笑みを浮かべ、にっこりとほほ笑んできた。

 あたしは一気に頭に血が上ったのを自覚した。そして、顔がとんでもないほど真っ赤になっているのも分かった。

 わっわっわっ! そ、そんな素晴らしい笑みで見ないでっ! 恥ずかしいじゃない。

 恥ずかしさのあまり、思いっきり顔をそむけ、歩き出そうとして片足を上げたままになっていることに気がつき、前に踏み出そうとしたその時。


「千代子さま、お迎えにあがりました」


 紅くつややかな唇からテノールの声が発され、右手をおなかの前九十度で折り曲げ、深々とお辞儀をされてしまった。

 すごーい、お迎えだって。

 だれを?

 きょろきょろとあたりを見回したけど、下校の波はすでにおさまっていたようで、周りにはだれひとり、いなかった。

 ……ん? 今、「千代子さま」と言われなかった?

 千代子……。

 ああ、あたしか!

 普段、「チョコ」と言われているから下の名前できちんと呼ばれ慣れてないから一瞬、だれかと思っちゃったー。あはははは。

 って。


「ええええええっ!?」


 ちょっと待って! お迎えって、だれをっ!?


「千代子さま?」


 周りから見ても笑えるほどあわててわたわたとかばんを持っていない左手を振りまわした。


「あああああ、あたしですかっ!?」


 こんなリムジンにイケメンなんて知らないよ!? どちらさまですかっ? というよりも、人間違いではないのかしら?

 そうか! 間違ってるんだ、この人。


「あ、あの。あたし、確かに千代子ですけど、間違いではないですか?」

「都千代子さま、ですよね」


 深々と下げていた頭をあげ、またあのとろけそうな笑みを向けられた。紅い唇から発せられた名前はまぎれもなくあたしの名前、ですけどっ!


「たしかにあたしの名前は都千代子ですけど……。ど、同姓同名のどなたかと間違えてないですか!?」


 都、なんて名字が珍しいのは知っているけど、それでもそうとしか思えなかった。ましてやあたしの年代で「子」がつく名前の子なんて「生きた化石」レベルの珍しい名前なのも知っている。


「お父さまは雅史まさしさまでいらっしゃいますよね?」


 間違いなかったので無言でうなずく。


「それでは、間違いではありません。千代子さま、ご自宅までお送りいたします」


 そうして再度、美しい動作で深々とお辞儀をされてしまった。……えーっと、誘拐、っていう線はなし?

 あたしの父・都雅史は『橘製菓』という大手のお菓子メーカーに勤務していて、若くして部長の座についたほどの切れる人、らしい。ライバルがその父を蹴落とすためにあたしを誘拐……って、どこの社長令嬢よ、あたし。たかが部長クラス相手にそんなこと、しないよねー。

 そんなくだらないことを一瞬で考え、こんな金と手の込んだことをたかだか部長クラスの娘にするわけないか、と思い至り、リムジンに乗ってみたい、という誘惑に勝てず……扉を開けてどうぞ、と中に乗るように促され、素直に乗り込んだ。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+


 リムジンの中は、素晴らしかった! ここが車の中なのか!? と思うほど居住性の高い空間で、冷蔵庫やテレビまでついていて物珍しくてきょろきょろと行儀悪く見て回った。


「千代子さま、お車をおだししてよろしいでしょうか」


 落ち着きなく見て回っているあたしに遠慮がちにそう聞いてくる声で現実を思い出した。


「す、すみません!」


 驚いて手短なシートに腰を下ろした。革張りのシートは思っていたより座り心地がよくて、心は浮かれまくっていた。座ったことを確認して、運転手に車を出すように合図をした。車はすべるようにゆっくりと走りだした。

 先ほどの人物はあたしの前に片膝を折って座り、


「千代子さま、はじめまして。わたくし、本日から千代子さまの執事を勤めさせていただきます」


 とまた丁寧にお辞儀をされてしまった。

 ……執事っ!? 羊の聞き間違え? いやいやいやいや、そっちの方がおかしいでしょう、羊、の方が。


「し、執事って」


 待って。

 わが家は母がいない、ということ以外は一般的な家庭ですよ? 学校からほど近く、駅まで徒歩五分の好立地なマンションに住んでいる、本当に一般庶民ですよ? そんな家庭のわが家のどこに執事を雇うだけのお金があるっていうの? お父さん、そんなに高給取りだった? つい最近記帳したばかりの通帳の数字を思い出し、それはありえない、と考え直した。

 それとも、お父さんったら別口座を持っていてあたしに隠しているのかしら? そんな面倒なことをあの父がするわけないわよねぇ……。

 あたしは目の前にひざまずき、お辞儀をしている人を見てからあるひとつの可能性に思い当たった。


「これってもしかして、ドッキリカメラ?」


 どこかに隠されているカメラを探そうと立ち上がろうとした時、目の前の人物が素早く立ち上がり、あたしの身体を押さえて真横に座った。


「!」

「座ってないと危ないですよ」


 先ほど見せたとろけるような甘い笑みではなく、少し意地悪そうな危険な色を帯びた笑みであたしを見ている。……顔が超近いんですけどっ!! 顔に息がかかるほどの近さで顔を寄せられ、息が止まるかと思った。というよりはあまりのことに息を止めていた。


「わたくしのことは『ナッツ』とお呼びくださいませ、千代子さま」


 ……ナッツって。

 ナッツさんはずっとあたしに顔を近づけているから、その間ずっと息を止めていた。く、苦しい……!


「千代子さま、そのまま息をしなかったら死にますよ?」


 ナッツさんはわざと顔に息がかかるようにそう囁き、意地悪な瞳で見ている。息が苦しくなり、顔をそらせれば息ができる、ということに気がついてナッツさんの身体とは反対側に顔を向けて大きく息を吐いた。あたしを殺す気かー! 肩で息をした。

 それがおかしかったのか、ナッツさんは面白そうにくくく、と笑っている。面白くともなんともありませんっ! 横目でちらり、とナッツさんを睨みつけた。

 ナッツさんはそんな視線なんてお構いなしにさらに身体を密着させてきた。

 ちょっと待て! それは近すぎる! くっつきすぎでしょうっ!?


「なななななな、ナッツさん!」


 動揺しているのが面白いらしく、ナッツさんはさらに近づき、身動きできないようにがっちりと身体をガードして顔を近づけてくる。鼻先すれすれのところにナッツさんの紅くて形のよい唇があり、またもや息を止める羽目に陥った。年頃の乙女になんてことをするのよおおおお!


「千代子さまは甘いにおいがしますね」


 鼻先でそんなことを囁かれて、顔にかかる息に心臓が止まりそうになった。セークーハーラーだー!

 どうにかしてこの状況を逃れたくて動こうとしたけど、なにがどうなっているのか、身体を動かすことができなかった。下手に顔を動かせないから分からないけど、感覚だけで語ればナッツさんの足が太ももに乗ってがっちりガードされていて、両手首を掴まれていて顔の真正面にナッツさんの顔がある。これってどういう状況よ!?


「な、ナッツさんっ!」


 あたしは再度、呼び掛ける。ナッツさんは呼び掛けに目線を下に下げてくれた、ようだ。


「あの、動けないのでどいていただけますか?」

「いやだ」


 いや、ってちょっと、あたしだって嫌よ!


「苦しいんですけどっ!」


 あたしの言葉なんて聞いてないようで、ナッツさんは肩口のあたりに鼻を寄せ、くんくんとしている。微妙にくすぐったくて身をよじった。ナッツさんがそうすることで必然的に顔の前にナッツさんの肩が来て、ふわり、と香水のいいにおいが香ってきた。

 えーっと、このにおいは……。

 うん、分かんない!

 香水の匂いが苦手だからつけないし、父もお菓子を扱っている関係でお菓子ににおいが移るから、とつけていなかった。だけど、苦手だと思っていた香水もこれくらい近寄らないとにおわないくらいのさりげない……。

 ちょっと待て。だーかーらー。なんでこの人はこんなにあたしに急接近しているわけ!? 香水のうんちくなんてどうでもいいから!


「ナッツさん! 近すぎです! 離れてくださいっ!」


 悲鳴に近い叫び声にようやくナッツさんは離れてくれた。


「チョコちゃん、せっかくいいにおいだったのにー」


 さっきとキャラが全然違いません?

 胸の前で手を合わせていやいや、と身体を揺らしているそのしぐさが妙にかわいくて、少しキュンとした……と言ったら朱里に笑われるかな? いや、だけどこの人いきなり急接近してくるような変態よ? そんな相手に萌えるって、朱里じゃないんだから!

 さらに疲れて、せっかくのリムジンだというのにぐったりと座っていることしかできなかった。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+


 ようやくわが家にたどり着き、車から降りようとしたらナッツさんに止められた。


「千代子さまにドアを開けさせるなんて!」


 制止され、しぶしぶまたシートに座りなおした。ナッツさんはドアを開け、先に降りてから


「どうぞ」


 と声をかけてきた。

 かばんを探したけど、すでにナッツさんが持って出ていたようだった。なので手ぶらでリムジンの外に身を乗り出した。ナッツさんが手を差し出してきた。

 ……なんだか今日は男の人にこうやって手を差し出されたり握手を求められたり慣れない状況下におかれることがあるんだけど、なんだかおかしくない?

 そもそも普段から同性である女の子に触れることもめったにないというのに、異性と今日は身体を密着されたり! ……思い出しただけで赤面してしまうわ。なんなのよ。戸惑っているとナッツさんは強引に手を掴んできた。


「だあああ! あたしに触るなあ!」


 握られた手を思いっきり振りおろし、手を離させた。


「千代子さま、レディとしてですね……」

「あたしはレディではないわっ! 一般庶民の娘よっ! それに! むやみやたらと触るでないっ!」


 ナッツさんはものすごくしょんぼりとした顔であたしを見てきた。そ、そんな顔で見たって嫌なものは嫌なのよっ!

 ナッツさんの悲しそうな表情を見ないようにして、マンションのエントランスに向かった。エントランスの扉を開けようとしたら、すっと手が伸びてきて扉が勝手に開けられた。開けようと思って伸ばした手はそのまま宙を切り、むなしく所在なさげにぶらぶらと揺れていた。その手をナッツさんはそっと握ってきた。

 流れるような動作が美しくて呆然とナッツさんを見ていたら、あろうことか手の甲にキスなんてしてきた。

 ぎゃあああ! ちょちょちょちょちょちょっと! わーわーわーわー!

 とにかくパニックに陥った。

 ナッツさんはミルクチョコレートにはちみつでもかかっているのではないか、というくらいのあまーい笑みを向けてきた。ぼん、という音がしたんじゃないかというほどの勢いで頭に血が上り、ゆでダコのようにあたしの頬が真っ赤に染まったのを自覚した。

 そんなあたしを見て、ナッツさんはさらに笑みを深くしてあたしを見て、自然な形でエスコートしてエレベーターの前にまで連れてこられた。あれ、鍵で開けないと開かない自動ドアがあったはずだけど、いつの間に開けられていたの? 疑問を口にしようとした時、エレベーターが到着した。中に乗るように促され、素直に乗り込む。なにも言わないのに住んでいる階のボタンを押し、エレベーターは閉じられた。

 誘拐ではない、というのは分かったんだけど……。 本当にこの人、何者?

 とにかくあたしがしようとすることをことごとく先回りしてすべてやってくれるから、馬鹿みたいに後ろをついていくしかなかった。なにかをやってもらう、ということに慣れていないから落ち着かない。あたし、お嬢さまにはなれないかも。

 あたしの家はこのマンションの最上階にあった。ふたり暮らしにはもったいないくらい広い間取りで、ここを売り払ってもう少し狭いところでもいいと思っていたけど、駅まで徒歩五分の好立地、には勝てなくていまだに引っ越せないでいた。

 ナッツさんは家の扉の前に立ち、あろうことかポケットから鍵を取り出して……。

「なんでうちの鍵を持っているのよっ!?」

 あせって自分の制服のポケットを確認した。

 ……ない。

 もしかして、リムジンの中で密着してきたときに盗られた!?


「手癖の悪い執事ねっ!」


 罵声にナッツさんはそれはそれは素晴らしい笑みであたしを見て、


「おほめいただき、ありがとうございます」


 と優雅にお辞儀までしてきた。

 ほめてないわっ!

 あれにはあんな目的があったのか、と思ったらあんなにドキドキした自分がバカみたいでさらに疲れがプラスされた。

 ナッツさんはあたしの鍵で家を開け、ドアを開けてくれた。あたしはぎろり、とにらんで


「ここまでで結構です。入ってこないでよっ!」


 ナッツさんが持っているかばんと家の鍵を奪うようにして受け取り、ドアを閉めようとした。


「チョコ、お帰り」


 あたしの声を聞きつけたらしい父が太い身体を揺らしてにこにこと玄関にやってきた。こんな時間に帰ってきてるって……。


「お、お父さん、とうとうリストラされちゃったのっ!?」


 こんな時代だもの、いくらできる人でもリストラされちゃうこと、あるわよねぇ。


「はっはっは、残念だね。ボクが仕事をやめればチョコは楽ができるだろうけど、会社がボクのことを離してくれないさ」


 そうでございますか。わたくし、安心いたしましたわ。


「今日はチョコに大切なお話があってね」


 ついに再婚ですか、お父さま!?


「那津くんもあがりたまえ」


 あたしの後ろに立っていたナッツさんにそう声をかけていた。……那津?

 疑問に思いつつも、靴を脱いで上がろうとしてふと下に視線を向けると、父の靴の横に見覚えのない妙にきれいな男性用の靴が一足、置かれていた。

 ん? 再婚話なら女の人の靴がないとおかしいわよね? ま、まさかっ!? お父さま、あっち方面の方だったんですかっ!?

 頭の中にはイケナイ想像……というより妄想が繰り広げられた。

 え、やだ。お父さん、せめて女の人にしてっ!

 いつまでも玄関で固まっているから、ナッツさんは心配そうに顔を覗き込んできた。……顔が近いっ!


「ナッツさん!」

「千代子さま、お父さまがお待ちですよ?」


 ふんわりと微笑まれ、またもや自分の頬が熱を持ったことが分かった。だけどこれ、どうしようもできないじゃない? きれいな顔の男の人にこうやって顔をのぞきこまれて恥ずかしくない女の子なんていないと思うわよ。ナッツさん、そのあたりをきちんと分かっていてわざとやっている風でもあるし。これだからいい男は困るわ。

 ため息をつき、靴を脱いでリビングへ向かった。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+


 リビングに行くと、父は見知らぬ男性と談笑していた。

 烏羽色の癖の強い堅そうな髪、赤墨色の人懐っこい瞳。甘いマスク、という言葉はこの人のためにあるんじゃないかと思わせる風貌。男にしては少し大きめの目に二重のまぶた、長いまつげが甘さをさらにプラスしている。そして少し厚めの唇が近寄りがたくなりがちないい男を中和しているように思えた。ナッツさんとはまた違ういい男に、鼻血が出そうだった。

 普段、男慣れしてない上にこんないい男を間近で見ることができて、正直、なんだかお腹がいっぱいな気分。

「チョコ、ようやく来たか」

 父はにこにことあたしを見ている。


「ここに座って」


 そう指示したのは、見知らぬ男性の隣の席。

 おとうさま?

 戸惑った顔で固まっていると、ナッツさんがあたしをひょい、と抱えて……。


「うわああああ! やめてえええええ!」


 つい何時間か前に渡辺さんがされていたのと同じお姫さま抱っこであたしはソファまで連れて行かれ、見知らぬ男の人のあろうことか膝の上にあたしを置いた。ちょっとどういう嫌がらせですか、これはっ!?


「那津、うれしいけどこれは少し積極的すぎないかなぁ」


 ナッツさんのした行為に赤墨色の瞳に困った色を乗せてあたしとナッツさんを見ている。あわてて男の人の膝の上から降りようとした。


「おっと、急に降りたら危険だよ」


 あたしの少しお肉のついた腰のあたりを押さえて男の人は止める。いやん、凹凸がないのがばれるから、触らないでっ!

 ナッツさんは知らん顔をしてあたしたちの後ろに立っていた。

 父はあたしと男の人のやりとりをにこにこしたまま見ている。

 や、やっぱり……。

 お父さまの大切な話って、この人と結婚するからきみたちも仲良くなってね、ということですねっ!?


「だ、大丈夫ですから触らないでくださいっ!」


 男の人は少し苦笑して、カーペットの上に足をおろしてしっかり着地したのを確認してからようやく手を離してくれた。


「うんうん、仲が良くて結構」


 父は眉尻を下げまくってあたしたちをにこにこ見ている。あああ、やっぱりそうなんだぁ。なかなか再婚しないのもおかしいよねぇ、と思っていたのよ。父ったら、そんな性癖を持っていたのね。

 それでは母とはなんだったんだろう……? ま、まさか偽装結婚!? いや、でもあたし、どう考えても母の子だし……。うーん……。

 難しい顔をして唸っているのを父は不思議がっていたが、にっこり微笑んでとんでもないことをのたまってくださった。


「彼の名前は橘圭季たちばな けいき。チョコ、きみの婚約者だよ」


 へぇ、婚約者。

 やっぱりおと……。

 こっ、婚約者っ!?


「だ、だれのっ!?」

「千代子、きみの」


 父はにっこりとほほ笑み、あたしを見ている。


「うん、仲は悪くないみたいで、ボクは安心したよ。仕事があるからボクは会社に戻るね。チョコ、今日は遅くなるからボクのご飯はいいよ。きちんと戸締りして寝るんだよ」


 父はそれだけ一気に言うと、その巨体に似合わない敏捷さであっと言う間に玄関に向かって出ていった。


「お、お父さんっ!?」


 あたしが声を出した時はすでに父は玄関から出ていった後だった。無情にも鍵をかける音が鳴り響く。

 家の中には、名前しか知らない見知らぬ青年となんとなく危険な香りのする執事。……なんだ、この取り合わせは。あたし、なにか悪いことした?

 授業中にお腹がすいたからってこっそりチョコレートを食べたのがいけなかった? 本当は無塩バターなのにないからいいや、と思って普通のバターでケーキを焼いたのがいけなかった? あとは……あとは……。

 意外に思い当たらないものね、悪い事って。思ったよりも善人だったようで、自分にほっとした。

 ……いや、ほっとしたところで状況はまったく変わらないから!

 そうしてようやく先ほど父の言った言葉の重大さに気がついた。婚約者、というのもそれはもう重大事項なんだけど。

「た、橘ってっっっ!?」

 父の勤務している会社の名前は『橘製菓』。そんな父が連れてきた「橘圭季」なる人物。

 ちょおおおっと、まていっ!


「た、橘ってっ」


 さっきから同じことしか聞いてないような気がするけど、それだけ気が動転しているということを分かって!

 あたしのあせりなんてまったく気にしていない、父から橘圭季と紹介された男性はあたしの錆色の髪の毛を面白そうに引っ張っている。


「本当にチョコレート色なんだぁ」


 あたしはその言葉にムッとする。


「髪の色のこと、言わないでよ!」


 あたしは産まれた時から母譲りの錆色の髪──分かりやすく言うとチョコレートのような茶色──で、お菓子の日に産まれたのと髪の色と合わせて『千代子』……愛称がチョコ、になるように名前をつけられたのだ。あたしにとってチョコ、というあだ名はかわいいし気に入っているんだけど、どうしてもこの髪の色だけはコンプレックスで……。小さい頃から男の子にこの髪の色についてからかわれていたから余計に嫌なのもある。そのせいで男の子って苦手なのよね。


「おれはこの髪の色、好きだけどな」


 そんなことを言われたことがなくて、びっくりして橘さんを見た。


「おれなんてこんなに黒くてかたい髪で結構困るんだぞ」


 そういって橘さんは自分の髪の毛をもしゃもしゃとして見せた。そうしたら急に立花先生を思い出して、ムッとした。……なんでここで立花先生が出て来るのよ!?


「お昼、まだ食べてないんだろう?」


 脈略もなくいきなりそう聞かれて、驚いて橘さんを見た。


「なにが食べたい? おれ、作るぞ」


 橘さんはソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。


「あああ、あたしが作りますっ!」


 お客さん(?)に作らせるなんて、とんでもない! あわてて止めに入ると、


「あれ、本当に雅史さんからなんにも聞いてないの?」


 橘さんは歩みを止め、あたしに向き合う。聞くもなにも、まったくもってなにがなんだかわかりませんっ!


「橘さんがあたしの婚約者というのも今、初めて知りましたっ!」


 橘さんは楽しそうに口角をあげ、あたしを見た。


「聞いてないんだ。……じゃあ、おれも教えない」


 うっわー。なんですか、それっ!? 新手のいじめ?

 後ろではナッツさんがおかしそうにくすくす笑っている。


「ほら、那津。おまえもできるんだろう、千代子さまにとびっきりのお昼をごちそうしてさしあげよう」


 ナッツさんはジャケットを脱いでソファにかけた。ベスト姿も素敵……。

 なにを見とれてるんだ、あたしっ!?


「千代子さま、見惚れていましたか?」


 ナッツさんは横を通り過ぎる時に耳元にくすりという笑みとともにそう囁いてキッチンへと向かっていった。

 きぃ、なによあれっ! 完全に思考を読まれてるじゃない、あたしっ!!

 今日、初対面のはずの男ふたりは仲良くなぜかわが家のキッチンを独占して料理を作っている。あたしはどうすることもできなくて、部屋に戻って制服を着替えることにした。

 ジャケットとスカートを脱いで、楽な恰好に着替える。

 制服のブラウスを洗濯かごに持って行き、ついでに洗濯機を回すことにした。洗濯機に衣類を適当に放り込み、洗剤を投入してスイッチを押す。洗濯層の中に水がたまっていくさまをぼんやりと見つめていた。

 なんだかいきなりとんでもない状況のような気がするんですけど。

 水がたまり、ぐるぐると回り始めた洗濯機を見ていたら、ナッツさんがあたしを探していたようだった。


「千代子さま、こちらにいらしたのですか」


 洗濯機のふたをして、離れた。


「探さないで済むように首輪でもつけておきましょうか」


 丁寧な言葉でとんでもないことを言われ、かなり引いた。


「く、首輪って、あたし、犬じゃないですよっ!」

「茶色いふわふわの髪に甘いにおいをさせてるなんて、子犬みたいなものじゃないですか」


 だから男の人って嫌いよおおお! そうやってあたしの見た目を悪く言うじゃないっ!?

 あたしたちの言い合いを聞きつけたのか、橘さんがやってきて止めてくれた。


「那津、チョコをそうやっていじめない」


 橘さんがナッツさんの頭をこつん、と叩いた。


「暴力反対!」

「こんなもの、暴力のうちに入らないだろう? それより今言ったこと、チョコに謝れ」

「嫌だ。本当に子犬みたいなんだからな」


 ナッツさんはさっきまでの強気そうな雰囲気を一転させて、少し泣きそうな顔をして橘さんを見上げている。その表情の方がよほど捨てられた子犬のようで、あたしはくすり、と思わず笑ってしまった。


「ほら、ご飯にしよう」


 橘さんはナッツさんの頭を掴んでキッチンへ向かった。あたしはその後ろについて行った。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+


 テーブルについて、驚いた。作り手が変わると冷蔵庫に入っていたあの食材たちがこんなにも変わるのか、というくらい驚きの品々がテーブルに乗っていた。


「仕事柄、これくらい作れないとな」


 あたしの感嘆の声に橘さんは満足げにそう呟いていた。


「お仕事って……。橘製菓でお仕事してるんじゃないの?」


 あたしの疑問に橘さんは笑ってごまかしていた。

 なんだ、そのごまかし。あやしい。

 ナッツさんがあたしの椅子を引いて座るように無言の圧力をかけてきたので黙って席に着いた。あたしの正面に橘さんが座り、あたしの横になぜかナッツさんが座った。そしてナッツさんは離れていたはずの椅子をぐいと引き寄せ、あたしの真横に持ってきた。


「千代子さま、はい、あーんして」


 ちょっとまてい!


「自分で食べられますっ!」


 なんでこの人はこんなに突っ込みどころ満載なことをやってくれますか?

 ナッツさんから箸を奪い、いただきますと小さく合掌した。ふと見ると、橘さんはやさしい目をしてあたしを見つめている。


「あ、あの……」


 戸惑って橘さんを見た。


「チョコの口に合うかな?」


 少し不安そうな表情でそう呟き、橘さんは食事を始めた。

 用意されていた汁物椀を手に取り、口に含んだ。

 うわー、美味しい! しっかりと出汁がとってあって、それでいて絶妙な味噌の濃さ。このお味噌、難しいのよねぇ。


「美味しいです!」


 美味しくて夢中でご飯を食べていた。

 いつもはお菓子のために腹八分目を志しているのに。


「ごちそうさまでした」


 不覚にもお腹いっぱいに食べてしまった……。

 お腹一杯になったら眠くなってしまった。


「食器は那津が片付けるから、チョコは少しゆっくりしていたら?」


 橘さんのその言葉に甘え、自室に戻ってそのままベッドにもぐりこんだ。……なんだか今日はとにかく疲れた……。そのまま夢の世界にいざなわれるまま、眠りに就いた。


【つづく】


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