第5話 ピアノ
真守は、物心ついたとき、人の心を読むことができるのだと気がついた。
後々に、そういう人間が魔道士と呼ばれ、普通ではない人間であることは機関が家を訪れてから知った。
息子が魔道士であることを知った親の大半は子供を手放す。法律で魔道士は国の機関にあずけることと決まっていることもあるし、補償金が下りることも理由としてあるが、不可侵であるべき思考を読まれるというのは、人々にとって苦痛を伴う忌まわしいものだからだ。
真守の親も当然例外ではなかった。
「いきなりそんなことを言われたって…お金をもらっても納得なんて出来ません」
真守の母親は真守を抱きしめて、機関の人間を睨みつけた。
村上家にある日、真守が魔道士であるため保護をするという旨の手紙が来たらしく、黒いスーツに身を包んだ男は真守を連れに来たらしかった。初めて真守が機関の人間を見たときだった。
「村上さん。貴方は人に知られたくない過去はありませんか?それが、息子に見られることを考えたことはありますか?」
「帰ってください、真守は私の息子です」
機関の人間はあっさりと家を後にした。真守が母親を見上げると、母親は何とも言えない目で真守を見ていた。
その数日後、真守は機関に預けられることになった。
魔道士の少年全てが、そうして親に手放されて、ここにいる。
「ん、…っ」
真守は伸びをするとベッドから起きる。隣にいるコトネはまだ寝ているようだった。
魔道士は、人の心を読むからなのか分からないが頻繁に夢を見る。真守は久々に子供の頃の夢を見た、と思った。
あれから帰路についた真守とコトネだったが、コトネはひどく気分が悪かったようで、あれから直ぐに寝たのだった。
訓練の影響か、眠気もあまり感じない。起きる時も苦苦痛を感じないから、真守はかなり早起きだった。
真守は部屋で一人、教官の言葉を考えていた。
『魔女に同情はするなよ』
『情は必ず捨てろ』
魔道士は魔女を管理する以外の最終的な任務がある。その時に魔女への情があれば任務を遂行することが困難になるからだろう。
「真守、起きるの早いのね」
「あぁ、コトネ。気分は大丈夫?」
「まあね」
「これからコンサートでも行くか?」
コトネは「コンサート!?」と驚きつつも嬉しそうな様子だった。
「行きたい!私あまり出かけたことがなくて…どんなコンサート?」
「これだな、機関が用意してくれたチケットとパンフレットなんだけどクラシックらしい。コトネはクラシックが好みらしかったから」
コトネにパンフレットを渡しすと、コトネがパンフレットを読み込んでいた。
コトネと出会った時、真守がコンサートに行こうと提案した以上コトネをコンサートに連れて行こうとは考えていた。魔女の管理をよりスミーズに行うため、魔女との信頼関係を構築するために機関に依頼して手配したチケットである。
「そっか、真守は覚えててくれたんだね」
「コトネはずっとピアノの練習のために家にいた、ように思ったから…今日の今日にはなるけど夕方からだから夕方に出よう」
真守はその間に機関への届出と報告、そしてある物品の届け依頼を済ませてコンサートの時間までの間、コトネはずっとパンフレットを見て鼻歌を歌っていた。
そうして、コンサートの時間。コトネは白いワンピースを纏って出かけた。何度か電車を乗り継いで会場に向かうと、場違いではないかと思うほどの紳士淑女が会場に入っていた。コトネがそわそわしながら会場へ入っていく後をついていきながら、真守も釣られて心が弾むのを感じた。
チケットを入口で見せ、会場に入って指定された座席に座る。真守は開演までの時間会場を見回した。
ずっと機関で生活していたことと、魔道士の性質からあまり人ごみは得意ではないけれど、会場に座る観客の意識は町を歩くよりも静かで、落ち着いたものだった。自分はコンサートも曲も、音楽にも精通しているわけではないが、今回の演奏はオーケストラで、観客の思考の中にある曲イメージからある程度の曲も察することができた。
と、コトネが囁いた。
「なんだか、ドキドキするね」
真守は、コトネの言わんとすることを察知して顔が熱くなるのを感じた。そのタイミングで会場は暗くなり、拍手の音がして慌てて拍手をした。会場が暗くなってよかった、と真守は思った。指揮者が前で頭を下げ、楽団に向き直り指揮を振る。
演奏が始まった。
コトネが、真守のことを恋人のように意識していることには気がついていた。
そしてそれは、コトネが精神的に頼る所がなく男性に対する耐性もないからだと真守は理解していた。彼女は色んなものに巻き込まれた被害者なのだという同情と、自分を慕ってくれている嬉しさの反面、真守は彼女の気持ちには絶対に答えられないという申し訳なさが心の重りとしてずしりと巻きついていた。
彼女の境遇が普通の家庭なら自分は好意を寄せられていただろうか?彼女のそんな境遇と気持ちに漬け込んで利用しているのではないだろうか。好きにさせるようにしておいて、彼女の力を余すところなく死ぬまで利用するのが機関なのだ。そして真守はその機関の一員だった。
観客の気持ちは、音楽に向いていて、皮膚が痺れて鼓膜が震えるほど素晴らしかった。心に靄を抱えながら曲を聞いている自分が虚しくなってしまう程だった。
隣のコトネを見やると、目は爛々と輝いていて少し口を開けたその様子が、会場に流れる音と照明も相まって見惚れるほど綺麗だった。
コトネは視線に気がついたのか、横目で真守を見ると真守の手の甲に手を添えて、少し微笑んだ。
「(ありがとう)」
口に出したのか、心の中なのか、真守にはわからなかった。
彼女の心の中に響く演奏は、自分の鼓膜で感じるよりずっと優美で情報量が多く洗練されコトネの感動が感じ取れた。そして、それと同じくらいに真守と一緒に居れることも嬉しく思っているようだった。
演奏中はずっとコトネの手に触れ、休憩中はコトネの感想を聞いて、コンサートはいつの間にか終わっていた。コンサートの熱気なのか、コトネに触れたことでなのか、帰りも頬は熱いまま帰路についた。
「そうだ、コトネ」
真守はアパートの鍵を開けながら言った。
「今日はもう指令も来ないみたいだし、コトネもピアノ弾いてみたら?」
驚くコトネを後に真守は部屋に入って、電気をつける。
アパートの部屋の壁は防音にリフォームされていて、部屋には白いアップライトピアノが置いてあった。アップライトピアノとは、グランドピアノの置けない場所に置く用のピアノだ。ピアノの上にはCDプレイヤーが置かれていた。
「え…。全然気がつかなかった」
「コンサートに行っている間に、ね。CDはまたどこかで買おう。今はコトネのピアノ聞かせて」
真守は「ほら」とコトネを促すと、コトネは嬉しそうにピアノに向き合って座った。コトネは嬉しそうに姿勢を正して、鍵盤蓋を開けてから、振り返った。
「真守、ありがとう」
「できるだけ音を外に漏らさないようにできる?」
「余裕よ」
コトネからは、どうせなら雰囲気を出したいという感情を感じ取ったと思えば、アパートの一室はコンサート会場に、ピアノはグランドピアノに様変わりした。
コトネを読み取ると、アパートのこの部屋以外に魔界の影響はなさそうだった。しかし、魔界と外は、音も光も漏れえないほどかなり強力に隔絶されていた。
自分たち二人しかいない、二人だけの世界。コトネはそこに喜びを感じているようだった。
「観客は、真守だけ。贅沢でしょう?」
「とっても」
真守は客席の一番前に座った。
「セットリストは、私の心の中にあるから」
つまり、コトネは自分の心を読みながら聞いて欲しいということだろう。
自ら、心を読んで欲しいというのは、真守の中ではありえないことだった。魔女でも一般人でもその真守の考えは正しいものだろう。だからこそ、コトネに信頼されているのだと嬉しくなると同時に、申し訳なさと、教官の言葉と、苦しさの中で息ができなくなりそうだった。
魔女は、精神的な強い負荷を受けたとか、幼い頃に抑圧されていた少女である確率か非常に高い。魔女はその生い立ちから、特に自分を理解してくれる人間に依存する傾向にある。
コトネは何処にも頼れるところがなかったから、自分に依存しているのだ。
「(エリーゼのために)」
誰しも聞いたことのあるだろう、ベートーベンのピアノ曲だ。コトネは、彼女の母親が叱責下とはとても思えない音色を紡ぐ。
幼少の頃からの音楽の教えと、彼女の両親の遺伝だろうか、彼女の思考は研ぎ澄まされていて、彼女の絶対音感はその音色の一つ一つに反応していた。
彼女の耳を通して聴く名曲は思わず息を呑むほどだった。
「(月光)」
鍵盤を踊る指は楽しそうだった。コトネの顔が見えなくても、心が読めなかったとしても、後ろ姿でわかるほどに。
コトネの生み出す綺麗な音は、紛れもなくコトネの努力の賜物だった。コトネは寝る時間も与えられず、ひたすらにピアノの練習をさせられていた。彼女の部屋はピアノと楽譜だけだった。
コトネはピアノで寝て、ピアノで起きる生活だった。食事も簡素なもので、全てをピアノに費やさせられてきた。だから、なにげないベッドが嬉しくて食事が取れることが嬉しくて仕方が無かった。
「(カノン)」
コトネは、真守といる時間が楽しいのだと伝えてくる。
母親にピアノの練習をさせられているときは、ピアノが苦痛だった。魔女となってから機関にあてがわれた部屋の中で憧れのふかふかな憧れのをだそうと考えていた。しかし、決まってピアノが姿を現した。
コトネにとって、皮肉にも、一番嫌いだったピアノが一番離れられない存在になっていた。
「(G戦上のアリア)」
穏やかな曲が続き、真守は流れる曲をじっと聞いていた。
コトネの母親はコトネがミスをするたびに、「●●」と言って罵った。母親のこの声を聞くと反射的に怖くなってしまう。
スーツの人間がやってきたとき、コトネは抵抗しなかった。コトネが無意識に作り上げた魔界によって声を失った母親を見て自分はここにいてはいけないのだと思った。
コトネは機関に入れられた。孤独の中、コトネのピアノを聞きたいという真守の存在は大きくなった。
「(真守、聴いてるのよね。私は━━━━)」
曲と共に、コトネの心にも聞き入っていた真守は、まるで電源を切るようにコトネから意識を離した。
コトネの続く言葉を遮るように。この先の言葉を聞いてはいけないと思った。
音が消え、演奏が終わったようだった。
「いい演奏だった」
余韻が消えたところで、真守が拍手をすると、コトネは顔を赤らめて椅子を降り、深々とお辞儀をした。
周りの景色はいつものアパートの一室に戻った。かなり長い間、魔界にいたのだろう窓から夕日が差し込んでいた。
コトネは、微笑みながら涙を流していた。そうして、真守の胸に顔を埋めた。真守は、ただコトネの背に手を回して抱きしめた。