【第1章3】独り回想につき ♯
改稿済みです。
走っていた。
騒がしくなっていた食堂を一人出て行き、タイルの広場を横切った。
早朝の泥道。木々の上にかかる薄い霧。身をきるように鋭い風は、もう吹いてこない。口から出てくるこの息は見えないほどかすか。揺れる肩に、一瞬宙を浮く両足。ふっと身体が浮いたと思えば、すぐ片足のつまさきが地面につく。
昨夜の雨でぬかるんだ泥が、勢いにおされて飛んだ。かかとまで濡れた土についてしまう前に、身体は前へ浮かび上がる。そしてまた両足が上に。交差して前に出てきた足が、つまさきから地に触れた。
顔を触れては離れていく風。鋭くはない。思えば、やわらかいくらいだ。風は匂いを運んでくる。冬の終わりに咲く花、春の予兆を知らせる花。
霧、いや靄か? 前方を走っているはずの人影も薄い。足音は聞こえてくるが、それだけだ。短い息継ぎも、悪い足元で滑るような音も聞こえない。ときどき、水溜りのふちを踏み込んで、水音が飛び込んでくる。
リオンジアスは、息を吐いて空気を吸った。繰り返されるその動作は永遠。彼の前を走る影との距離は、変わらないように思える。
リオンジアスには最近、思い出せないことがある。実際、五年も経てば鮮明に覚えているはずもないのだが、そこだけがとけない雪で覆われているかのよう。
走りなれた道。すぎゆく景色をいつも見ていた。今日のように、濡れた道も何度も通った。水溜りができる場所はほとんど決まっている。だから、水溜りを避けるのは簡単だ。
この時期は日が昇るのが早い。彼が家を出たときの暗さは、西に追いやられている。
(リブシアに、ぼぉーっとしていると言われた。何でだろう? 俺には思い当たることがな……い、とはいえないか)
夢を見た。彼はいつもほとんど覚えていないし、実際見たという夢すらおぼろだ。ただ一枚の絵のような映像が、かすみかけながらも浮かび続けるのだから。だから気になって仕方がない。
月はない。わずかな星の光のもと、暗闇の中独り少年。手にした棒のような物を、思いっきり振り上げた姿。
リオンジアスの視点は、その少年から離れている。しかし闇の中に溶け込めない人影は、輪郭だけがはっきりとしていた。少年の黒に染まる顔で、唯一光るのは煮えたぎるような瞳。戦慄を覚えるほど、その目は強い感情をこめていた。
彼は、頭のなかの映像に目を凝らしてみる。走るのは今までの慣れに任せて。
「あ……」
その目に浮かぶ色濃い感情には、見覚えがあった。ついさっき、今日のさきほどリオンジアスが見た人のもの。口元の『笑み』に殺気をにじませていた、その少年の目だ。
リアン。リアンビル、だ。
(じゃあ、あれはリアンビルなのか。でも、少し背が低かったような)
正直、あれは幼い姿だった。背丈は今の十歳ぐらいに見えた。それでも、あのリアンビルの目。それだけは異様な光を放つ。実際の年を飛び越えた、強く黒い感情が目に表れていた。
(きっと、あれは十歳の頃のリアンビルなんだ。でも、なぜその姿を夢に――?)
人が夢をみたとき、夢には何か意味があるらしい。そう聞いたことがあったリオンジアスは、意味を考え始める。ちょうどリオンジアスが思い出せない記憶の、あたりの年頃だ。そのことに気づいたリオンジアスは、もう一度注意深く映像を見た。
周りが暗いということは、遅い時間に違いない。星も見えているのだから、夕方と朝方はなくなった。それとリオンジアスはこの映像の背景に、見覚えがあった。この背景は、彼の家の窓から見えるものだった。
そう気づいた瞬間、風が急に吹き抜ける。花びらを巻き込んでリオンジアスの隣を通り過ぎた春風。リオンジアスは足を止め、風の行方を捜すように振り向いた。春風は花びらを空に届けようと舞い上がる。
ささやかな春の香りに吸い込まれそうになる。むせ返るほど陽気なその香りに思わず息を呑む。そしてリオンジアスは、頭に突然流れ込んできたそれに目を見開いた。
「これって、あの時の……?!」
風と共にやってきたそれは、彼の記憶。なぜか鍵のかかった引き出しにしまわれていた、記憶は埃をかぶることなく色新しくあった。
それこそ、リオンジアスの集中力を乱す原因。見つけ出せなかった鍵は夢自体だった。
数多くの記憶が、いるべき場所に戻っていく。その多さにリオンジアスは頭を回しそうになる。そしてその記憶たちが、隠されてしまわれていた事実に疑問を覚えた。
『剣の習い』の卒業の試験として、始めに言い渡されたこと。つまり走ることを、リオンジアスは一時放棄する。彼は足を止めるだけでなく、示された道をはずれて住宅の多い方へ、方向転換した。その方向には、彼の家がある方向だ。
彼の目的は摩り替わった。すっと、足を持ち上げて試験に遅れないように、リオンジアスが出しうる最高の速さで駆け出す。
突然、かすみはじめた風景。走りながら周りをみる余裕を捨てて、一心に目先の道に集中する。
いくつもの住宅を過ぎて、リオンジアスはようやく目的の場所にたどり着いた。彼が目的として捉えていたものを目の前に、リオンジアスは息を整える。走りに少しでも全力を出せば、疲れは見えた。
息が普通になってきたところで、彼はそこに目を向ける。見れば、リオンジアスが夢に見た風景が広がる。
日がまだ現れていない。そうとはいえ、真っ暗と表現するには明るい。明るさの面でいえば、完全に一致するとはいえないが、ほかはほとんど変わることがない。約五年経っても、全然変わらなかった。
彼の家の窓、それは木々の立ち並ぶところに面する。そこは程よい広さをたもっており、十歳の子供が木剣を振り回すには十分すぎるくらいである。また、易々と人目につかないこともあり、リアンビルがこの場所を選んだのは良い判断だったといえる。
ここへ来れば、何かが分かっていると思っていた。そう過信していたリオンジアスは、落胆したように肩を落とす。
「俺は何を期待していたんだ……。手がかりなんてないって、始めから分かってたのに」
一人であてもなく呟いた。空に背を向け、木立を前にぼうぜんと立って。いつまでも永遠に、そうしていられるような気がした。
さわさわ、と小刻みに揺れる無数の枝。見えない風は木々の上を掠めるようにして通り過ぎる。夜が明ける寸前にリオンジアスが見たのは、薄黒い自分の影だった。
……い、……てを。
「ん――?」
ひときわ葉が揺れたとき、誰かの声が聞こえたように感じた。聞こえるはずはない、と彼は思った。聞こえるほど近くに、人がいないからだ。
いくら彼の家のすぐそばといえど、ほとんどの住民が寝ている時間だ。それに、大きな木のざわめきのおかげで、より近くに寄らないと聞こえない。それほど寄ればどんな人間だろうと、気配が感じられる。
幻聴であったと結論付けたリオンジアスは、首を動かして周りを見渡す。
そうすれば、自分自身の謎について分かりそうだった。だけどもう失望していた。もう疑問なんてどうでもいいと、頭を振った。
視界が横に揺れたとたん、冷たさを覚える。のどの奥から激しい何かが、突き上げるように押し寄せる。急に息が苦しくなって、 リオンジアスは膝から崩れ落ちる。無意識のうちに両手が首のあたりをさまよう。
口から出掛かった黒いものは、そのまま彼から出て行くように見えた。しかしその片鱗を見せたかと思うと、すとんと消えた。苦しみも何もなかったように。
のどにつっかえていたものを、飲み込んでしまったかのように消えてしまった。困惑する彼は地面に座り込む。湿り気のつよい地面にズボンの布が吸い付き、すぐに重たくなる。
おそるおそる首や、口元に触れてみた。何も変わらない。起きてすぐ顔を洗ったときと、何ひとつ変わった感触はしなかった。
リオンジアスは今のは何だったんだろうと、心の中で問いかけてみる。わずかに舞い上がった粉塵は、ただの埃? かたく閉ざされた扉にかかった鎖が、一瞬音を鳴らしたのは錯覚? 強く訴えかける、謎の圧迫感はただの気の迷い?
彼にはまったく分からなかった。
今回は短めでした。改稿、第四弾を更新しました。本当の遅くなって申し訳ありません。三月以降息災でありますので、心配は必要ありません。単なる「遅筆」であり、時間がとれないだけであります。
本編を一読された方には、お分かりでしょう事実。それについての伏線を張らせていただきました。まだ読まれていない方は、改稿がそこに追いつくまでお待ちくださいませ。きっと当分先になってしまいますが。
次回の改稿は、ジアス(リオンジアス)の視点を外れまして、ビル(リアンビル)の視点へ移る予定です。楽しみに待っていただければ幸いです。
最後になりますが、誤字脱字等見つけましたら、作者へお知らせください。それでは。