4.急な来訪
踏み固められた土の上に、くすんだ黄色のイチョウの葉が積もる。風がそのイチョウの葉を引きずるようにして運んでゆくと、ある地点でその葉は焔に巻かれて灰になった。
「焔呼びは初めて見たわ。この国は、水呼び(みなよび)が一番多いから」
レオが焔で灰にしたイチョウをみて、ディーははしゃいだ様子で言った。宿の近くにあった庭園で、レオとアイラはディーを連れて彼女の力の練習を手伝っているのだ。
ディーのもともと着ていた服ではあまりに目立ちすぎるので、今はアイラの服を貸していた。
「風呼びが一番少ないのかと思ったけど、違うのね」
そんな彼女の反応を見たアイラが、そう尋ねる。
「焔呼びはほとんどいないわ。噂によると、焔呼びは南の国に多いそうよ。ここは北国だもの。ほとんど水呼びで、次が風なの。でも水使いではなく風使いを風巫女とするのは、どうしてなのかしら」
最後はレオやアイラに答えたわけではなく、ディーが自問したような様子だった。精霊信仰のような、宗教的な歴史の起こりというものは、どうにも曖昧なものが多い。だいたいはその土地の気候など人知ではどうにもならないものに紐づいて、そういう信仰というのは生まれる。事の起こりは曖昧であってこそ浸透しやすい一面もあるから、風巫女の成り立ちなどというものは、正しく語り継がれていないに違いない。
「それで、焔呼びは、強い感情をキーにする……のよね?」
「そうです。最近気づいたのですが、それは、今感じているものでなく、想起した感情でも威力は弱まりますが、代替できるようです」
レオが何の感情を代替して今の焔を出しているのかについては、ディーは空気を読んでか尋ねてこなかった。
アイラはおそらくブレイハ家への憎しみの感情を想起しているのだと思っているに違いないが、それは間違っている。ブレイハへの想いは強すぎて、木の葉を燃やすぐらいの小さな焔では、すまされなさそうな気がして使えないのだ。
だから、自身の感情の中で、嬉しくて焔を呼んでしまった時のことを思い返すことで、ディーの練習につきあうことにしている。
「水、焔、風の中で最もコントロールが難しいとされるのは、風です。逆に最も優しいとされるのは歌です。歌は基本的には意識的な行動ですからね。感情は自覚はできるぶん抑制はできますが、自分の感情の振れ幅をコントロールするのは難しい。だから、水の次に難しいとされます。そして風呼びは、風の気まぐれに適うときにしか、風を呼べないとも」
「風は気まぐれというけれど、本当に何もキーになるものはないのかしら?」
「これは、知人の風呼びの人の受け売りですが……風は、執念に力を貸すと」
「執念?」
「強いこだわり、とも言っていました。何かを成しとげたいという強い思いにこそ、風は力を貸してくれるのだと」
「その人は、どんな執念を持っていたか聞いても?」
「その人は愛妻家で、何に代えてもその人を守る、と」
彼の妻への想いは、まさに執念と呼んでも良いものだ。そしてその思いがあるからこそ、妻に関わることの時は、もはや風使いかと思われるほどに完璧なコントロールを見せていた。
「ディーも強い執念があったから、きっとあの羽を風が運んでくれたのよ」
アイラはそういうと、すっと左腕を上げた。そして手のひらを上にすると小さく手首から上を振った。
それに合わせて、水滴が宙に現れ、はじけ飛び、太陽の光を受けてきらめいた。
「私は水使いだけれど、使い人も、呼び人と同じものをキーにすれば、力を扱いやすくなるの」
そういって、アイラは今度は胸の前で手を組んだ。そして息を大きく吸うと、歌い出した。
それは長い冬が開け、春の訪れを喜ぶ北国の曲だった。最初は静かさの積もるようなメロディーから、徐々に華やかさを増していき、最後は春の陽気さと、それを感じる人々の明るい気持ちを表したようなメロディーへと連なっていく。
歌が最も盛り上がったところで、アイラは胸の前で組んでいた手をほどき、自分の体の前に思い切り広げた。
すると、レオの腕に、冷たい雫が伝った。
はっとして空を見上げると、空は鈍い青に染まり、ぽつりとこれまたぼんやりとした灰色のような、白色のような、そんなはっきりしない雲が浮かんでいる。
雨雲はどこにも確認できないというのに、空からは間違いなく雨が降っていた。それもこの三人の周りだけ降っているから、地面の色が一部分だけ変わっている。
ディーもまた、空を見上げ、そして自分たちから少し離れた場所が、まったく雨など降っていないことに気が付いて、目を丸くしていた。
アイラは最後まで歌を歌いきると、最後に手を遠くに差し出した。すると、その手の指し示した先、レオとディーから数メートル離れた場所に滝のような水が盛大に降り注いだ。宙から現れたその水は、地面に着くと同時に激しい音を立てて細かな水しぶきとなって跳ね返った。
「水使いの力の練習は、雨だと言われているわ。最後のような派手な水の呼び方は簡単だけれど、雨のように細かな水を継続して振らせるのは難しいから」
「それは、風も同じなのでは、ということ?」
「おそらくは。あなたは行動を制約されていた、と言っていたから、派手に風を呼んだことはあったんでしょう?」
「そうね……。建物の屋根を飛ばしたことも、壁に穴をあけたことも、置いてあった像を粉々にしたこともあるわ」
ディーの語った逸話が思ったよりも派手で、レオとアイラは思わず視線を交わして黙り込んでしまった。確かにその派手な失敗をやっていたら、行動を制約したいと周囲の人間に思われても多少、仕方がない部分もあるだろう。
「それはどんな時にそうなったの?」
「風巫女の儀式は、泉の中でいかに大きな風を示すかが大事なの。それが分かっていたから、その練習に大きな風を呼ばなくちゃ、と思っていたら、そんなことに……」
「大きな風を呼ばなくちゃ、という気持ちに焦りすぎなのかもしれないわね。大事なのはイメージよ。私が雨を呼ぶときは、一つ一つの雫を想像するの。それをいくつも重ねていくイメージよ。いきなり大きいものを呼ぼうとすると、難しいから」
「小さな風の積み重ね……」
ディーはそういうと、一歩踏み出した。
そして両手を広げ、それをゆっくりと上に押し上げるような仕草をした。
ディーの手の動きに合わせて、地面に落ちていた木の葉がゆっくりと舞い上がり、始めた。それらははじめは垂直にゆっくりと浮き上がっていたが、徐々に彼女の前に集まってきた。そして渦を描きながらディーの前で下から上へと浮き上がっていくと、ある程度上がったところで渦の中心からすとんと地まで堕ちていき、また地上からの風に乗って上に吹き上げられていく。
木の葉を舞い上げた風は大きく、しかしどこに軌道を外すこともない竜巻となって、空へと風をつないでいく。
ディーがその様子を見て喜びの笑みを浮かべると、彼女の集中が切れたからなのか、竜巻は突如地面へと力強く風を逆流させて地面に這わせた。
その勢いであたりには砂ぼこりがまい、アイラとレオは思わず腕で目をかばった。
「成功したと思ったのに……」
風が収まってから視線を上げると、ディーがしょんぼりした様子で、足元を見つめていた。
「途中まではうまくいっていましたよ。練習すれば、きっと意のままに風を繰ることができます」
レオが慰めの言葉をかけると、ディーはぱっと顔を上げて本当に、と尋ねてきた。
「できます。強い執念があるならば、風は味方してくれますよ」
「……やるわ。私は祖母との約束を果たさなければいけないもの」
ディーはその日を境に、毎日、懸命に練習した。
その上達ぶりはすさまじく、コツを教えているレオとアイラが驚くほどだった。彼女の執念に、風も味方したのだろうか。
そんな風にレオが思うぐらいには、ディーはどんな小さな風も、大きな風も、完全にコントロールできるようになったのだった。
「ここまで上達されたら、私たちにできることはないかもしれないわね」
ディーと出会ってから二週間ほどたった日、アイラはついにそういった。ディーはその言葉を聞いて、嬉しそうな、でもどこか不安を残した表情を見せた。
「どうしたの?」
「これほど力を制御しても、風巫女になれると決まったわけではないわ。本番で、どんなふうに力を使うかが、鍵なんだもの」
「……それは確かにそうね」
力を発揮したいときにきちんと発揮できるかは、日々の努力とほんの少しの運が関わってくる。日々の鍛錬は必ずその力にはなるとはいえ、物事に絶対はないのだ。
「不安がっていても仕方がないわね。もう一度やるから見てなさい」
ディーがそういってレオとアイラから一歩離れ、手を広げた時だった。
「殿下から離れろ!」
突然、背後から飛んできた鋭い声と、レオとアイラの間に割って入った剣が、その場に緊張をもたらした。その剣はピタリとアイラの首筋に突きつけられている。
「アイラ!」
レオは思わずそう呼ぶと、剣を突きつけている相手の顔を見るべく振り返った。
その瞬間、男の剣を持つ方の腕の袖口が燃え上がり、男は驚いて剣を引いた。そして、男とアイラの間に割って入るように地を這う焔が湧き上がる。
その隙に、アイラは振り向きながら男から距離を取ると、男の服に纏わり付くレオの焔だけを、水を呼ぶことで消火する。
「エリック、剣を納めなさい! その人たちは私を助けてくれたのよ」