2.風乗りという力
ごく一般的な宿の一室に、まったく似つかわしくない美少女がいた。
彼女はプラチナブロンドの髪を結い上げ、それをエメラルドの埋め込まれた金の蝶の髪飾りで飾り立てている。宿の部屋はと言えば、ごく普通のシングルベッドが置かれた質素な部屋だった。ベッドは清潔で、シングルベッドとしては広いものだったが、豪奢な格好をしている少女にはつりあわない。
彼女はその部屋にある二人掛けのソファに座り、レオはその向かいにある椅子に座っている。
「それで……名前を、教えてくれるかしらぁ?」
どことなく間延びした喋りかたをするアイラは、ベッドに腰かけ、穏やかな笑みを浮かべながら聞いた。
「私は、ディーよ」
ディーとは本当の名前なのか、愛称なのか、それとも偽名なのか。レオはそんな風に疑ってみるが、その答えが分かるはずもない。ただ、彼女の顔を見る限り、まったくの嘘を言っている、という風には見えなかった。
「ディーは、どうしてぇ、あそこにいたのぉ?」
「分からないわ……ただ、私は風を呼ぶ練習をしていたの。練習をしていて、気が付いたら、あそこにいたわ」
「練習、ということは風使いですか? 風呼びなら、風は気まぐれというから、練習をしたところでうまくは呼べないのでは?」
「風使いではないわ。私は風呼びよ。でも、風を操りたいの」
風呼びとは、その名の通り風を呼ぶ力を持った人間を指す。風使いと異なるのは、風使いは自らの意志で風を呼べるところを、風呼びは、風の気まぐれに敵った時でしか、風を呼べないというところだ。何かをキーとして風、焔、水のいずれかを呼べる人のことを呼び人といい、意のままに風、焔、水のいずれかを操る人を使い人と呼ぶ。
前者はさして珍しくもないが、後者は極めて珍しい人材だ。レオも、アイラ以外で使い人と出会ったことはなかった。
「風を呼ぶ……練習はぁ、何を考えてぇ、やっていたの?」
「何を? そうね……。私は自分の夢のために風を呼ぶ練習をしていたの。その時は、風をうまく操って、外に出る自分を想像していたかもしれないわね」
ディーの返答を聞いて、レオはふと、あることを思い出した。
レオの知人とも恩人ともいえる人が風呼びで、風使いの中でも、特に優れたものだけができることについて話してくれたことがあったのだ。
その記憶が正しいならば、ディーは風呼びではなく風使いだ。なぜ彼女が自分のことを風呼びだと思い込んでいるのかは分からないが。
「ねえ、ディー。私の髪、あるでしょう? これを揺らすイメージをして、風を呼んでみて」
「髪を揺らす? 私はコントロールが上手じゃないから、宿の中でやるのは危険よ……」
「危険じゃないわ。あなたはできる。信じるの」
アイラの口調が素に近づいている。
ここはアイラの部屋である。謎の美少女を預かるにあたって宿のおかみと交渉したところ、少女の部屋も用意してくれたのだが、アイラが話すのは自分の部屋でと進言したことにより、三人はこの部屋にいる。
つまり、ここが破壊された時、最も困るのはアイラである。部屋こそ隣にあるものの、旅の同行者であるレオもそうだ。
しかし、アイラもレオも、半ば、宿を吹き飛ばされたりはしないだろうという確信があった。レオがさきほど思い出した話は、たしかアイラにもしたことがある。彼女も同じことを考えているから、この場所で力を使ってみてと提案できるのだろう。
「さあ、やってみて」
きっぱりとしたその言葉で、ディーは何か思うところがあったらしい。小さく息を吸い、そして、手を前に突き出した。
その瞬間、宿の中で吹きようのない風が、アイラの髪を優しくしたから上へと押し上げた。
アイラはその風を感じて唇を横に引き、そして、断定的な口調で言った。
「ディー、あなたは風使いだわ」
「え?」
「風使いの中でも、力の強い風使いが扱える「風乗り」という技があるわ。私はこの話はレオから聞いたんだけど、レオはラーシュさんから直接聞いたんでしょう? ディーに話してあげて」
アイラはレオの話したことをきちんと覚えていたらしい。久しぶりに聞いた恩人とも知人ともいえる彼の名前を彼女が出したからだ。
「承知しました、お嬢様」
暗に口調が戻っていることを示せば、アイラははっとした様子でディーを見た。そして、小さく息をつき、首をゆるゆると振って言った。
「もういいわ。ディーが私たちを信頼するまでは、ああいう口調の方が馬鹿っぽくて良いと思ったの。でもまあ、この子もそこそこ心を開いてくれたような気もするから」
「さっきまでのは演技だったと? 途中で違う人みたいになったから驚いたわ」
「演技でもあり、半分本当でもあるわ。人生の大半をああいう姿で生きてきたから」
アイラがかつて愚鈍姫と呼ばれていたのは、その間延びした話し方と、全ての動作が緩慢であることが最も大きい。そういう演技を強いられてきた彼女にとって、それはある意味で、人生の大半を過ごした自分自身の姿であり、本来の自分の一部でもあるのだろう。
「話し方なんて些末なことはどちらでも構わないわ。それで、風乗りについて聞かせて」
アイラの演技の時間が短かったからなのか、ディーは思いのほかあっさりと受け入れて、レオの話の続きを促した。
「風呼びの知り合いが言うには、風乗りという技は、一部の風使いにしか使えないもののようです。それはどういうものかというと、風使いが望んだ場所へ、本人を運んでいくというものだと。風使いが強く望んだ条件に合致する場所があれば、行ったことがない場所にでも行けるというのがその技のすごいところですね。ただ、風使いの力の強さによって、どこまで行けるかは変わるようです。それで、この話を覚えていたから、お嬢様と私は、あなたが風使いだと思った次第です」
「それは……つまり……私が風乗りであの場所に現れたということ?」
「それが現状では、一番、納得がいく答えかと」
人が突然現れた。
そんな現象は、ほぼ聞いたことがない。レオとアイラの出身国ルトス王国では、水、焔、風の三つの中で最も風呼びあるいは風使いが割合としては多かったのにも関わらず、だ。
そしておそらく、精霊信仰のあるこのアイヴェサ王国では、風呼びや風使いというのはルトス王国よりも希少性があると考えられる。つまり、一般に風乗りという技が知られていないというのも、不思議な話ではない。
「そして……風乗りで私が現れたのなら、私は風使いである、そうあなたたちは言っているのね」
「そのとおりよ」
レオの代わりに答えたアイラは、おもむろに立ち上がって、ディーの目の前にあるローテーブルにおいてあった空のグラスを手に取った。
そしてその空のグラスをディーへとかざして見せた。
ディーはアイラの行動を理解できず、首をかしげていたが、そのあとに起きたことに驚いたのか、丸い目をさらに大きく見開いて、そのグラスを凝視していた。
空のグラスは、みるみるうちに水で満たされていった。どこからともなく、水が現れたのだ。
アイラが水を呼んだのだった。
「使い人は、何を媒介にすることもなく水や、風や、焔を呼ぶことができる。水呼びは歌を媒介にするけれど、私はこうして、歌もなく水を呼ぶことができるわ」
「水呼びは、このアイヴェサ王国では珍しくはないわ。でも……あなたのように、まったく無音で水を操る人は初めて見た。やはり使い人というのは、どの世にも珍しいのね……」
ディーはそういうと、興味深げにグラスを見つめた。アイラは軽くグラスを揺らして見せた。そして、そっとそれをディーへと差し出した。ディーはグラスを受け取ると、グラスを軽く傾け、水が揺れていく様を眺めた。
「ねえ、教えてほしいことがあるの」
アイラは水の入ったグラスで戯れるディーを見つめながら、静かにそう切り出した。
「あなたはなぜ、自分のことを風使いではなく、風呼びだと思っていたの?




