第93話「青野原の戦い(伍)」
己の渾身の一撃を防がれたことに、恵清は驚愕の表情を浮かべた。
次いで現れたのは憤怒の色である。戦いに横から手出しされ、好機をふいにされた。腹立たしいとしか言いようがないだろう。
「山内経之――経俊が後裔か? 没落した一族の枝葉風情が、この俺の前に立つか」
「今となってはお互い様であろう。むしろ私の方は上り調子だ!」
経之は重茂を庇うように恵清の前へと進み出て、大きく構えた。
鎧はくたびれているものの、手にした刀は良く手入れがされている。
加えて、経之の佇まいには意外と隙が少なかった。
我流ではあるが、数多くの戦場を経て独自のスタイルに辿り着いた武士である。
粗末な見た目に騙され、あっさりと首を獲られた者も少なくない。
「彦三郎、紀平次。ここが武功の立てどきぞ。囲め」
応と声をあげて、経之の郎党がじりじりと恵清を囲んでいく。
恵清はぎろりと周囲を睨みつけると、大薙刀を大きく水平に振るった。
当たれば骨が砕け散る。そんな一撃を警戒しながらも、経之たちは徐々に恵清に詰め寄ろうとしていた。
「――経之殿」
馬の体勢がようやく戻り、重茂は経之の前に出ようとした。
「大丈夫ですか、大和権守殿」
「ああ。おかげさまでな」
「であれば、ここは我らに任せて先に進まれると良い。獲るべきはこの坊主の首ではございますまい」
経之がそう口にした瞬間、目にも止まらぬ速さで恵清渾身の一振りが経之の頭上に直撃した。
かろうじて刀でこれを防いだ経之だったが、あまりの重さで、全身が痺れるような感覚に襲われる。
すかさず身を引きながら、恵清は「ふん」と鼻を鳴らした。
「格の違いというものを知らんようだな。貴様ら如きが、俺を抜いてこの先へ行けるなどと思うなよ」
恵清の一挙一動から放たれる凄まじい圧は、余人の動きを鈍くさせる。
経之も負けじと気合を入れるが、郎党はやや及び腰になりつつあった。
場の空気が再び恵清に傾くか――そう思われた矢先、後続から大勢の騎馬武者が追い付いてくる気配がした。
「格の違い……とかなんとか聞こえたな」
重茂が振り返ると、そこには河越高重・高坂信重の両名がいた。
坂東平氏の中でも大きな勢力を誇る、武蔵有数の武士団の当主たちである。
彼らの周囲は、屈強な騎馬武者によって固められていた。
「大した口を利くではないか。なあ――北条丸」
挑発するような言い草の高重に、恵清は沈黙をもって応えた。
北条丸。それは、北条一族に対する軽蔑の意味合いを含んだ呼称である。普通なら激怒して然るべきところだった。
しかし恵清は応じない。無言で高重たちを見据えるばかりだった。
「大和権守殿。そこの連中も連れて先へ行かれるが良い。この坊主の相手は、河越・高坂両氏が引き受けよう」
「しかし」
「側面は薬師寺殿や安保殿が対応しておる。早く渡河して向こう岸で暴れていただきたい。その方がこちらも助かるのでな」
大丈夫なのか――重茂は口から出かけたその言葉を、どうにか呑み込んだ。
任せろと言っている。そんな武士に対し「大丈夫か」は、侮辱の言葉と同義だった。
「治兵衛。経之殿」
「はっ!」
「応!」
重茂たちは、じりじりと恵清から距離を取りながら奥へ進んでいく。
恵清はそれを追う素振りを見せない。眼前には武蔵国が誇る大武士団がいる。さすがに、これを相手によそ見はできなかった。
「さすがに、我ら相手では格の違い云々を語る気にはならんか」
「ふん、元は頼朝公に仕える御家人同士――とでも言うつもりか」
恵清は腰を低くして、全身に力を入れた。
怒りの言葉は出さない。だが、恵清は間違いなく怒り猛っていた。
「いつの時代の話をしている。貴様らが北条の前に屈したのは弱かったからだ。それが格というものだ。頑迷な貴様らに、今からそれを教えてやる」
「そのときの強弱で格を語るのであれば、どのみち今のおぬしは北条丸よ。それとも、未だに得宗の世が終わった事実を受け入れられぬか」
高重たちも軽口を叩いているだけではない。溢れ出る気迫を全身にまとった武士団が、北条を討ち滅ぼさんと展開しつつあった。
彼らの身のうちには、長年にわたって一族の中で燻り続けた北条に対する不満の念がある。
猛っているのは、恵清だけではない。
この場にいる全員が、今に至るこれまでの長い道のりに――烈火の如き感情を抱いていた。
「――おお」
その判断と動きの速さに、頼遠は感嘆の声をもらした。
不意打ちの一矢は、顕家の鎧に突き刺さっている。それは、頼遠の期待するところではなかった。
彼が狙ったのは宗良親王である。
奥州の軍勢の名目上の総大将たる義良親王でもなく、実質的な総大将である顕家でもなく、彼は第一に宗良親王を狙った。
そうしなければならないと、今の短いやり取りの中で本能が訴えたからである。
今の宗良は無力な親王である。ただ、この状況に振り回されてうろたえているわけではない。
現状をしっかりと把握し、自らにできることがないかと模索し始めている。
後醍醐天皇の皇子たる宗良が、やがて「自らにできること」に気づくようなことがあれば――もしかすると、かつての護良親王の如き存在に化けるかもしれない。
頼遠は、本能的にその危険性を察知して「ここで殺すべき」と断じたのである。
だが、それは顕家によって防がれた。おそらく直前まで宗良を狙うなどとは思っていなかったはずだ。それでも反射的に庇ってみせた。顕家個人の凄まじさというほかない。
「貴様……殿下に弓を引くか!」
「失礼ながら、ここは戦場です。戦場におられる以上、そこらの郎党も殿下も討たれる可能性はございます」
「減らず口を――」
なおも叫ぶ顕家を無視して、頼遠はその向こうで愕然とした表情を浮かべている宗良を見つめた。
その視線に気づき、宗良は「なぜだ」と問いかけてくる。先ほど頼遠は、宗良を認めるようなことを言ったばかりである。
だというのに、なぜすぐさま狙われなければならないのか――。宗良の「なぜ」には、そんな意味合いが込められていた。
「武士というものは、認めた相手に対し、戦場では二つのことしかできぬものなのです」
「二つ?」
「命を預けるか、命を獲るか。申し訳ありません、殿下。私は既に足利殿へ命をお預けすると決めているので、殿下にはこうすることしかできなかったのです」
頼遠は本心から頭を下げた。出会い方が違っていれば、弓引くこともなかったかもしれない。
異変に気付いて、本陣付近の兵が集まってきた。
この辺りが潮時であろう。そう判断すると、頼遠は顕家に向き直った。もはや宗良たちのことは眼中にない。
「失礼。元は貴殿の首をいただく予定だったのだが、思わず欲が出てしまった。改めて出直すゆえ、そのときは是非ともその首を頂戴したく存ずる」
「舐めたことを……!」
顕家は弓を手に取り、頼遠に向けて矢を引き絞った。
頼遠も咄嗟に、応じるような形で矢を構える。
「南無八幡――」
「大菩薩――!」
村上源氏と土岐源氏が、氏神への祈りの言葉と共に矢を放つ。
当人たちにしか分からない、一瞬の空白の後。
両者の矢は、奇しくもそれぞれの兜に弾かれた。
「……八幡神も、未だ決着のときならずと仰せのようだ。では、これにて失礼いたす」
「逃がすと思うか!」
「逃げてみせるとしか申せませぬ。……ああ、いや」
頼遠はちらりと顕家の右肩を注視した。
今の一瞬のやり取りで、そこに不自然なものを感じたのである。
「右肩、お大事になされよ。怪我人相手では、武功にも陰りが生じます」
それだけ言い捨てると、頼遠はおもむろに遠巻きにしていた顕家の近習たちの中へと飛び込んだ。
乱闘が始まる。収まる気配は一向にない。
そして、気づけば頼遠の姿は周囲から消え失せてしまった。





