第92話「青野原の戦い(肆)」
ここに自分たちがいるということを、どれくらいの者が認識しているのだろう。
ふとそんなことを考えて、宗良親王は自嘲した。戦の只中だ。神輿としての役割しか持たぬ皇子のことなど、皆の頭から消え失せているに違いあるまい。
尊澄法親王として叡山にいた頃は、天台座主としてやるべきことがあった。
しかし、父帝と共に叡山を降りて還俗してからは、やれることが減っていくばかりだった。
存在感を示したいわけではない。できれば人里離れた奥地にでも隠遁して、自然の中で歌を詠みあげる日々を送りたい。
ただ、そういうわけにもいかない。後醍醐の皇子として、宗良には役目があった。しかし、その役目を果たす上でやれることがほとんどない。人に任せてばかりである。そういうとき、どうしようもない虚しさを覚えてしまう。
今もそうだ。足利方との戦において、宗良や弟の義良はただいるだけの存在である。
いることに意味があると人は言う。しかし、眼前で憔悴している顕家の姿を見て、そんな割り切り方をすることはなかなかできなかった。なにかできることはないかと思いを巡らせてしまうのだ。
義良は、やや顔を赤くしながらも、気丈な表情を崩さず大将席に座っている。
体調が思わしくない中、幼き身でこのように振る舞っている義良はまだ偉い。
弟と比較して、宗良はますます無力感を募らせた。
「和射見野に集うもののふ多けれど、弓馬を知らぬ身の虚しさよ」
心情が、思わず口から零れ落ちてしまった。
脳裏にあるのは、柿本人麻呂が高市皇子に送ったとされる長い挽歌である。
遥か古代にも、皇統が二つに割れて大きな戦が起きた。俗に言う壬申の乱である。
高市皇子とは、そのうちの一方の大将である大海皇子の子で、和射見野――今宗良たちがいる青野原の辺りを拠点に、軍勢を集めて父の勝利に貢献したことで知られる人物である。
大海皇子は争いに勝利し、天武天皇となって世を治めた。高市皇子は功績を認められ、皇女を母に持たないながらも存在感を発揮し続け、後年は太政大臣として政権の中枢で活躍したという。
自分もそのように立派な人物であればと思ってしまう。
兄・護良が生きていれば、高市皇子の如く父帝の助けになっていただろうか。そんな益体もないことを考えてしまう。
顕家が、心配そうにこちらを見ていた。
「殿下」
「すまぬな、顕家。己の無力に対する嫌悪が、口から零れてしまった。これでは程遠い。兄・護良や、高市皇子には――」
そのとき。
憂いを含んだ宗良の歌とは対照的に、朗々とした歌声が近くから聞こえてきた。
「和射見野に集うもののふ多けれど、雅を詠うは宮の身のみか」
宗良の歌を改変しながら、その男はふらりと自然な足取りで本陣の出入り口に現れた。
歌い終えると同時に膝をつき、ゆっくりと頭を下げる。
「勝手に殿下の歌に手を加えた無礼、お許しください」
「なぜ、手を加えた?」
「価値というものには、様々な形がございます。殿下の価値は、高市皇子や兄君が持っていたものとは異なるものです。それを知っていただきたかったのです」
男の言葉に、宗良はかすかな安堵を覚えた。
他人から認めてもらえるというのは、大きな励みになる。
「その方、名はなんという」
尋ねたのは宗良ではなく顕家だった。その声には警戒の色が多分に含まれている。
宗良はてっきり顕家の近習の一人だと思っていたが、この様子からすると違うようだった。
と言って、ただの雑兵とも思えない。咄嗟に歌を改変したこと、その後の堂々とした振る舞いから、名の知れた者だろうという気がしている。
男は面を上げ、生真面目そうな顔で答えた。
「はっ。土岐頼貞が子――土岐頼遠にございます」
宗良の耳に、弓のしなる音が聞こえた。
重茂たちは墨俣川を着実に進んでいる。
同時に、恵清たちも対岸から重茂たち目掛けて進んできていた。
川の只中での乱戦になる。そうなれば、矢の出番はほとんどない。間違って味方に当たってしまう可能性が高くなるからだ。
「一枚盾を、捨てよ!」
治兵衛の命に応じて、重茂の郎党が一枚盾を川に放り捨てていく。
乱戦になれば、得物で相手の首を掻き切ってしまう方が良い。そのとき盾は邪魔になる。
重茂と恵清の距離は、ぐんぐんと近づいていく。
両者が放つ異様な熱気が、互いの肌で感じられる距離である。
「高重茂――こうして相対するのは神流川以来か」
「いつ以来かなどという問答に興味はない。今日はその首をもらう」
何度目かの対峙。
重茂と恵清は、互いの得物の射程範囲内に入るやいなや、すぐさま凄まじい力で打ち合いを始めた。
恵清の剛力は相変わらずだったが、今日は重茂も後れを取っていない。
以前戦ったときとは比べ物にならない力で、恵清の打ち込みに応じている。
その凄まじい勢いに、二人の乗った馬が猛りいななき始めた。
川の只中で全身全霊踏ん張り続けなければならないのだ。馬も必死である。
先頭にいた重茂と恵清の足が止まり、後続が追い付いてくる。両軍の間で、本格的な乱戦が始まりつつあった。
治兵衛はどうにか重茂の援護をしようと近づくが、両者の打ち合いが尋常ではないせいで、手を出す余地がまるで見えてこない。
それどころか、治兵衛自身敵に囲まれつつあった。人の心配をしている余裕など、この混戦の中にあるはずもない。
「くっ……弥五郎様!」
重茂は恵清相手に互角の打ち合いをしている。以前なら考えられないことだった。
恵清と互角に打ち合ったのは、足利方随一の怪力の持ち主である大高重成くらいである。
本来、重茂が立ち向かえるような相手ではない。重茂が重成に比肩するくらいの力を手に入れた、というようなこともない。
重茂が恵清と戦えるのは、ひとえに覚悟を決めたことによるものだろう。ときに心の強さは、肉体の強さを凌駕する。
しかし、そういった強さには限界がある。長引けば長引くほど、地力の差が表面化してくるものなのだ。
精神の強さが肉体を突き動かそうとしても、やがて肉体がついていけなくなる。
早々に恵清の首を獲れなければ、重茂が討たれる可能性は次第に増していくのだ。
「ぬゥん!」
恵清が下から大薙刀を振り上げる。重茂はそれを押さえようと上から刀を振り下ろした。
その一瞬の隙を突いて、恵清は片手を得物から離し、重茂の馬を殴りつけた。
驚いた馬が思わず体勢を崩し、重茂の身体が大きく傾いた。
争う者たちの声で埋め尽くされた戦場に、一瞬の静寂が訪れる。
実際に静かになったのではない。その瞬間、治兵衛の感覚が飛んだと言った方が正しい。
時間が止まったかのような感覚。それが解けたとき、治兵衛の全身から一気に汗が噴き出した。
恵清は重茂の刀を弾き飛ばし、振り上げた大薙刀をそのまま反転させて振り下ろす。
重茂もそれには気づいている。真っすぐに相手の得物を見据えている。
しかし、防ぐための武器がない。踏ん張れるだけの足場がない。
恵清の得物が、重茂に叩きつけられる。
「――――」
そのはずだった。
「させる、かァッ!」
横合いから飛び込んできた一人の武士が、恵清の大薙刀を弾いた。
あまり冴えない風貌の、一見すると頼りなさそうに見える男。
しかし治兵衛は知っている。その武士が、これまで様々な戦いで功をあげていたことを。
風貌が冴えないのは、数々の戦いで武具がボロボロになってしまっているせいだということを。
自らの会心の一撃を防がれ驚愕する恵清に、その武士は高らかに名乗りを上げた。
「武蔵国が住人、山内経之ここに推参! 武蔵守護を討つこと、武蔵武士として断固認めることはできんッ!」





