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花七宝の影法師~天下ノ執事の弟、南北朝の世で奮闘す~  作者: 夕月日暮
第3章「新星の秋」
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第91話「青野原の戦い(参)」

 墨俣すのまた川を重茂しげもちたちが突き進んでいく。

 先頭に重茂。その周囲を治兵衛じへえたち直属の郎党が固めている。そこから少し遅れて、武蔵むさし上総かずさの小身の武士たちが続いていた。

 率いる者たちが多い大身の武士団は、後方から徐々に追いつきつつあるという格好だった。


 北条ほうじょう方も黙って見ているはずはなく、先頭集団目がけて数多の矢が射かけられてきた。


「構えぇい!」


 治兵衛の掛け声と共に、重茂直属の郎党が掲げていた一枚盾を前方に向けた。

 矢が次々と盾に突き刺さる。

 斬り飛ばすにしろ鎧で防ぐにしろ、これだけ大量の矢が降り注げば少なからず傷を負う。それを見越していた治兵衛が、予め用意させていたのである。


 無論、重い。通常よく使われる盾より軽量なのが一枚盾の特徴だったが、それでも渡河する際にこんなものを持たされるのはかなり辛い。ただ、郎党から不満の声はほとんど出なかった。それだけ治兵衛への信頼が厚かったのである。


 重茂は何も言わず、矢の雨が止まったと見るや前進を再開した。

 治兵衛たちも、黙って遅れじとついていく。


 北条方は矢戦だと効果が薄いと判断したらしい。

 いくつかの集団が、重茂たちを包囲しようと接近してきた。

 なんとしても渡河を阻止するという、強い意志を感じさせる動きである。


 重茂は敵の進軍を見ると、再び歩みを止めた。さすがに一人で敵軍に飛び込むのは危うい。


「皆、構えよ。正面の敵を割って、一気に進むぞ」


 ここから退けば敵の良い的になるだけだ。また、数の上ではこちらよりも北条方が有利である。包囲してくる相手をすべて相手にしている余裕など、重茂たちにはなかった。

 となれば、採り得る選択肢はたった一つ。前線に集まった者たちで、一気に正面の敵を突破するしかない。


 もっとも、そのためには一つ大きな問題があった。


 重茂たちを止めるべく出てきた集団の中で、中央に位置する一団がいる。

 その先頭に立っているのは、見るからに頑強そうな大柄の僧兵――恵清えしょうだった。


 割れるものなら割ってみよ。恵清からは、そう言わんばかりの圧が放たれていた。

 戦場では、時折このような気配を持つ者が現れる。

 今このときこの場において、決して近寄ってはならない。そう感じさせる者が時折姿を見せるのだ。


「弥五郎様」


 思わず治兵衛は呼びかけてしまった。どうにも嫌な予感がしてしまったのだ。

 だが、重茂に怯んだ様子はない。彼はずっと前だけを見つめ続けている。


「治兵衛」


 ほんの少しだけ、重茂は顔を動かして治兵衛を見た。

 治兵衛がずっと見守り続けてきた、弥五郎重茂の顔である。

 思い悩みながらも、こうと決めた目標に向かって歩みを止めない――高重茂の顔である。


「俺たちは、あれを越える。行くぞ」


 敵に対する恐怖はある。しかし怯みはない。

 今の重茂からは、恐れを呑み込んでなにかを成し遂げようとする意志が感じられた。

 恐れを失っていない。そのことに、治兵衛は安堵を覚えた。そういう者は早死にする。重茂は、そうではない。


「――承知ッ!」


 敵は一騎当千の兵かもしれない。それでも、主があれを越えると言うのであればついていくだけだ。

 治兵衛は、老いた身体を気力で突き動かした。




 顕家あきいえ道忠どうちゅうのいる本陣には、各地から戦の状況が伝えられてくる。

 概ね期待通りに推移している。奥州おうしゅうから付き従ってきた顕家股肱の者たちは温存されている。

 新参の兵たちは、獲物を求めて足利あしかが方に次々と襲い掛かっていた。足利方も練度は低くない。次々と返り討ちにしているようだったが、ところどころで足並みの乱れが見て取れた。


「急造の軍勢で追撃してきたのです。指揮系統が無茶苦茶なのでしょう」

「もしかすると、総大将といえる者がいないのかもしれぬな」


 顕家の脳裏には、鎌倉で討ち取った関東執事・家長いえながの壮絶な最期の姿が浮かんでいる。

 家長が生きていた頃は、彼が尊氏たかうじの子・千寿王せんじゅおうを補佐する事実上の東国総大将だったのだろう。

 その後、どういう状況になっているのかは正確に掴み切れていない。ただ、家長のような存在はそうそう替えが効くものではない。それこそ京の尊氏か直義ただよし、あるいは家長の父である高経たかつねくらいにしか務まらないだろう。他にも家格の高い足利一門はいるが、家長の後任となるとそう簡単に務まるものではない。


「ただ、各地でこちらの隙を窺うように動いている騎馬隊がいるのが気にかかる」

「二つ、おりますな。旗の家紋からすると、片方は土岐とき、もう片方は坂東平氏の一流のようです」

「坂東平氏か」

「多くて、どこの誰かは分かりませぬな」


 土岐の騎馬隊は、側面から北畠勢に対してヒットアンドアウェイを繰り返している。

 なかなかに良い動きをする隊で、嫌がらせのようにつかず離れずこちらを牽制してくる。

 もしかすると、例の土岐頼遠(よりとお)が指揮を執っている部隊かもしれない。


 坂東平氏の騎馬隊は足利旗下の誰かが率いているのだろうが、正体がよく分からなかった。

 足利勢の隙間を狙おうとすると、どこからともかく現れ、手痛い一撃を加えて去っていく。

 名の知られた武将ではなく、誰かの被官層なのかもしれないが――なかなか手強い相手である。


 どちらも少数ながら、北畠勢の動きをよく抑えていた。

 早めに潰してしまいたいところだが、そうやって誘い込むことが敵の狙いという可能性もある。


「あまり大きな動きを見せると、西からこちらを窺っている京からの軍勢が襲い掛かってくる可能性があるな」

「あえて襲わせるよう、誘いをかけるという手もあります。近江おうみの道から順に出てこなければならない相手より、既に大軍を展開しているこちらの方が有利ですからな」

「だが、それで軍全体の動きが無秩序になるのは避けたい。急造の軍なのはこちらとて大差ないから、一旦混乱に陥れば立て直すのが難しくなる」


 大軍を維持するというのは難しい。進軍中もそのことは痛感していたが、いざ戦が始まると制御しなければならない点が一気に増えた。

 顕家は本陣から動いていない。傍からは前線で必死に戦っている将兵よりも楽をしているように見えることだろう。しかしその肩に圧し掛かる重圧は、余人が想像し得るものより遥かに重い。


「こちらも騎馬を用いた遊撃隊を動かしたい」

「騎馬ということであれば、坂東の者が一番でしょう。新田にった宇都宮うつのみやの両将を動かすのが最良かと」


 新田徳寿丸(とくじゅまる)は父・義貞よしさだから戦力を預かっている。独自の遊撃隊として動かすには十分の力を持っていると言って良い。

 宇都宮公綱(きんつな)も、芳賀はが禅可ぜんかによって分断されたとは言え、坂東最強とも言われる紀清両党を率いている。こちらも遊撃隊としては申し分ない存在だった。


「顕家殿、私も一度自らの陣に戻ってよろしいでしょうか」


 道忠の申し出は、顕家にとっていささか辛いものだった。

 彼がいなくなれば、いよいよこの重圧を一人で背負わねばならなくなる。


 ただ、結城ゆうき勢は道忠以外に大将がいなかった。道忠の子である親朝ちかともは本領を守るため留守を任されている。もう一人、結城親光(ちかみつ)という子息もいたが、先年足利との戦いにおいて命を落としていた。そのため、道忠以外に大将を務められる者がいないのである。


「……分かった。なにかあれば伝令を遣わす」

「はい。お呼びいただければ急ぎ参上いたします」


 一礼して道忠が出ていく。

 本陣には警備のための兵が何人も待機している。上座には、義良のりよし親王や宗良むねよし親王もいた。しかし、彼らは顕家に圧し掛かる重圧を支える術を持たない。

 道忠が去ったことで、顕家は一人になったようなものだった。




 足利と北畠が対峙している南東から真逆に位置する北側の大地。

 そこを、自在に駆けまわる騎馬隊がいた。掲げられているのは桔梗紋。土岐源氏の家紋である。


「なかなか見事なご采配ですな、御舎弟殿」


 古参の家人からの賞賛に、頼明よりあきはあまり気乗りしない様子で「うむ」と応えた。

 その評価に不満があるわけではない。ただ、兄・頼遠であればもっと苛烈な一撃を北畠勢に与えていただろうと思うのだ。


 土岐頼明は、なにかと頼遠に振り回される生涯を送ってきた。そのせいか、頼遠の言動についていけないと思いつつ、彼を物差しの基準にしてしまっているようなところがある。

 頼明も騎馬隊の指揮官としては相応の力を持っていた。しかし比較対象として頼遠のことを考えると、どうにも物足りなさを感じてしまう。


「しかし、兄上は本当に大丈夫なのだろうか」

「やはりご同行されれば良かったのでは?」

「馬鹿を言え。命がいくつあっても足りんわ」


 頼明の視線の先には、北畠の大軍がいる。

 頼遠は今、その真っただ中に入り込んでいるはずだった。


 目的はただ一つ。この肥大化したと言って良い大軍の頭脳――北畠顕家の暗殺である。

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