第90話「青野原の戦い(弐)」
足利方の諸将も、戦端が開かれたことに気づきつつあった。
後方にいた上杉憲顕も、小笠原貞宗からの連絡でそれを知った一人である。
「小笠原殿はこまめな御方だな」
「そのようなことを言っている場合ですか、殿。我々も打って出ましょうぞ」
好感をもって呟いた憲顕に、焦れた長尾景忠が不満そうな声を上げる。
憲顕は頭を振って、景忠の逸りを抑えた。
「我らが打って出れば、前にいる諸将も前へ前へと進まねばなるまい。結果、味方の戦略を狭めてしまうことになる。ただでさえこちらは数で劣るのだ。まずは戦局を見極めることを第一とせよ」
「そうは言いますが、既に戦っている味方がいるというのに黙って見ているだけというのも」
「じっと待つのも戦いというものだ、景忠。いずれ我らが打って出る機会も出てくる」
もっとも、そのような状況になる頃にはこちらの敗色は濃厚になっていることだろう。
そうならないことを祈りたいところだが、可能性としては低くない。後方から見ていると、味方の動きの統一感のなさが否応なく分かってしまう。敵もじきに気づくだろう。どうにも心臓に悪い。
憲顕は景忠を見た。口は閉ざしているが、相変わらず不満げである。
「じっとしているのが嫌なら景忠、そなた騎馬隊を率いて味方の陣をぐるりと回ってきてくれぬか」
「良いのですか」
パッと表情を明るくする景忠に向けて頷きつつ、憲顕は「ただし」と続けた。
「交戦はするな。敵から射かけられても無視して駆けろ」
「……戦ってはいかんのですか」
「足を止めてはいかん。止めなければ、そうだな――騎射くらいならば良いだろう」
「十分です」
意気揚々と出ていく景忠を見送り、憲顕は大きく息を吐いた。
こうしている間にも戦況は常に動き続けている。前線の小笠原はどうなっているか、よく見えない。
景忠に期待しているのは、足利方の連携のまずさを誤魔化すための動きだった。
各隊がバラバラに動いているだけでは、敵にこちらの問題点をすぐ見抜かれてしまうだろう。
しかし、各隊に合わせて動く遊撃隊がいれば、多少は連携の拙さを隠すことができるかもしれない。
いずれにしても、一時的な対策でしかない。じっと待ちながらも、憲顕はこの状況を打破するための方策を必死に考えていた。
こういうとき、己の功名心を捨てて戦に臨める者がもっといれば――と思ってしまう。
無論、武功のため戦うことが悪いとは考えていない。功名心によって本領を発揮し活躍するタイプの武将もいる。
ただ、今回のような大戦の場合、そういう者たちだけでは限界がある。広い視点で総大将の如く戦況を見られる者が欲しい。
「重茂殿が普段通りの調子であれば、頼ることができたのかもしれぬが……」
良くも悪くも重茂という男は前線指揮官に向いていない。
戦後処理を行う軍奉行としての経験が豊富なだけに、あれこれと考えすぎてしまうところがあり、それが突破力を押さえてしまっている。
ただ、その欠点は見方を変えれば長所にもなる。今回のような局面では真価を発揮できたはずだ。
だが、今の重茂にそれを望むことはできない。彼は一人の武人としてこの戦に参加している。
彼の率いる武蔵・上総の軍勢は、小笠原・芳賀等の信濃・下野勢と同様、最前線にいる。
今頃は、激戦の中に身を置いていることだろう。
「武運を祈る。私にできるのは、それくらいか」
周囲に風はまだない。
世界は、不気味なくらい静かにこの戦を見守っていた。
夜が明けて、重茂は腰を上げた。
結局、夜通し起きていた。北条という敵を前に、目を逸らすことができなかったのだ。
不思議と眠たくはない。身体も心も、どこかすがすがしかった。
「治兵衛、起きているか」
「はっ。ここにおります」
「皆に伝えよ。あの川を渡る」
正面に広がる墨俣川。
その向こうに待ち受ける北条勢を指し示しながら、重茂は静かに宣言した。
重茂率いる軍勢の支度が整うまでの間に、各地で戦が始まりつつあった。
だが、重茂は焦らなかった。敵は十全の構えで待ち受けている。ならば、こちらも相応に準備を整えなければ勝てないだろう。
「武蔵・上総の者ども、皆支度が整いました」
両国の武士を代表する形で、河越高重と薬師寺公義が報告しに来た。
重茂は静かに頷くと、馬上の人になった。
馬にまたがった重茂は、視線を川の方へと――その先に見える敵方へと向けた。
後ろ姿に、大将としての風格がある。普段の重茂に欠けているものだった。
いささか緊張した面持ちで、高重と公義は重茂の言葉を待った。
重茂は静かに手をあげる。
すると、側にいた旗手が花七宝の紋の旗を高々と掲げてみせた。
「皆の中には、俺のことを頼りない大将と思う者もいることだろう」
重茂は振り返ることなく、前を見据えたまま口を開いた。
「俺のことを信じられない。そう思う者も、決して少なくはあるまい」
その独白には、第三者の言葉を拒絶する響きが含まれていた。
肯定の言葉も否定の言葉も、今の重茂は求めていない。
「――だが、この花七宝の旗は違う。これは、新たな世の先鋒を務める旗だ。皆を導く旗だ」
高一族の旗。それを指して新時代の先駆けと評した重茂に、坂東武者の視線が集まる。
足利の家人。ただそれだけの存在だった一族が、新たな世を作り上げる。この男は、今そう言ったのだ。
大胆な発言だが、荒唐無稽な言葉ではない。この決戦を乗り越えれば、足利は新たな武家の世を築くことになるだろう。望もうと望むまいと、そういう流れは出来つつある。そうなれば、高一族はかつて将軍の下で御家人をまとめた北条のような存在になる。
「この旗は皆を裏切らぬ。信じよ。俺のことを信じられぬ者も、この旗は信じよ。信じて、ついてきて欲しい。此度の戦で俺が望むのは、ただそれだけだ」
言うべきことを言い終えると、重茂は馬を走らせた。
心得たと言わんばかりに、治兵衛たち直属の郎党も駆け出していく。
「は――はっ?」
突然の出来事に、坂東武者の間で動揺が走る。
「しゅ、守護自らが先頭に立っていく……無茶が過ぎるのではないか!?」
「……いや、そうとも限らないかもしれない」
驚愕する高重に、公義は後方を振り返りながら応えた。
彼らの後ろに控えていた軍勢は、駆け出した重茂の姿を見て我も我もと動こうとしていた。
「渡河はかなりの危険を伴うもの。なにか強い理由がなければ躊躇してしまいやすい。まして我らは烏合の衆だ」
「それを無理やり引っ張り出すため……ということか。ええい、くそ。者ども、続け、続けぇい!」
細かいことを議論している余裕はない。
大将だけを突っ込ませて死なせたとあっては、坂東武者の名折れである。
高重の号令と共に、支度を済ませていた武蔵・上総勢は一斉に墨俣川へと突き進んだ。
一団が突き進んでくる。
存外、勢いが凄まじい。敵前での渡河だというのに、怯む様子がほとんど見えない。
「敵の士気は高いようですね。いかがいたしましょうか」
香坂源助の問いに、恵清はすぐには答えなかった。
一団の先頭に、見覚えのある顔があったからである。
「大将自らが先に立つとは、あの男、そんな阿呆だったか」
高重茂。これまで何度かやり合ったことのある相手だが、どちらかといえば面白味のない堅実な男という印象を持っていた。
だが、今回は何かが違っているように見える。恵清は、その点がどうにも気になった。
貸せと郎党から弓矢を取り、恵清は狙いを重茂に定めた。
まだ距離はある。だが、恵清の剛力であればかなり遠かろうとも弓矢は届く。
「――シッ!」
鋭い声と共に、力強く矢が放たれる。
思いのほか正確に、その矢は吸い込まれるように重茂目掛けて飛んでいった。
そのとき、恵清と重茂の視線が合った。
遠目からでもはっきりと分かる。重茂は矢と、それを放った恵清をはっきりと認識していた。
次の瞬間――重茂は目にも止まらぬ速さで刀を抜くと、矢を正面から叩き斬った。
避けるわけでもなく、鎧で受けるわけでもなく、あえて斬ったのだ。矢ではなく、まるで恵清を斬るかの如く。
重茂はずっと正面を見据えている。こちらを、北条を討ち滅ぼさんと川を少しずつ進んでくる。
「……源助。今すぐ時行に伝えにいけ」
「なんと?」
「奴らに川を渡らせてはならん。数で有利なことは忘れろ。こちらに渡って来られたら、こちらも無事ではすまぬと思え――良いか、必ずそう伝えろ」
恵清のただならぬ様子に、源助はそれ以上問い返すことなく駆け出した。
それを見送ると、恵清は弓を捨てて本来の得物――見る者を圧倒する大薙刀を手に取った。
「旧時代を超えるつもりか。調子に乗るなよ、足利の家人風情が――!」
恵清の咆哮に、周囲にいた郎党が震え上がる。
怒気とも殺気とも違う得も言われぬプレッシャーを放ちながら、恵清は一歩ずつ、ゆっくりと墨俣川に進み始めた。





