第86話「青野原の戦い・前夜(壱)」
夜の美濃を、数多の篝火が明るく照らしている。
今このときばかりは夜を忘れてしまったと、そんな風に言わんばかりの光である。
足利方は、それぞれの大将が率いる軍勢ごとに分かれて進むことになった。
足利に連なる者もそうでない者もいるが、結局のところは烏合の衆である。
扇の要たる総大将がいない以上、誰かが総指揮を執るのは不可能だった。
ならば、それぞれが好きなように動く方が良い。
基本的な戦略だけは共有しておいて、あとは互いに死力を尽くす。
実にシンプルで分かりやすい。そのはずだったが――重茂の表情は晴れない。
「まるで熱という熱が失われたかのような顔だな、弥五郎」
明日の決戦を前に敵陣を眺める重茂の元に、訪ねてきた男がいる。
「いや、今はこう呼ぼうか。……義兄上」
「――宗継」
高一族の庶流・南氏が誇る才人、南宗継。
重茂にとっては、古くからの友人であり、また亡き妻・葵の弟でもある。
「ようやく話す機会を得た。俺の方もしばらくは忙しくてな。先ほどやっと追いついたところだ」
「そうか」
重茂は腰を下ろして敵陣を見据え続ける。宗継の方には視線を向けない。
「明日は戦か」
「ああ。土岐頼遠が持ち掛けてきた。挟撃を仕掛けようと」
「だが、土岐も我らとさほど兵力は変わらないはずだ。北畠の軍勢相手では荷が重かろう」
「それでもやらねばならん。やると決めた以上、やるのみだ」
重茂たちの陣の先には、美濃の墨俣川が広がっている。
更にその先に、敵陣が見える。遠目でかすかに見える旗には、三つ鱗の紋が刻まれていた。
「宗継」
「うむ」
「すまなかった。お前には、恨まれても仕方がない」
「俺は人のことは言えぬよ。こっちこそ、お前に恨まれても仕方がない。あのとき叡山で、何もできなかった」
師久が戦死した叡山での戦いで、宗継は師久の側にいた。
別に宗継が師久を見捨てたわけではない。タイミングが悪かった。そうとしか言いようがないことだった。
葵のことも同様だと、宗継は思っているのかもしれない。
「こういう世の中だ。人は死ぬ。いともあっさりと」
「お前は昔から、どこか達観しているところがあった」
「薄情だと言われることが多い。そういうつもりはないのだがな」
宗継はどこか寂しそうに笑ってみせた。
重茂への恨みはないのかもしれない。だが、姉が亡くなったことについて想うところはあるのだろう。
「俺はな、義兄上。こういう世の中だからこそ――できるだけ知己には長生きして欲しい」
宗継は重茂のすぐ側に立ち、静かに語りかけた。
「皆が死んでいく。そんな中で、妙にしぶとく長生きするような奴が一人でもいると安心する。それが気心の知れた相手であれば、それに勝る喜びはない。そのように考えることもあるのだ」
宗継が何を伝えようとしているのか、重茂にはよく分かっていた。
だが、重茂から言えることは何もない。分かった、俺は死なぬ。そんな言葉に意味はないのだ。
「お前は明日どうするのだ、宗継」
「俺は後方でやることがある。憲顕殿から頼まれた仕事があるのだ。率いる軍勢もないし、自分の仕事をやる以外にない」
「そうか」
重茂はそのときはじめて腰を上げて、宗継と正面から向き合った。
話したいことはいろいろある。だが、今言うべきことは一つだけだった。
「明日は、互いに務めを果たそう。それが新しい道に繋がる」
宗継はしばし沈黙した後――誇らしそうな、それでいてどこか寂しそうな笑みで応えた。
未来のことは分からない。ただ、今目の前には切り開かなければならない道がある。
先のことを語るのは、そこを乗り越えられたものだけに与えられた権利だった。
重茂と語り終えた宗継を見送る治兵衛の元に、ぞろぞろと何人かの男たちがやって来た。
薬師寺公義、河越高重、高坂信重、山内経之、安保泰規――いずれも、重茂率いる軍勢の者たちである。
「治兵衛殿、率直に伺っても良いだろうか」
「これは皆さま。いかがなされましたか」
本来重茂の郎党に過ぎぬはずの治兵衛に、彼らが直接声をかけてくるのは珍しい。
最初に口を開いた薬師寺公義は、他の者たちに目線で確認を取ってから、改めて切り出した。
「鎌倉を出立してから、我らの大将の様子がどうにも違っているともっぱらの噂になっている。実際、我らから見ても今の大和権守殿はいつもと何かが違っている気がする。治兵衛から見て、今の大和権守殿は大丈夫だろうか」
皆、思いつめたような表情を浮かべている。
決戦前夜、こうして尋ねてきたというのは、よほどの不安があってのことに違いなかった。
明日、重茂に命を預けて奮闘して良いのだろうか――その懸念が、彼らの中で溢れんばかりに溜まっているのだろう。
「心配をおかけして申し訳ありませぬ。もっと早く、皆さまの懸念を払拭しておくべきでした」
「では、治兵衛殿は今の大和権守殿で問題ないとのお考えか」
「然り。むしろ、今までにないくらいの闘志をお持ちのようです」
「それは、冷静さを欠くようなものではないだろうか」
公義が懸念しているのは、重茂が復讐心に取りつかれていないかということだった。
鎌倉で彼が妻を失ったことは、既に皆が知っている。それを討ったのが、今対岸にいる北条勢だということも。
「そうですな。我らが大将は、確かに奥方様の復讐の念も抱いておられることでしょう」
治兵衛がそれを肯定すると、公義たちの表情が硬くなった。
だが、治兵衛は気にすることなく笑って頭を振った。
「しかし、それと同じくらいあの御方は割り切る術を知っておられる。あの御方は武功に恵まれなかった。その分、軍奉行として多くの武功を目にしてきた。武功を目にするということは――それだけ多くの死を見てきたということでもあります」
この感覚が理解できるものは、ほとんどいないだろう。
武士というのは、自らが武功を立てることを良しとする生き物である。
戦という大渦の中に飛び込み、もがきながらも同じ渦の中にいる獲物を狩り続ける。
重茂も大渦には飛び込む。だがすぐに弾き出されてしまい、外からその様子を眺めることが多かった。
望んで得た視界ではない。このように戦場を見ている者はあまり多くはないだろう。
「我らが大将は博覧強記。一度見たものは決して忘れぬという特技を持っておられる。そのような御方が、これまで数多の死を見続けてきた。弟御が討たれようと奥方様が討たれようと、悲しみこそすれ、それに引きずられて我を失うような軟な心はしておりませぬよ」
「では、近頃の変わり様はどう受け取れば良いのだ」
戸惑いながら尋ねてくる経之に、治兵衛は「覚悟の差です」と答えた。
「覚悟?」
「はい。弟御も奥方様も、見事にそれぞれ役目を果たして世を去られた。だから自分も何かを成し遂げねばならぬ。そのような想いが強くなっておられるのでしょう。近頃は役目だとか務めだとか、そのようなことを度々口にしておられます」
言われてみれば――と、何人かが頷いてみせた。思い当たる節があるのだろう。
「此度の遠征。急行軍ではありましたが、皆さまの方では何かお困りの点はありましたかな」
「いや、特にそういったことはなかったが」
「軍勢の編成、兵糧や武具の管理など、問題はありませんでしたか」
「なかったな。いや、不足が出そうなときはあった。だが――」
言いかけて気づいたのか、河越高重は目を大きく見開いた。
「そういえば、不足が出そうになったときは大和権守殿からの支給があった。直接受け取ったわけではないので失念していたが」
「私も、武具に不安があったところ、大和権守殿からということで、新しい弓矢をいただきました」
経之が矢筒を出しながら言った。
他の面々も、それぞれ思い当たるところがあったらしい。
彼らの様子を見て、治兵衛は深く頷いた。
「うちの大将は、我を失ったりはしておりませぬよ。いつも以上の覚悟で臨むが故に少し違って見えているかもしれませぬが、それはむしろ良い傾向なのです。勝つために必要なことはすべて抜かりなく行う。今のあの御方は、そのことで頭がいっぱいなのでしょう」
公義たちの中で燻っていた懸念が徐々に晴れていくのを、治兵衛は感じ取っていた。
多少の方便は混じっているが、彼らに語ったことは治兵衛の本音である。少なくとも治兵衛は、今の重茂にほとんど不安は抱いていなかった。
不安に思うところがあるとすれば、それは一つだけである。だが、それは郎党である自分がなんとかすれば良いと思っていた。
「ご納得いただけたようでしたら、今宵は皆さましっかりと英気を養ってくださいませ。明日は決戦。利根川や鎌倉での戦を遥かに上回る死闘になるでしょうからな」
「――相分かった。治兵衛殿、大将のことを教えていただきありがたく存ずる」
皆、胸のつかえが取れたような表情を浮かべている。
武具も兵糧も足りている。大将への不安もない。それならば、あとは皆が死力を尽くして戦うのみである。
「明日の戦。我らも死力を尽くして戦うことを、改めて約束しよう」
懸念はそのまま闘志となり、坂東武者の心を燃え上がらせる。
重茂の軍勢は、今まさに最良の状態に至ろうとしていた。





