第82話「群雄、美濃へ(壱)」
北畠勢が西へ向かう。
上杉憲顕は、伊豆の山野からその様子をじっと見守っていた。
「よろしいので?」
問いかけを発したのは、憲顕が頼みとする臣の一人・長尾左衛門尉景忠である。
彼もまた坂東を発祥の地とする一族の武士だった。坂東を蹂躙した北畠勢には怒りを抱いている。
一戦交えるのが武士の本懐ではないか――問いかけの中には、そういった景忠の想いも含まれていた。
「ここで戦をしても得るものがない。一時の勇名は得られるだろうが、それでは駄目だ」
憲顕は、自分自身を戦には向いていないと思っている。
少なくとも、軽々しく行いたいとは考えていない。戦うに足る理由がなければすべきではない。
ただ、戦う理由さえあればそれを厭うこともなかった。必要とみなせば、準備を整えて粛々と行う。
「今はまだそのときではない。憲藤からも、鎌倉で軍勢を集めて追跡するという知らせがあった。駿河や三河・尾張にも方針と対策について連絡してある。故に今は支度に専念する。良いな?」
「は――」
不満はあるのだろうが、景忠は静々と頭を下げた。
この主は臆病風に吹かれているのではない、ということを知っているからである。
支度に専念するということは、支度が整えば戦うということだ。
「いずれは戦となる。そのときが、楽しみでございます」
「楽しむなとは言わぬが、第一に勝つことを考えよ」
「は。これは失礼いたしました」
この小言がなければなお良いのだが――そんなことを考えながら、景忠は己が内の闘争心を慰撫する。
そんな二人の後方には、伊豆の反北条派の武士が集まりつつあった。
現有兵力だけでは心許ない。
そう判断した鎌倉勢は、近隣諸国に軍勢催促状を送って増員を図った。
とは言え、あまり悠長には待っていられない。軍勢はすぐに鎌倉を出発することになった。
催促に応じて追いついてきた者を加えながら進軍していく。着到や備の管理が大変だが、今は一刻を争う緊急事態なのである。
「私も一緒に行きたかった――というのが本音だ」
重茂に真情を吐露したのは、帰還した鎌倉の主・足利千寿王である。
彼は坂東における足利の要である。いかなる事態であろうと、基本的には鎌倉から動くべきではない。
千寿王や登子も交えて皆で協議し、その結論に至ったのだ。
「千寿王が行けぬことで苦労もあると思いますが、重茂殿であれば乗り越えられると信じております」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
登子の言葉に、重茂は深く頭を下げた。
千寿王が同行しないため、鎌倉の軍勢はそれぞれの大将が独自に軍勢を率いる形となる。
家長が生きていれば千寿王の名代として総大将になれたのだろうが、家長の代理である重茂はそこまでの格を持っていなかった。
「葵殿の葬儀は、我々が全力をもって執り行う。だが、そなたが見送らねば彼女も気になって浄土へ行けまい。ゆえに、必ず生きて戻られよ」
「義姉上も、それを望んでおられると思います」
何かを危惧するように言葉を添えたのは、頼仲と椿だった。
重茂の様子が普段と違うことを、皆が感じ取っている。しかし、かけられる言葉には限りがあった。
「私は武骨者故、亡き妻が何を願っているかは分かりませぬ。――ただ、己が一念は果たしたいと存じます」
「その一念とは?」
頼仲の問いかけに、重茂は暗い眼差しを向けて応えた。
「敵を討つこと。他に何がありましょうや」
一同は押し黙る。重茂の言葉は間違っていない。
しかし、それに頷いて彼を送り出して良いのかという想いもある。
「和州」
重苦しい空気の中、千寿王が声をあげた。
「私は、まだまだそなたから学ばねばならぬことがたくさんある。――必ず生きてこの鎌倉に戻れ。これは主命じゃ」
幼き主からの言葉に、重茂は「承知いたしました」と頭を下げる。
その表情は見えず、言葉が本当に届いたのかどうかも分からない。
ゆっくりとその場を後にする重茂を、一同は見送るしかなかった。
承服しかねると子が声を張り上げる。
相対する父親は、決まったことだと頭を振った。
「今こそ河越氏が一致団結して戦に加わる。そうじゃなかったのか、父上」
納得できない様子で怒りの形相を父に向けているのは、河越直重だった。
これから北畠勢を追うというタイミングで、彼は父から武蔵残留を命じられたのである。
「千寿王様をお守りするための手勢も必要だ。これは既に守護殿にも承知いただいている決定事項ぞ」
「今坂東で千寿王様に手を出そうという奴なんているのか。そういう奴はほとんど北畠に従って行っただろうが」
「どこに何が潜んでいるか分からぬ」
「それは建前だろう。本音で話してくれぬのか、父上よ」
これまで父・高重は、河越氏の勢力を維持することを第一に考え、千寿王や武蔵守護の重茂への協力には消極的だった。
だが、先日の戦において足利が武士の棟梁としての意地を見せつけた。それによって高重も足利を認め、一族をあげて協力することを約束した。そのはずだったのだ。
「足利殿に協力する。その点に偽りはない。千寿王様を守る者が必要というのも本音だ」
「だが、まだ話していないことがある。そうではないか」
「……まあ、そうだな」
先に折れたのは高重の方だった。彼は神妙な面持ちで息子を見据える。
「おそらく次は決戦となろう。互いに死力を尽くして戦い合う。そういう戦になると、わしは見ている」
「ああ」
「仮にわしとお前が両方とも参陣して、揃って討ち死にしたら――我ら一族はどうなる?」
高重の問いかけに、直重は言葉を詰まらせた。
死なないとは言えない。戦は常に死と隣り合わせである。
死を思わず戦に参加するような武士がいるとすれば、それはよほどの大物かよほどの大馬鹿であろう。
「言っておくが、わしは死を恐れておるのではない。死は、それはそれで軍功になる。活かす者がいれば、存分に活かしてもらいたいと思っている。だが、活かす者がいなければただの無駄死によ」
「父上が死んだら、その功を俺が活かせ、ということか」
「逆も然りだ。坂東とて安全とは言い切れまい。お前が死ねば、わしはそれを最大限大きな功績となるよう取り計らってもらい、一族のために利用させてもらうつもりだ」
武士にとっての死は、そういう一面を持つ。
しかし、それも家が残っていればこそ意味を持つのである。残らねば、ただの死だった。
「ま、お前にわしの本気の戦ぶりを見せられるのは残念だがな。それはまたの機会にと思っておくことにしよう」
「言ったな。なら、俺に見せるまでは勝手に死んでくれるなよ、父上」
「当たり前だ。さっきはああ言ったが、わしはこれっぽっちも死ぬつもりなんぞない」
不敵に笑い飛ばす高重に、直重はようやく引き下がった。
河越氏だけではない。
山内経之も、高坂氏重も、安保泰規も、坂東に残る一族に何かを託している。
前途を切り開くため。そして、己の家を守るため。彼ら武士は、身命を賭して決戦の地に向かうのである。
そんな武士たちが集まった鎌倉勢が出発したのは、それからさほど経たぬ頃のことだった。
北畠勢の進軍は順調だった。
伊豆を越え、駿河・三河を横断し、早くも尾張に辿り着こうとしている。
道中足利勢が仕掛けてくるかとも思ったが、そういう気配はほとんどなかった。
戦のためだと物資の調達も行ったが、それに対する抵抗もなかったという。
「いささか集まりが悪いところはございましたが――」
おそらく坂東の惨状がこちらにも届いていて、事前にどこかへと物資を隠したのかもしれない。
懸念する道忠を労うと、顕家は義良親王の元へと向かった。
最大限の配慮はしているが、行軍中ということもあって、義良親王には大分無理をさせている。
近頃は体調を崩しがちで、顕家は度々様子を見に行っていた。
「お身体はいかがでしょうか、殿下」
「顕家か。すまぬな、心配をかける」
昨日見に来たときよりは顔色が良い。
義良はこの過酷な遠征について、一言も文句を言わず、よく顕家の意を汲んでくれていた。
「私は担がれることしかできぬ身だと思っていたが、担がれることすら上手くできぬ身なのかもしれぬ。そなたには迷惑をかける」
「臣として至らぬことばかりと思っております。殿下は本来、京で健やかに過ごされていたであろう御身。このようにご無理を強いることになって、まことに申し訳ございませぬ」
「京で健やかに過ごせていたはず――というのは、そなたも同様であろう」
身分は違えど立場は同じだと、義良は笑ってみせた。
「無理を強いられているのが私だけなら良い。しかし、この遠征はそなたも皆も無理を強いられている」
「殿下」
「忠孝の道を違えたいとは思わぬ。だが、帝に従うばかりが良いわけでもない。近頃、そのようなことを考えるのだ」
義良は、父である後醍醐天皇の命で京から奥州に下向することになった。
そして、此度は父の命で奥州から遠征している。子として、そして皇子として帝たる父に従うためだ。
しかし、それは忠孝でこそあれ、徳に繋がるものではない。
「吉野に辿り着いたら父と話してみたい。ただ、何を言えば良いかまとまらぬ。顕家、そなたにも一緒に考えて欲しい」
「それは――」
「私はそなたから多くのことを学んだ。私の言葉はそなたの言葉でもあると思っている」
「過分なお言葉、恐悦至極にございます」
学んだという点では、顕家も同様だった。
奥州の武士を、そして義良を見て様々なことを知った。
京にいたままでは得られなかったであろう経験だ。
「実を申しますと、私も帝には言上したき儀があります」
「ならば、共に行こう。帝のおられる吉野の地まで」
「はい。この軍勢をもって、必ず」
阻むものなき大軍勢が、吉野への道を切り開く。
坂東という壁を乗り越えたことで、顕家の目には、この長い遠征の終着点が見えてきていた。
三河の先に広がる濃尾平野。
その広大な地に割拠する美濃源氏の土岐氏は、今大いに揺れていた。
かつて足利尊氏を敗走させた奥州の北畠が、今また坂東の足利勢を蹴散らし、この地に迫っているのである。
土岐氏は長くこの地で栄えた一大勢力だが、そんな彼らにとっても、北畠は脅威以外の何物でもなかった。
しかしその中にあって一人、まったく物怖じせずに平原を駆け抜ける騎馬武者がいる。
「――否! 戦わず見過ごすなど、言語道断!」
普段は礼儀正しく静かだが、内に秘めたる情熱は常人のものとは比較にならない。
溶岩の如く熱くなった闘志が、その男の全身からあふれ出ていた。
「土岐氏は全力をもって、北畠と一戦を交える! この土岐弾正頼遠――他に採り得る道を知らぬ!」





